第8話 ⑦
「——ずいぶんと派手に氷漬けにしてくれたじゃない」
吹き込んだ冷たい風と共に現れたのは、見慣れた赤髪の女性だった。
まだ顔色は僅かに蒼白く、扉の枠に軽く寄りかかってはいるものの、その双眸にはかつての鋭い光がしっかりと戻っている。
「ヴィエラ……!」
「ヴィエラさんっ!? まだお一人で出歩いちゃダメです、お怪我が……!」
ルミィが慌てて駆け寄り、その細い身体を支える。
ヴィエラは「大げさね」と小さく息を吐きながら、ルミィの肩にそっと手を置いた。
「数日寝込んだおかげで、多少はマシになったわ。いつまでもあの陰気な部屋の天井を眺めているのも退屈でね。様子を見に来てみれば……」
ヴィエラの視線が、凍りついたままの床と、隅で震えている若い男女、そして見慣れない若草色の髪の少女へと順番に向けられる。
「一体、何があったの?」
「あ、あのですね……」
ルミィが手短に、駆け落ちしてきた二人と追手の男たち、そして莉子が魔法で追い払ってしまった顛末を説明する。
話を聞き終えたヴィエラは、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「なるほどね。……呆れた。相手が貴族の私兵であれ裏社会のゴロツキであれ、ここで派手に魔法をぶっ放した以上、あいつらは必ず仲間を連れて戻ってくるわ。ここに残れば店ごと潰されるわよ」
「それは……」
「当分、店は休業ね。ほとぼりが冷めるまで一度街を出た方がいいでしょう」
ヴィエラの決断は早かった。
そして彼女は、冷ややかな視線を床にへたり込む若い男女へと向ける。
「で、そこのお嬢さんたちはどうするつもり? ここに長居はできないわよ」
「わ、分かりません……ただ無我夢中で逃げてきただけで、あてなんて……」
「あのっ」
青年の悲痛な声を遮るように、ミーシャが元気よく手を挙げた。
「それなら、隣領の交易都市アルケスまで逃げるのはどうですかぁ? あそこなら領主が違うので、追手の権力もすぐには及ばないはずです」
どうやら彼女なりに、ここに至るまでの旅で地理には詳しくなっていたらしい。
ミーシャはそのまま莉子の方へと振り返り、目を輝かせた。
「私、お二人をそこまで護衛します。莉子さんも一緒にいかがですか?」
「……え、なんで私が」
「だって莉子さん、本当は街を出て誰かを探しに行きたいんでしょう? でも、一人で追いかけるのは怖い。だったら、このお二人の護衛を口実にすればいいじゃないですか」
「っ……あんたねぇ……」
無神経なまでに図星を抉ってくるミーシャに、莉子は声を荒らげそうになる。
しかしそんな様子を前にしても、ミーシャはどこ吹く風だ。
「ほらっ、お店閉めなきゃいけないならどのみち時間はあるでしょう?」
「はあ、まあそうだけど。でもそのアルケスっていう街がどこにあるかは分かるの?」
「もちろんっ! 大体あっちの方角ですよ」
「大体って、そんな適当な……」
意外とミーシャは大雑把な性格なのかもしれない。
莉子は内心呆れつつも、エプロンのポケットに忍ばせていた『羅針盤』の存在を思い出した。
——クラウスから手渡された、陽菜の居場所を示す鈍色の金属。
莉子はおずおずとそれをポケットから取り出し、そっと掌の上で開いた。
ガラスの向こうで、星を象った指針がわずかに震え、ピタリと一方向を指し示す。
(……嘘でしょ)
莉子は息を呑んだ。
針が指し示しているのは、奇しくもミーシャが提案した隣領の都市アルケスと、寸分違わず同じ方角だったのだ。
「何です、それ?」
ミーシャが不思議そうな顔を向けたが、莉子は「何でもないわよ」と言って誤魔化した。
偶然か、必然か。
どちらにせよ、これ以上逃げる理由はなくなった。
——後は、しっかり彼女に伝えなくちゃ。
莉子はヴィエラへと向き合った。
その空気が伝わったのか、彼女も莉子をじっと見ている。
「貴方はどうするの」
ヴィエラが、静かに問いかけてくる。
まさか、この期に及んで言い訳はしないでしょうね——その真紅の瞳は、そう雄弁に語っていた。
「……今度こそ、間違えない。だから、どうか、もう一度私に機会を頂戴」
値踏みするような鋭い視線が莉子を貫く。
しかし莉子は決して顔を逸らさない。もう覚悟は決まっている。
やがて、ヴィエラは小さく息をついて、
「……勝手にすれば」
と言った。
まだ、完全に許されたわけではないだろう。
しかし、彼女の口元は少しだけ緩んだように見えた。
「良かったですね、リゼ様」
「な、なんか分からないけど、良かったんですかねぇ……?」
優しく微笑むルミィと、事情を知らないミーシャが口々に喋っている。
莉子は羅針盤をポケットに乱暴に突っ込むと、頬に差す熱を誤魔化すように顔を背けた。
「あくまで、この二人を安全な場所まで送り届けるついでよ。……足手まといになったら、即刻置いていくからね」
「は、はいっ! よろしくお願いします、莉子さん」
ミーシャがぱあっと花が咲いたような笑顔を見せる。
心を見透かされたような居心地の悪さと、自分にはできない「手放すこと」を息を吐くようにやってのけるこの少女への得体の知れない苛立ち。
それでも、自分が喉から手が出るほど欲している正解を、彼女が持っているような気がしてならない。
だから今は、この気持ちを胸に連れて行こう。
「……ルミィ、ヴィエラ。店のことは、ごめんなさい。でも、必ずここへ戻ってくるから。だから、どうか一緒に来てくれるかしら」
「もちろんです! 言ったでしょう、私はどこまでもリゼ様にお供しますよ」
「貴方だけに任せておくのは不安だもの。それに、あの方を助けたいのは私も同じ」
短く交わされた言葉の中に、かつてアパートでぶつけ合った蟠りはもうなかった。
ルミィとヴィエラの後押しを受け、莉子は深く息を吸い込む。
(もう、逃げる理由はない。待っててね、陽菜。今度こそ、貴方を連れ戻す)
さらに一日が過ぎ、慌ただしく旅の支度を整え、莉子は喫茶リリーの重い木扉にしっかりと鍵を下ろした。
常連の客たちには申し訳ないことをしたと思う。昨日の一件の後、莉子たちは必死に謝った。
店をめちゃくちゃにしたこと、そしてしばらくリリーを閉めなければならないこと。
きつく目を閉じ頭を下げる莉子に、男性客が声をかけた。彼はいつもカウンターに座り、年が明けた最初の営業日に、『あんたも、淹れられたんだな』と言ったその人だった。
『俺には繊細な味の違いなんて大したことは分からない。——だが、やはりこの喫茶店は、あのお嬢さんがいないとらしくないな』
その言葉に莉子が顔を上げると、その男性は優しい笑顔を向けていた。
他の客たちも『いってらっしゃい』『ちゃんと連れ戻してこいよ』とそれぞれに言葉をかけてくれている。
莉子はこみ上げる温かな熱を感じながら、もう一度深く頭を下げるのだった。
吹き抜ける冬の風は冷たいが、店を後にした莉子の足取りは不思議と軽い。
空を見上げれば、遥か高い蒼穹がどこまでも澄み渡り、これからの長い旅路を予感させるように果てしなく広がっていた。
目指すはアルケス。
元勇者と現勇者。人間と魔族の参謀たる二人。そして身分違いの逃避行を続ける男女。
いびつで奇妙な六人の旅が、今ここに幕を開けたのだった。




