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第8話 ⑥

(——愛じゃない。ただの醜いエゴ、か)


 男の言葉が、莉子の脳内でぐわんぐわんと反響している。

 相手の幸せを願うなら、執着を捨てて手を離すのが正しいのかもしれない。

 それは追手の男の言い分であり、同時に、先ほどのミーシャの相手の選択を尊重するという主張とも、形は違えど根底では繋がっている。


 どちらの『正しさ』も、傷つくと分かっていても陽菜を無理やりにでも連れ戻そうとしている莉子の想いを、真っ向から否定するものだった。

 自分の中にある熱は、ただの醜いエゴだ。そんなことは最初から分かっている。

 分かっているからこそ——無性に腹が立つ。


 自分の醜さをこれでもかと突きつけてくる男の正論も。

 それを前にして、己の弱さごと受け入れようとしているミーシャの達観も。

 何もかもが、今の莉子にとってはたまらなく目障りだった。


「……下がって、ミーシャ」


 低く、地を這うような冷たい声。

 男が剣を振り下ろすよりも早く、莉子は静かに右手の指先を弾いた。


 パキキキィンッ!


「なっ——!?」

「人の店で……何やってくれてんのよ」


 微細な魔力操作。莉子の足元から不可視の冷気が地を這い、男たちの足元を一瞬にして凍りつかせた。


「うおっ、何だ!? 足が——」

「吹き荒れなさい」


 莉子が短く詠唱した直後、店内を凄まじい突風が吹き抜けた。

 それは氷の粒子を伴った目眩ましの吹雪。視界を奪われ、凍えるような寒さに耐えきれず、氷の上で無様に足を滑らせた男たちが悲鳴を上げた。


 先程までミーシャを襲おうとしていた男が、苦虫を噛み潰したような表情で莉子を睨みつける。


「仕方ありません、ここは一旦引きましょう……。ですが、こんな茶番をしたところで、お嬢様方が自由になることは決してありませんよ!」


 男はそう言い残し、連れ立った仲間たちと共に店の外へと逃げていった。


 ものの数分の出来事。まるで嵐が過ぎ去った後のように、店内を静寂が満たした。

 床には、お互いに肩を抱き合う男女が弱々しくへたり込んでいる。


 二人を一瞥して、莉子は内心ため息をついた。

 今の彼女の胸の内には、正義感など微塵もない。そこにあるのは、ただ己の居心地の悪さと苛立ちをぶつけた自分への嫌悪感だけだった。


 しかし結果だけ見れば、それは図らずもミーシャにとって称賛すべきものだったらしい。

 彼女は、がばっとこちらを振り返った。


「すごい……莉子さん、今の魔法……!」


 きらきらと目を輝かせたミーシャが、尊敬の眼差しを向けてくる。


 やめて……そんな褒められるようなものでは決してないのに。

 莉子の表情はミーシャの向けるものとは裏腹に、氷のように冷たく硬ざめていた。


「別に。さっさとこの場を終わらせたかっただけよ」


 吐き捨てるようにそう言い放つ。

 

 守りたかったわけじゃない。ただ、正しさを振りかざす連中に、これ以上自分の心を荒らされることが許せなかっただけだ。

 ミーシャから視線を逸らし、莉子は男たちの入ってきた扉を見つめていた。


「……怪我はない?」


 莉子はため息を一つこぼすと、床にへたり込んでいる青年に向けて、ぶっきらぼうに手を差し出した。


「あ、はい……助けていただいて、本当にありがとうございます……っ」


 青年はその手を取って立ち上がりながら、震える声で礼を口にする。

 しかし、その表情はどこか暗く、彼の視線は床に落ちていた。


「……でも、さっきの男の言う通りかもしれない。僕みたいな後ろ盾のない人間が、彼女を連れ出すべきじゃなかった……僕が手を離すのが、一番正しい愛の形なんじゃないかって」

「……ふざけないでよ」

「え……?」


 青年の弱音に、莉子の顔がサッと険しくなった。

 彼女は差し出した手を強く握り締め、青年を鋭く睨みつける。


「相手の幸せのためだとか、それが正しいからだとか……そんなもっともらしい理由で、勝手に手を離そうとしないでよ」

「で、でも……」

「一度その手を引くって決めたんなら、周りに何を言われようが、泥を被ってでも最後までしがみつきなさいよ! 格好つけて手を離したところで、残るのは後悔だけなんだから……っ!」


 語気が荒くなる。

 自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、彼らの姿に、そして「愛ゆえに手を離すのが正しい」という男の言葉に流されそうになる青年に、どうしようもなく苛立っている自分がいる。


「リゼ様、もうやめてください」


 莉子の言葉を遮ったのは、ルミィだった。

 彼女は悲しげに眉を下げ、莉子の袖をきゅっと掴む。


「彼らを責めても仕方がありません。……リゼ様は今、彼らの姿に陽菜さんを重ねていらっしゃるだけです」

「っ……! そんなこと、ないわよ」

「いいえ。陽菜さんがいなくなってから、リゼ様はずっと……」


 ルミィの切実な声に、莉子は奥歯を噛み締めて顔を背けた。

 痛いところを突かれた。彼らに当たってしまった己の不甲斐なさに、どす黒い感情が胃の底から込み上げてくる。


「ヒナさん、ですか」


 ふと、横からぽつりと声が落ちた。

 

 振り返ると、ミーシャが床に落ちていた自身のレガリアを拾い上げながら、じっとこちらを見つめていた。

 先ほどまでのぽわぽわとした空気は鳴りを潜め、その垂れた瞳には、底知れない静かな理知の光が宿っている。


「なるほど……。莉子さんがそんなにも必死なのは、誰かを追いかけている途中だったからなんですね」

「……あんたには関係ないでしょ」


 威嚇するように睨みつけるが、ミーシャは怯まない。

 彼女は剣を虚空に納めると、真っ直ぐに莉子の目を見つめ返した。


「ええ、関係ありません。……でも、不思議ですね」

「何がよ」

「そのヒナさんという方を泥を被ってでも連れ戻すって、すごく強い目をしているのに」


 気の抜けたような声。しかし、その目が莉子の内面を見透かすような鋭い光を帯びた。


「その割に、その人に会うのが怖いって顔をしてます」


 ——ドクン、と。

 莉子の心臓が、早鐘を打った。


 図星だった。

 陽菜を力ずくで取り戻したいと渇望しながら、同時に「どんな顔をして会えばいいのか」「今度こそ完全に拒絶されたらどうしよう」という、致命的な恐怖と矛盾。


 自分でも直視しないよう誤魔化してきたその泥濘を、出会ったばかりのミーシャは完璧に見抜いたのだ。

 

 「私……私は……っ」


 言い返す言葉が見つからない。息が詰まり、莉子が視線を彷徨わせた、その時だった。


 カラン、カラン……。


 エントランスの扉が、ゆっくりと重い音を立てて開いた。

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