第8話 ⑤
翌日から、ミーシャの喫茶リリーでの住み込み生活が始まった。
「おおおお……っ! 豆を入れたはずなのに粉末になって出てきましたよ! これも魔術なんですか、莉子さんっ!」
「ただのミルよ。ほら、鍋に火かけるから火傷注意して」
「はわわ、黒いお水なのにすっごく良い匂いがします……! これが『こーひー』……!」
小さな鍋の中でコーヒーの粉末が煮出されていくのを、ミーシャはカウンターに身を乗り出して、目をキラキラと輝かせながら見つめていた。
さらに、大量に純化し保管していた小麦粉を練って、『白いパン』を焼き上げると「おおーっ!」と拍手喝采を送る始末である。
「な、なんですか、このとんでもなく柔らかそうなパンはっ! 食べてもいいですか!?」
「ダメに決まってるでしょ。閉店のときに余ってたら食べていいから」
喫茶店の器具やメニューを見るのも初めてらしく、何を見ても新鮮なリアクションを返す彼女の姿は、見ている分には子犬のようで飽きない。
ただ、そのテンションの高さのせいで、莉子の教えるペースは遅々として進まなかった。
「あのね、あなたは見てるだけじゃなくて自分でも淹れられるようにならないとダメなの。ほら、お皿拭いて」
「はいっ! 任せてください、私これでも筋力には自信があるんです。……ああっ、割れちゃいましたぁ!」
「なんで皿拭くだけで砕け散るのよ!」
ドタバタと騒がしい。
それでも、彼女がいるだけで、重く沈んでいた店の空気がいくらか明るくなったのは事実だった。
陽菜がいなくなった穴は大きいし、ヴィエラともまだ顔を合わせていない。
それでも、この騒がしさに毒気を抜かれている間だけは、莉子も自分の中の仄暗い感情を忘れることができた。
——だが、そんな穏やかな時間は、唐突に破られる。
カランカランッ!
昼下がりの穏やかな空気を切り裂くように、乱暴な音を立ててエントランスの扉が開いた。
転がり込むようにして店に入ってきたのは、見知らぬ若い男女だった。
二人とも肩で激しく息をしており、その顔には深い疲労と切羽詰まったような焦燥感が浮かんでいる。
「い、いらっしゃいま——」
「お願いです、匿ってください……っ!」
ルミィの挨拶を遮るように、男の方が悲痛な声を上げた。
見れば、女の方は男の腕の中で今にも倒れそうになっている。
ただ事ではない。莉子がカウンターから身を乗り出そうとしたその時、再び扉が乱暴に開け放たれた。
「往生際が悪いですよ、お嬢様」
入ってきたのは、揃いの黒い外套に身を包んだ、ガラの悪い数人の男たちだった。
腰に帯びた剣の柄に手をかけ、威圧的に店内を見回す。そのただならぬ殺気に、店内にいた数人の一般客が悲鳴を上げて壁際に逃げた。
「こんな貧乏くさい男と逃げたところで、不幸になるだけです。ご両親もひどく心配しておられますよ」
「何度も言ったでしょう。私は、あの家には帰りません……っ!」
「お戯れを。お父上の敷いた安全な道の上を歩くのが、貴方にとって一番正しい人生なのですよ。さあ、大人しくお帰りいただきましょう」
追手の男が身を屈め、強引に女性の腕を掴もうと手を伸ばす。
力ずくで連れ戻す気だ。
莉子が舌打ちをし、自身の『青の聖剣』を顕現させようと右手に魔力を込めた——その刹那。
「——そこまでにしてください」
いつの間にか、身を寄せ合う男女と追手たちの間に、ミーシャが立ち塞がっていた。
小柄な少女は武器を構えるでもなく、ただ両手を広げて、若い二人を庇うように立っている。
「なんですか、貴方は。店員風情が邪魔をしないでいただけますか」
「その店を邪魔しているのはあなた方ですよ。それにどうやら彼らは訳ありのご様子。黙って見過ごすわけにはいきません」
「こちらの事情も知らずにノコノコと……。痛い目に遭わなければ分からないようですね」
そう言うと、男たちは腰の剣を抜いて凄んできた。
しかし店の空気が緊張し、客の動揺がさらに広がっていく中、ミーシャの表情はどこまでも凪いでいる。
怒りも、焦りもない。ただ静かに、当たり前の事実を告げるように彼女は口を開いた。
「あなた方の事情なんてもちろん分かりません。でも……少なくとも、彼らが選んだ道を、『正しさ』なんて言葉で縛りつけて奪う権利は、誰にもないはずです」
「青臭い理想論ですね。愛や自由で生きていけるとでも?」
男は冷ややかに目を細め、女性を庇う青年の方へと言葉の刃を向けた。
「お嬢様をこのような場所に連れ込み、泥水を啜らせることが君の誠意ですか? 本当に彼女を愛しているというのなら、自ら身を引くことこそが正しい愛の形というものでしょう。君のそれは、愛ではない。ただの醜いエゴですよ」
その言葉に、青年は血の気を失い、ギリッと唇を噛み締めた。
図星を突かれたのだ。彼自身、後ろ盾のない自分が彼女を連れ出したことに、どうしようもない罪悪感と無力感を抱いていたのだろう。
「ち、違います……! 私が彼にお願いしたんです!」
お嬢様と呼ばれた女性が必死に庇うが、男はもはや交渉の余地はないとばかりに剣を正眼に構え直した。
「お父上より、抵抗するようであれば生死は問わないと仰せつかっております」
「ひっ……!」
「まずは貴様からだ、泥棒め」
男が躊躇いなく青年に向けて剣を振り下ろす。
その凄惨な刃が青年の肩口に届く直前——キンッ! と甲高い金属音が店内に響いた。
「……!」
男の剣を受け止めていたのは、ミーシャだった。
その手には緑色に発光する細剣が握られ、青年の盾となるように立ち塞がっている。
だが、男は忌々しげに舌打ちをすると、両腕にぐっと力を込めた。
「くっ……ぁっ!」
踏みとどまろうとしたミーシャだったが、その細腕では成人男性の剛剣に耐えきれるはずもない。
ガァンッ、という重い衝撃音と共に、彼女の剣はいとも簡単に弾き飛ばされ、床に乾いた音を立てて転がった。
体勢を崩し、膝をつくミーシャ。
男はその無様な姿を見下ろし、ふと何かを思い出したように目を丸くした。
「あぁ、そういえば見覚えがありますよ。若草色の髪に、光り輝く剣。なるほど……あなた、勇者ですね?」
男の口角が、意地の悪い三日月の形に吊り上がる。
「落ちこぼれと専らの噂の」
「……っ」
「勇者とは名ばかりのただの小娘が、我々の邪魔をすると? ……いいでしょう。ならば、まずは貴方から片付けて差し上げます」
男の切先が、無防備なミーシャへと向けられる。
殺意を孕んだ刃が振り上げられる光景を前にして——莉子の思考は、ひどく冷めきっていた。




