第8話 ①
海辺の一件を経て、一夜が過ぎた。
クラウスの言葉と、陽菜にいる方角を指し示す羅針盤。
それらがぐるぐると頭の中を渦巻いて、結局昨日はほとんど寝られなかった。
それでも、そんな都合はお構いなしに、今日も陽は昇る。
窓から差し込む陽光が閉じた瞼を透かし、莉子は寝るのを諦めた。
机の上に置かれた羅針盤が目に入る。
手に持つと、ひんやりとした金属の感触で少しだけ目が醒める感じがする。
羅針盤は大小さまざまな歯車が噛み合っており、ガラスの向こうで揺れる指針には、星を象った美しい意匠が見て取れる。
何か魔術的な意味合いがあるのかもしれないが、その仕組みや構造についてはさっぱり分からない。
だが——その針は、わずかではあるが確かに揺れていた。
この針が指し示す先に陽菜がいる。
どれくらい離れているのかは見当もつかない。
それでもこの小さく震える針は、彼女が今も無事にどこかにいることの何よりの証左であった。
安心はできないが、あの晩に行方を眩ませた陽菜の手がかりが得られたというのはこの上なく大きい。
これさえあれば、いつかあの子にたどり着けるかもしれない。そう思うだけで、莉子の心はいくらか和らいだ。
(いや、『かもしれない』じゃない。絶対に連れ戻すんだ)
これは、きっとただのエゴだ。
ヴィエラには資格がないと言われた。クラウスには愚か者呼ばわりをされた。
何より、陽菜自身が言ったのだ。『莉子ちゃんには分からない』と。
それでも、莉子の中の炎はそんな周りの者たちの声すらかき消し、猛く燃え盛っている。
この勢いはもう誰にも止められない。今すぐにでも陽菜を追いかけたい——莉子の胸中を埋めるのはただその一心だけだった。
しかし、事はそう簡単には進まない。
莉子が陽菜を追いかけるということはつまり、この喫茶リリーを彼女が空けてしまうということに他ならないのだ。
「ううん……。悩ましいですよね。勢いで私も付いていきますって言いましたけど、私はむしろ残ったほうが良いんですかね」
そして開店前。
朝早くにやってきたルミィと自然と昨夜の話になり、そんな中彼女がぽつりとそう呟いた。
「でも、正直一人じゃ手回らないよ。昨日二人でも相当キツかったじゃない」
「まあ、それはそうなんですけど……」
「……それに、ヴィエラだって放っておけないでしょ」
我ながら消え入りそうな声だった。
彼女の名前に、莉子とルミィの間にほんの少しだけ重苦しい沈黙が流れる。
昨日あんな酷い別れ方をしておきながら、都合よく彼女を足枷として使っている。今すぐ陽菜を追いかけたいという己の熱を、自分自身で持て余し、誤魔化しているだけだ。
『あんたも、淹れられたんだな』
『呑気に喫茶店?』
常連客の言葉とヴィエラの言葉が次々と蘇る。
莉子は込み上げる自己嫌悪を振り払うように、意味もなくカウンターの布巾を強く握り直した。
「リゼ様……」と不安げに見つめるルミィが視界に映る。
彼女はいつだって寄り添おうとしてくれている。その気持ちだけで、莉子は少しだけ自分の中の仄暗い思いがほぐれるような気がした。
「……さあ、そろそろ準備しないとね。ルミィ、フロアのチェックしてくれる?」
そうして莉子がエントランスの準備に取り掛かろうとしたときだった——。
突如、ガタンッ、という何かがぶつかるような音が入口の扉の向こうから響いた。
突然の大きな音に莉子とルミィの二人は揃って肩を震わせ、やがてお互いの顔を見つめ合う。
そうしている間に、グルルル、と低い唸り声も聞こえた。
ルミィはごくり、と喉を鳴らした。
「リゼット様、今のって……」
「ルミィは下がってて。魔獣かもしれない」
こんなこと、半年以上店をやってきて初めてだ。
海沿いの繁華街よりは丘を上がったところ、すなわち山に近い場所に店を構える喫茶リリーだが、そうは言っても魔獣の生息地からは十分離れている。
それに街の入口は警備が見張っているはずだから、こんな人里に流れてくることなんてほとんどないはずなのだが。
莉子はルミィを後ろにかばうように立ち、右手を空に掲げる。
すると、収束した光の粒子が剣の形となって実体化した。目の覚めるような青の聖剣——クラウスと戦ったときにも使った、莉子の勇者としての力の一端である。
喫茶店の中で見るとあまりにも不釣り合いな得物を構え、二人は慎重に扉へと近づく。
そして、恐る恐るドアノブに手をかけ、ぎい、と開いた。
——果たしてそこにいたのは、一人の少女であった。
「へ?」
いつ相手が飛びかかってきてもいいように精神を研ぎ澄ませていた莉子は、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
薄汚れた外套に身を包んだ少女は、扉にもたれ掛かるように倒れており、莉子が開けたことでそのまま店内へと身体が滑り込む。
床に力なく倒れた彼女の目は文字通りぐるぐると渦巻いていた。
「あのー……」
莉子は様子を伺いつつ慎重に声をかける。
ぐるるるるる——。
少女は返事をする代わりに、盛大にお腹を鳴らした。




