第7話 ⑤
海を背にし、町へと踵を返そうとした、その時だった。
ひゅ、と。
海風とは違う、ぞっとするような冷気が莉子の頬を掠めた。
「――ルミィ、下がって!」
莉子がとっさにルミィを庇うように腕を伸ばし、身構える。
波音だけが響くはずの暗い砂浜。二人がこれから向かおうとしていた暗がりの先に、いつの間にか『それ』は立っていた。
周囲の闇に溶け込むような、音のない佇まい。
純白の法衣に身を包んだクラウスが、氷のような眼差しでこちらを見下ろしていた。
「絶望に潰れて腐り落ちるかと思ったが……どうやら、ただの腑抜けではなかったらしい」
クラウスは氷のような眼差しのまま、無造作に砂浜を歩み寄ってくる。
「だが、正義という大義名分を失い、今度は己の執着という檻にあの魔王を閉じ込めるつもりか。結局貴様のやろうとしていることは、ただ首輪をすげ替えるだけの醜悪な自己満足に過ぎん」
氷の刃のような言葉が、莉子の急所を正確に貫く。
図星だった。息が詰まり、ルミィを庇って前に出した手が微かに震える。
――それでも。
莉子は顔を上げ、かつての師を真っ向から睨み返した。その眼差しは、進んで泥に塗れることを選んだ者の、ひどく生々しい熱を帯びていた。
「……醜くても構いません」
「何?」
「正しさなんて、もうどうでもいい。あの子が魔王として一人で死ぬくらいなら……私が泥を被ってでも、この手で取り戻す。あの子の地獄は、全部私が背負います」
その言葉は、クラウスにとって全くの予想外であった。
彼は大きく目を開き、しばし押し黙る。
ずっと己の、そして教会の掌の上で踊るだけだった少女が、自我によって初めてその枠を飛び越えた。
それは傲慢で、未熟で、ひどく独りよがりな決意。
だが、その泥に塗れた醜悪さこそが、彼女が初めて誰の操り糸にも頼らず、自らの足で立った何よりの証明だった。
クラウスは、莉子の瞳をじっと見つめ返し――やがて、呆れたように小さく息を吐いた。
「……愚かだな」
彼の脳裏に、王都の神殿で見た光景が蘇る。
古い記録を求めて、普段は立ち入ることのない地下書庫の奥深くまで足を運んだ時のことだ。
夜半、人気のない回廊の奥から漏れ聞こえた、枢機卿たちのひどく乾いた談笑の声。
「次代の仕上がり」「魔王の配役」——。
わずかに聞こえた言葉の断片は、神聖な教義とはまったく異なるものだった。
悍ましい予感が、クラウスの頭に過る。
単なる聞き間違いであったかもしれない。
だが、もしそうではなく、彼らの言葉が真実であるなら。
——勇者とは、魔王とは、一体何なのだろうか。
絶対的な善と悪。世界がそう信じて疑わない勇者と魔王の存在が、初めから人間の手で捏造された偶像だとでもいうのか。
ならば、数多の犠牲を払い、時に己の情すら殺して教義に捧げてきた自分の半生は、いったい何だったというのか。
背筋を這い上がるような悪寒は、やがて行き場のない、静かで昏い怒りへと変わっていった。
ゆえに、今の莉子の姿はクラウスにとって痛快ですらあった。
与えられた勇者という殻を打ち砕き、剥き出しのエゴを晒す少女。
その泥臭い執着は、教会が敷いた完璧な台本を根底から狂わせる。
彼女の我儘が、神殿の奥深くでふんぞり返る者たちの足元を燃やし尽くす、一握の火種となるかもしれない。
「……それも面白い」
クラウスの口元に、冷笑とも、あるいはかつての彼には決して見せなかった『期待』ともつかない微かな歪みが浮かんだ。
「——!」
不意に、クラウスが外套の奥から何かを無造作に放り投げる。
莉子がとっさに空中で掴み取ったのは、手のひらに収まるほどの、鈍色をした金属製の羅針盤だった。
「それは、あの魔族に仕込んだ追跡術式の波長を拾う受信機だ。針が、奴のいる方角を指す」
「陽菜に、術式を……? どうして、これを私に……」
「警告しておく。これで辿れるのはお前たちだけではない」
驚きに目を見開く莉子の問いを遮り、クラウスは冷徹な目を向けた。
「同じ術式は、王都の狩人たちも辿ることができる。お前があの魔族に近づけるということは、神殿の追手もいずれ至るということだ。——猶予はないぞ」
それは、神の敬虔な信徒である彼が決して口にしてはならない利敵行為だった。
戸惑う莉子の目に映る彼の横顔は、夜の海風に吹かれ、かつて神殿で勇者としての正しさを説いていた頃とは違う、どこか静かな情を帯びていた。
常に正しさを説き、組織の規律を誰よりも重んじてきたはずの師。
口では莉子を愚かだと切り捨てながら、彼が放り投げた羅針盤は、まるで彼女の我儘を肯定する餞のようであった。
「クラウス先生……」
莉子が羅針盤を胸に抱き寄せると同時、クラウスは踵を返し、夜の海風に純白の外套を翻す。
「……それでも行くというのなら。せめて、無様には死ぬな」
やがてその背中は闇の中へと溶けていく。
最後に彼が放った一言は、突き放すような冷たさの中に、師としての不器用な情を滲ませながら夜風に千切れていった。
◇ ◇ ◇
轍にまだ薄っすらと雪が残る街道を、氷を削ったような冷たい風が吹き抜けていく。
深く被ったフードの奥で、陽菜はただ無言で冷たい土を踏みしめていた。
あの温かい喫茶店から逃げ出してから、どれくらいの日数が経っただろうか。
まともに休息も取っていない身体は疲労で鉛のように重かったが、立ち止まる気にはなれなかった。
人間たちの街を通り抜けるたび、陽菜はひたすらに自分の影を小さくして歩いた。
角を隠し、魔力を殺し、息を潜める。人間社会に魔族の居場所などない。
かといって、人間の勇者と馴れ合い、魔王としての牙を抜かれた自分に帰るべき同胞の輪があるわけでもなかった。
莉子の隣にはいられない。あの眩しい光の傍にいれば、いつか必ず己の闇が彼女を傷つけてしまう。だから、自ら手を離したのだ。
自分の選択は絶対に間違っていないという冷え切った確信だけが、今の陽菜の背中を辛うじて支えていた。
当てもなく辿り着いた、見知らぬ宿場町。
行き交う馬車と人々の喧騒をやり過ごし、足早に街を抜けようとした、その時だった。
ふと、路地裏の影にうずくまる小さな気配に、陽菜の足がピタリと止まった。
薄汚れた衣服に、人間の中に混じる微かな魔の気配。
陽菜の心臓が、痛いほど大きく跳ねる。
見間違えるはずがない。
それはかつて、浄夜祭の広場で露店主に追われながらも、陽菜が己の正体を隠すために見捨てた、あの半魔の少年だった。
(どうして、こんな所に——)
ドクン、と耳の奥で嫌な音がした。
見つかってはいけない。今すぐ顔を背けて、この場から逃げ出さなければ。
頭では警鐘が鳴り響いているのに。
無惨に見捨てたという生々しい罪悪感が、泥のように陽菜の足に絡みつく。
喧騒の街角で、踵を返そうとした陽菜の足は、呪縛に囚われたかのようにどうしても動かすことができなかった。




