第7話 ④
波打ち際は、音もなく冷たい闇を運んでくる。
凍てついた砂浜には、莉子の足跡と、それを追うようにして刻まれたもう一組の小さな足跡だけが伸びていた。
莉子は波打ち際の湿った砂に膝をつき、両手で顔を覆った。
指の間から漏れる吐息は、冬の夜空に白く溶けては消えていく。
背後の足音は、莉子の少し後ろでそっと止まっていた。
(ルミィ……ありがとう)
振り返らずとも分かる。きっと心配してここまで追ってきてくれたのだろう。
しかし、彼女は一言も言葉をかけることはなかった。
待ってくれているのだ。
この凍りついた砂浜の上で、莉子が答えを出すことを。
「……私、本当の意味で陽菜に向き合ってなかった」
莉子の声は、冷たく頬を撫でる海風にちぎれ、海へと消えていく。
視線を落とせば、砂の中に埋もれかけていた貝殻の欠片が、月明かりを反射して鈍く光っている。
「きっと私は、『誰しもこうあるべき』っていうちっぽけな価値観を、あの子に押し付けてた」
莉子はその場に小さく屈み、冷え切った砂を指でなぞった。
ヴィエラの言葉が、莉子の目を覚まさせてくれた。救済や慈愛なんていう耳当たりのいい言葉を被り、陽菜を自分の思い描く枠に押し込めていたのは、他でもない自分自身だったのだ。
莉子は掌の中に隠し持っていた髪飾りを取り出す。
硬質な装飾は、夜の冷たさを吸い込み、莉子の体温を奪っていく。
「ねえ、ルミィ。……私は、陽菜を救いたかったんじゃない。あの子を傍に置いて、あの子の居場所を作ってあげることで、私自身が安心したかっただけなんだ」
波が引くたびに、足元の砂がさらさらと崩れ落ちる。
莉子はその砂を両手で強く掬い上げた。どれほど強く握りしめても、指の隙間からこぼれ落ちていく粒。
魔王城での決戦の後。夕暮れの部室で、陽菜と再会したときの記憶が蘇る。
かつて守れなかった少女を、今度は絶対に守ると誓った。
だが現実はどうだ——陽菜の気持ちになど、全く寄り添えていなかったではないか。
「守ってあげる、なんて言っておきながら、自分に都合のいい場所で笑っていてほしかっただけ。あの子の翼をもいで、喫茶店という鳥籠の中に閉じ込めていた」
勇者なんて呼べるような、立派なものではない。
ただの身勝手で、醜い本音だ。けれど不思議なことに、その底意地の悪さを認めた瞬間、胸の奥で渦巻いていた苦しみがスッと凪いでいくのを感じた。
「……正しさなんて、もういらない」
莉子はゆっくりと立ち上がる。
冷たい風が、湿った頬を刺すように撫でていく。
膝についた砂を払うこともせず、彼女は地平線の先、暗い海原へと視線を投じた。
「嫌われてもいい。最低だって罵られてもいい。たとえ、あの子に拒絶されたとしても……私はもう一度、あの子の隣に立ちたい」
泥臭くて、我儘な気持ち。
それでもこれは決して譲れない——莉子自身の意志だった。
「連れ戻すよ。這いつくばってでも、あの子の手を引いてここに帰ってくる」
「……なら、私も一緒に行きます」
振り返った莉子の視線の先で、ルミィが一歩、前へ踏み出した。
凍てつく寒さの中で、彼女の瞳だけが小さな灯火のように揺るぎなく莉子を見つめている。
「ルミィ……でも、これはただの私の我儘で——」
「かまいません。ただの我儘でも、そしてそれが間違っていたとしても。私はリゼ様の味方ですから」
その小さな両手が、莉子の冷え切った手をそっと包み込んだ。
分け与えられた確かな体温に、張り詰めていた莉子の目から、せき止めていた涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「……ありがとう、ルミィ」
二人の影が、冬の海辺で一つに重なる。
莉子は涙を拭い、掌の髪飾りを固く握り直した。
――今度こそ私が、陽菜を取り戻す。そしてもう二度と、私の側から離さない。
彼女の目に宿っていたのは、勇者としての清廉な光ではない。
背後に広がる夜の海原よりも深く、未だに濁りつづける、執着の熱だった。
それでも、その盲目な熱が、鉛のように重かった莉子の足取りに確かな力を灯していく。




