第7話 ③
営業が終わり、莉子とルミィは夜の街を並んで歩いていた。
にぎやかな街の灯りも坂道を上がるにつれて遠ざかり、代わりに澄み切った夜空に浮かぶ星々が、二人の輪郭を淡く描く。
静寂の中に、雪を踏む規則正しい足音と息遣いだけが溶けていく。
やがて、少しだけ違う音が、白い吐息とともに莉子から漏れた。
「ごめんね、こんな風についてきちゃって」
隣の白い息が、後を追うように重なった。
「いえいえ、私も隣に住んでるわけですから」
「……ありがと。ちょっと、一人で行く勇気がなくって」
莉子たちは街はずれのアパルトメントへと向かっていた。
未だ傷の癒えない、ヴィエラの元へと。
一歩進むごとに、鉛のように足が重くなる。
本当は、もっと早く来るべきだった。
『あの方を人間の側に引き戻せるのは、私じゃない』
彼女の血を吐くような言葉が、脳裏に蘇る。
あの日、ヴィエラは莉子にすべてを託した。
本当は誰よりも彼女こそが陽菜の支えになりたかったはずなのに、魔族である自分には何もできないと、涙ながらに叫んでいたのだ。
何よりも大切な存在でありながら、自分には寄り添えないと諦めざるを得なかった。
その張り裂けそうな心境は、どれほどのものだっただろう。
その悲痛な覚悟と祈りを、私は裏切ったのだ。
軋むような音を立てて、アパルトメントの古びた階段を上る。
二階の一番奥。そこがヴィエラの暮らす部屋だった。
扉の前に立つと、途端に莉子の足は床に縫い付けられたように動かなくなった。
木製の扉一枚を隔てた向こう側に、ヴィエラがいる。
息を詰まらせる莉子の横から、ルミィがそっと手を伸ばした。
莉子の震える手の上に、温かい小さな手が重なる。そして、そのままルミィが代わりにノックの音を響かせた。
「ヴィエラさん。起きてますか、ルミィです」
静かな声で呼びかけると、部屋の奥から微かに「……ええ」という掠れた声が返ってきた。
ルミィがゆっくりとノブを回し、重い扉を開く。
隙間風の入る部屋の中は、薬草と血の混じったような、重く淀んだ空気が立ち込めていた。
部屋の奥にあるベッドの上に、ヴィエラが横たわっている。
少しずつ回復しているとはいえ、未だ満足に身体を動かせる状態でないことは一目で分かった。
ランプの薄暗い灯りの中、ヴィエラがゆっくりと顔を向ける。
その真紅の瞳が、ルミィの後ろで立ち尽くす莉子を捉えた。
怒りや憎悪とも違う、氷の底から見透かすような目に射抜かれた瞬間、莉子の心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。
「ヴィエラ……あの、私……」
張り付いた喉から、どうにか声を絞り出す。
「陽菜が……いなくなって。私、引き留められなくて……ごめんなさい」
口からこぼれ落ちた言葉は、自分でも反吐が出るほど薄っぺらく、空虚に響いた。
ヴィエラは答えなかった。ただ、痛む身体を僅かに動かし、ベッドの背板に身を預けるようにして上体を起こす。
ルミィが「無理しないでください」と駆け寄ろうとするのを、ヴィエラは片手で制した。
「……謝りに来たの?」
ひどく静かな声だった。
いっそ怒鳴り散らしてくれたら、どれほど楽だっただろうか。その低く冷え切った響きは、そんな甘えを許さないとばかりに莉子の胸を抉ってきた。
「自分が約束を破ったせいで、あの方が一人でいなくなってしまった。私は後悔しています。私はこんなに苦しんでいます——そうやって惨めな顔を見せて、私が『あなたのせいじゃない』と慰めるとでも思った?」
否定なんて出来るはずもない。
もしかしたらヴィエラに同情してもらえるかもしれない。心のどこかで、そんな風に考えていた自分がいた。
たとえ罵声を浴びせられたとしても、断罪されることで「罰を受けた」という免罪符が得られれば。きっと今よりはずっと気が楽になったのだ。
ヴィエラは、そんな独りよがりな自分を、完璧に見透かしていた。
「今のアリシア様を支えられるのは人間の貴方だけだと……私はかつての敵である貴方に頭を下げたのよ」
ヴィエラの声に、初めて血を吐くような痛みが混じる。
シーツを握りしめる彼女の指先は、爪が白く変色するほどに力が入っていた。
「私がどれほどの思いで、あの方の隣を貴方に譲ったか……!」
息が止まりそうだった。
彼女の言葉の一つ一つに、全身が切り刻まれていく。
「あの方は今、この凍てつく雪の中をたった一人で彷徨っている。人間にも魔族にもなれない、自分が化け物だという呪いに縛られたまま……っ」
真紅の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
そこには、莉子に対するものだけではない、己さえも呪うような底知れぬ感情が宿っているように見えた。
「それを貴方は、五体満足で動ける足がありながら、呑気に喫茶店? 挙句……っ、私に許しを、乞いに来たとでもいうの」
刃のような言葉を突きつけ、そのまま彼女は全身を苛む激痛に耐えかねたように肩を震わせる。
その呼吸はすでに息も絶え絶えだった。
「今すぐ……うっ……、私の視界から、消えなさい」
ヴィエラは莉子から顔を背け、氷のように冷たく言い放った。
「出て行って。……貴方なんかに、託すんじゃなかった」
その一言は、莉子が必死に縋っていた言い訳を、根こそぎ奪い去っていった。
——貴方なんかに。
耳の奥で、その声が何度も反響する。
許してほしい、そんな浅ましい期待を胸のどこかに抱いていた。
彼女の瞳に映る自分は、なんて醜くて、矮小なのか。
まざまざと見せつけられたその事実が、冷たい鉛となって胃の奥へと落ちていく。
「……ごめんなさい」
それ以上、莉子はその部屋に立っていることができなかった。
鉛のように重くなった身体を引きずるようにして、莉子はゆっくりと踵を返す。
走って逃げ出す気力すら残されていなかった。ただ、息の詰まる空間から水面を求めるように、ふらふらと、静かに部屋を抜け出した。
「あっ、リゼ様!」
ルミィの焦燥に満ちた叫び声が背中にぶつかる。
冷たい夜の空気が肺に突き刺さる。それでも足は止まらない。
どこへ向かえばいいのかも分からないまま、莉子はただ、涙で歪む視界の先——暗く凍てつく冬の夜の底へと、自ら沈んでいくように歩き続けた。




