第7話 ②
どれだけ悔いていても、否応なしに時は過ぎていく。
店を開ければ、やってくるのは今までと何ら変わりない日常だった。
新しい年を迎えても訪れてくれる常連客たちに挨拶をし、取り留めもない会話を交わし、オーダーを取る。それだけのことを、まるで機械のように淡々とこなしていく。
常連客のひとり、いつもカウンターに座る気難しい顔をした男性が、コーヒーを注文した。
手元の新聞を読み、顔すらほとんど上げることのない彼が、今日は珍しくこちらを一瞥し「今日は店員が少ないな」と言ったのがやけに耳に残った。
今日はヴィエラもいない。
丘の頂上で、神官クラウスの圧倒的な暴力の前に全身を血に染めて崩れ落ちた彼女の姿が、今も脳裏に焼き付いている。
あの一件が過ぎ翌日アパートへ見舞った際は、まだしばらく回復に時間が掛かりそうだったが、あれからどうなっただろう。
(ルミィに確認すればよかったな)
正直、そんなことがどうでも良くなるくらい、今の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
コーヒー豆の入った瓶を取り出そうと、吊戸棚の把手に手を伸ばす。
一番下の段の手前の方にちょこっと乗った瓶が目に入った。
いつもと同じ場所——莉子よりも背の低い陽菜が、意地を張って毎回背伸びしながら収納していた位置とまったく同じ。
擦切り一杯の豆を匙に取ると、莉子はその瓶を戸棚の同じ位置に戻した。
覚束ない手でミルの硬いハンドルを回し始めると、ゴリ、ゴリ……と心地よい音が響き始める。
しばらくすると手にかかる抵抗がなくなり、中を覗くと綺麗に挽かれた粉が見えた。
ペーパーフィルターなんて気の利いたものはないので、粉と水を混ぜて煮出すのがここでのコーヒーの淹れ方だ。
片手鍋に混ぜて火にかけると、少ししてから芳醇な香りが漂ってきた。
匙でひと掬いし、味を確かめる。
まだ水っぽいか。
もう少し待って、もう一度。
……苦い。陽菜が淹れてくれたような、あのまろやかで澄んだ味にはどうしてもならない。
少し悩んだが、莉子は火を止めた。
なるべく粉が混ざらないようにゆっくりカップへと注ぎ、客のもとへ運ぶ。
無愛想に受け取った男性は一口コーヒーを飲むと、新聞に目を向けたまま、
「あんたも、淹れられたんだな」
とだけ言った。
そりゃあこっちも商売ですから、と莉子は口を尖らせたが、男性はすでに興味を失ったようで顔を上げることはなかった。
どうやってもあの味にはならない。でも、客はそれに気づきすらしなかった。
きっと、客にとってみれば誰が何を作るかなんて関係ないのだ。
そんな当たり前のことに気づき、それがかえって、二人分の空洞を強く意識させた。
(なんで、この店をやってるんだっけ……)
ぽつりと。
自分を突き動かしていたものがなくなった気がした。
◇
そうしているうちに、朝の眠たげな空気を孕んでいた店内に徐々に白光が差し込み始めた。
窓辺の影はしだいにその輪郭を濃く、短く縮めていき、どこか気怠い肌寒さも収まっていく。
そんなとき、立て続けに店の扉が開き、どやどやと昼休憩の労働者がなだれ込んできた。
何度か見かけた顔ぶれも混じっている。
莉子の顔に気付いた面々が、朗らかな笑みを浮かべ、それに軽く会釈を返した。
すかさず、ホールの向こうからルミィがパタパタと駆ける音がする。
「いらっしゃいませーっ! あ、お客さま、こちらのお席へどうぞ!」
彼女の元気な声が響くが、たった一人で回すにはかなり客の数が増えている。
「リゼ様! 三番テーブルさんからお魚のスープ二つ、それと黒パンの追加です!」
「はーい」
目まぐるしく動き回るルミィが注文票を手にキッチンまで来ると、今度は別のテーブルから声がかかった。
「ああっ、すみません、今お水お持ちしますね!」と言って、ルミィはまた駆け出していく。
莉子はキッチンに張り付いて、寸胴鍋を火にかけていた。
スープを器によそい、パンを切り分け、同時に次々と飛び込んでくる追加の注文を捌いていく。
熱気と喧騒。飛び交うオーダー。
これまで四人で分担し、完璧に回っていた歯車が、今は莉子とルミィの二人だけで悲鳴を上げながら無理やり回されている。
火力が強すぎたのか、鍋からスープがふきこぼれそうになる。
コーヒーの入った鍋も、こちらの都合などお構いなしに優雅な香りを漂わせている。
手が足りない。頭が追いつかない。
一杯一杯になった莉子はとっさに、一番頼りになる相棒の名前を叫ぶ。
「ねえ、陽菜! そっちの鍋代わって——」
莉子は、迷うことなく振り返った。
——しかし。
声は、ぽっかりと空いた空間に吸い込まれ、むなしく消えた。
誰もいない。
いつもなら「はーい」と少し間延びした声で、完璧なタイミングでフォローに入ってくれる親友の姿は、そこにはない。
周囲の喧騒がすっと遠のいていくようだった。
いない。陽菜がいない。
頭では分かっていた、そのうえで無理やり意識しないようにしていたはずの欠落が、声を出したことで強く実感出来てしまった。
「……リゼ、様?」
鍋の前で固まった莉子に気付き、ルミィが不安げな声をかける。
その声に、莉子はハッと息を呑んで我に返った。
客の視線がある。ここで泣くわけにはいかない。立ち止まることなんて許されない。
「ご、ごめんごめん! 私ったら、ちょっとぼーっとしちゃって。すぐスープ出すね!」
必死に顔の筋肉を引き上げ、引き攣った笑顔を貼り付ける。
ぐつぐつと煮え立つ鍋の熱気とは裏腹に、莉子の指先はひどく冷え切っていた。




