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第7話 ①

 あれから数日が経ち、年が明けた。

 浄夜祭の晩に降り積もった雪は、まだその名残を道端に留め、白く濁った塊となって人々の往来を静かに見つめている。


 新年の到来を告げる陽光すらも、残された者たちの胸に宿る、あの夜の冷徹な記憶を溶かすには至らなかった。


 それから数日——。


 港町セルリアの海辺へ面した道を真っ直ぐ上がり、丘を少し登った場所。

 穏やかな日差しを受けて、喫茶リリーは今日も静かに佇んでいる。


 その二階。

 少し暗くなった廊下の先に、扉の前で深呼吸をする少女の姿があった。


 遠慮がちなノックとともに、鈴のような声が静寂に響く。


「リゼ様、ルミィです。今、よろしいですか?」


 見つめた扉の向こうから「はーい」と明るい声がする。

 その返事があるまでに、ほんの些細な間があったことに、ルミィは気付かないふりをした。


「おはようございますっ! さ、今日からリリーも営業再開ですね。張り切っていっちゃいますよ!」


 扉を引いた彼女は、開口一番そんなことを言った。

 

 リゼ様は椅子に座り、何も置いていない机に向かっていた。

 すでに身支度は終えていて、見た目も変わらない。それなのに、彼女の纏う雰囲気にはどこか言いようのない違和感があった。


「あはは、ルミィは元気だね。おおっ、頑張るぞ!」


 リゼ様は優しい。

 自分が笑顔を向ければ、彼女もいつだって笑顔を返してくれる。

 

 リゼ様の浮かべた表情に、ルミィの胸はずきん、と苦しくなる。


「……」

「ルミィ? どうしたの」


 静かな目だった。

 本当にこちらの身を案じるように優しく細められる。


 この人の力になりたい。

 そう思うのに——。


「その、大丈夫ですか?」


 口から出てきたのは、そんな無責任な問いかけだけだった。


「ん、何が? あ、ああ……陽菜のこと?」


 ルミィがおずおずと頷くと、リゼ様はああ、と言いながら椅子から立ち上がり、そのまま身体を上に伸ばす。


「まったく勝手だよね。まあ、あの子のことだから、そのうちふらっと帰ってくるでしょ」


 拍子抜けするくらいあっけらかんと、そう言った。

 まるで何も気にしていないみたいに。


 先程と温度の変わらない静かな目。

 それが、なぜか今はとてつもなく悍ましく見える。


 ——これ以上踏み込めば、今まで通りではいられない。


 その直感が、ルミィの足をすくませた。

 見えない、けれど決して越えられない壁が、二人の間をはっきりと隔てている。


「……そう、ですね。きっと、すぐにお腹を空かせて戻ってきますよ」


 ルミィは引き攣りそうになる頬を必死に持ち上げ、自分の声が震えないようにするのが精一杯だった。


「私、先にお店を開けておきますね。リゼ様も、ゆっくり降りてきてください」

「うん。ありがとう、ルミィ」


 逃げるように背を向ける。

 扉を閉める直前、もう一度だけ室内に視線を走らせたが、リゼ様はまだ何も置いていない机の前に立ち尽くしたままだった。


 パタン、と静かに扉を閉める。

 ルミィは鉛のように重い足取りで、一階のホールへと続く階段を下りていった。


 ◇


「ふらっと帰ってくる、か。……何言ってんだか」

 

 廊下を遠ざかっていくルミィの足音が完全に聞こえなくなるのを待って、莉子は顔に貼り付けていた笑みをずるりと剥がした。


 足から力が抜け、そのままベッドの縁にへたり込む。


(……ごめんね、ルミィ)


 声にならない謝罪が、胸の奥で空回りする。


 彼女の痛ましげな顔を見れば、どれほど心を砕いてくれているかは痛いほど分かる。それを知っていて、あえて残酷なまでに明るく振る舞ったのだ。

 そうすれば、心優しい彼女はそれ以上踏み込めず、自ら身を引くしかないと知っていたから。


 あの子の純粋な優しさを、自分を守るための盾にしたのだ。


 胸の奥で、誰にも届かない謝罪を呟く。


 ——落胆すればいい。ルミィなんかに、どうにか出来るはずがない。だって、私ですらどうにも出来なかったんだから。


 ぐちゃぐちゃになった思いが、莉子の心を掻き乱す。

 

 理不尽な八つ当たりだと分かっている。

 それでも、行き場を失った醜い感情が、泥のように莉子の心を黒く塗りつぶしていく。


(私って、なんて嫌な女なんだろう)


 そうやって他者を拒絶し虚勢を張っていなければ、今にも足元から崩れ落ちてしまいそうだった。


 ふと、右手の中の硬質な感触に気付いた。

 強張った指先をゆっくりと開くと、掌の上に乗っていたのは、浄夜祭の露店で買った髪飾り。

 

 あの白雪の晩、陽菜が消えた後に彼女の机に残されたその思い出を、莉子はあれからずっと見つめていた。

 今朝も机の上に置いていたところを、ルミィのノックの音に慌てて握り込み、そのまま手の中に隠し持っていたのだ。


 それを見つめた途端、唇に鮮烈な記憶が蘇る。

 触れ合った柔らかな熱、漏れ出た甘い吐息、そして——頬を滑り落ちた雫の、ぞっとするような冷たさ。


 忘れたいのに、絶対に忘れたくない。


 髪飾りの上に、ぽつりと涙が落ちた。

 泣く資格なんてないのに。声なんて出したくないのに。


 莉子は冷え切った両手で顔を覆った。

 押し殺した嗚咽は、自らに下す罰のように、ただ静かに空っぽの部屋へと吸い込まれていった。

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