③
莉子の脳裏に、あの日の情景が浮かび上がる。
それは、二人が柊莉子と有栖陽菜としての人生を終えた、最期の日。
いつも通り部室で過ごし、陽菜と一緒に大学を出た。
帰り道に近くの商店街に寄って、その一角の喫茶店に入った。
決して派手な見た目ではなく、白髪の混じった店主が一人で切り盛りしている小さな店だった。
だからこそ、二人にとってそこは隠れ家のような、秘密基地のような、そんな落ち着く空間になった。
二人は席につくと、莉子はブラックコーヒー、陽菜はミルクティーを頼む。
それだけ頼んで、最近読んだ本がどうだったとか、授業がしんどいだとか、他愛のない話をする。
いつか喫茶店を開くのもいいかもね――そんなことを冗談混じりに話したこともあった。
それが二人の日常。何もかも確かにいつも通りだった。
その日、突然刃物を持った男が店内に入ってくるまでは。
入り口付近で女性の悲鳴が上がり、ガシャン、とグラスや皿が割れる派手な音が店内に響き渡る。
何が起きている、何でこの店に、と二人の頭をぐるぐると疑問が駆け巡る。
しかし、それを理解するよりも早く、男は意味不明な叫び声を上げながら、血走った目をぎらつかせて奥へと突っ込んできた。
その右手には、ギラギラと鈍い光を放つ大きな刃物が握られていた。
「え……?」
莉子は咄嗟に動けなかった。あまりの非日常的な光景に、脳の処理が完全に停止してしまったのだ。
男の凶行の標的が、たまたま通路側に座っていた自分たちに向けられたことにも気づけなかった。
「莉子、危ないっ!」
鋭い声と共に、強い力で肩を突き飛ばされた。
バランスを崩して床に倒れ込んだ莉子の目に映ったのは、自分を庇うように立ち塞がり、そして――男の振り下ろした凶刃を、その胸のど真ん中に受けてしまった親友の姿だった。
「あ……っ」
小さく掠れた息を漏らし、陽菜の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
テーブルにぶつかり、陽菜の頼んでいたミルクティーのカップが床に落ちた。甘い香りのする白い液体が、陽菜の胸から溢れ出す赤黒い血と混ざり合って、冷たい床に広がっていく。
「陽菜……? 嘘、やだ、陽菜ぁっ!」
男がナイフを引き抜く。再び血飛沫が舞った。
這いつくばるようにして陽菜へと手を伸ばす莉子。しかし男は躊躇うことなく、絶望に泣き叫ぶ莉子に向かって、再び血濡れた刃を振り上げた。
背中を貫く、焼け焦げるような熱さと、凍りつくような冷たい激痛。
そのまま床に倒れ伏した莉子は、薄れゆく意識の中で、口から血を流してピクリとも動かなくなった親友の顔を見つめていた。
(どうして……私がボーッとしてたから。陽菜が、私なんかを庇うから……っ!)
自分が動けていれば。逃げ出せていれば。陽菜が命を落とすことはなかった。
血の海に沈む親友の、急速に冷たくなっていく手に、自分の震える手を重ねる。
真っ暗な闇へと落ちていく直前、莉子の魂に深く、重く刻み込まれたのは、発狂しそうなほどの自責と後悔だった。
(ごめん、ごめんね、陽菜。……私に、陽菜を守れるくらいの強さがあれば――)
それが、柊莉子の最期の記憶。
◇
そして、すべてを忘れた莉子は、何の因果か新たな世界で剣を握り、守ると誓ったはずの陽菜自身と対峙することになった。
記憶を失っていたとはいえ、親友を守るどころか、同じように殺そうとしていたという事実に、莉子の視界は急速に歪んだ。
彼女の頬を、熱い滴が次々と伝い落ちていく。
「り、莉子ちゃん? どうしたの」
陽菜が不安げに莉子を見た。
さっきまで泣いていたのは自分の方なのに、こうして他人のことをすぐに心配する。
(変わってない。陽菜は、陽菜のままだ)
莉子は、自らの涙を拭い、陽菜に向き合った。
その目にもう迷いはなく、覚悟の火が灯っている。
「忘れさせたりなんか、絶対にしない。陽菜、私たちが死んだ日のこと覚えてる?」
「うん……」
陽菜の表情が暗く沈んだ。
その口は固く結ばれている。
「私、あのときすごく後悔したの。私がちゃんとしてれば。私が動けなかったから、陽菜が死んじゃったんだって……。だから、だからこそ、今度は絶対に私が陽菜を守るの」
莉子は、陽菜が胸に抱えた手を包み込むように握りしめた。
「あ……」
陽菜の真紅の瞳が莉子に向けられる。
驚きに見開かれたその目は、やがて莉子の意思を汲み取り、穏やかに細められた。
「うん、そうだね。でも莉子ちゃんだけが頑張るんじゃないよ。私も一緒。――むしろ、私の方が今は強かったりして!」
陽菜は表情を綻ばせ、おどけてみせた。
つられて莉子も口元が上がる。
「何言ってんのよ、さっきボコボコにされたくせに」
「あんな数の暴力で来るなんて卑怯だよ! なんか物語の悪役の気持ちが分かったもん」
そうして朗らかに笑い合う二人の身体を、光が柔らかく包み始めた。
「これって……」
莉子が自らの身体を見回す。
陽菜が窓の外を見た。
「夢から醒めるのかな」
「夢か……確かにそうかも」
その視線の先、それまでずっと同じ場所にあった夕日が静かに沈み始めていた。
茜色から藍色に空が変わり、開いた窓から涼やかな風が吹き込んでくる。
身体を包む光が徐々に強くなる。
振り返ると、部室の扉はすでに輪郭が薄くなっていた。
ゆっくりと、思い出の中の景色がほどけていく。
二度とこの場所へは帰れない、そう二人は直感した。
しかし、そこに憂いはない。
二人は再びお互いを見て、頷き合った。
「それじゃ陽菜、また後で」
「うん。っていうか、私、殺されかけてなかった? あそこから入れる保険ある?」
「歯食いしばって逃げて」
「そんなっ!」
その必死で、でも少し楽しげな悲鳴を最後に、二人はこの世界に別れを告げた。




