②
リゼットが目覚めたとき、彼女は宙に浮いていた。
遠く地平の先に夕日が沈みかけている。
眼下に映る景色は少し朧げで、現実感がない。
「夢……?」
瞬きをすると、リゼットは地上にいた。
目の前には赤く染まるレンガ造りの建物と長く伸びる影、そして街灯がポツポツと灯る並木道。
その道を歩いた先には、神殿とも見紛うほどに巨大な石と硝子の建造物が連なっていた。
それらの建物と建物の間を縫うように敷かれた灰色の石畳の上を、数え切れないほどの若者たちが、リゼットとは逆方向へ流れていく。
彼らは兵士のような鎧も、聖職者のような法衣も纏っていない。
誰もが驚くほど薄手で色鮮やかな、戦いには到底向かない平穏な衣服に身を包み、手には武器の代わりに薄い紙の束や、奇妙な光を放つ平たい黒い板を携えている。
先程まで死闘を繰り広げていた魔王城ではない。それどころか、ユーレカ大陸のどこを見渡しても、こんな場所が存在するとは思えない。
「ここは、大学……」
聞き馴染みのないはずの単語が自然と口をついた。
そしてそれが呼び水となって、リゼットの脳内に濁流のごとく記憶が押し寄せる。
「私、ここに通ってた」
遠い過去。リゼットは確かにこの日本に住む、普通の女子大生だった。
そのことに気付いた瞬間、周囲を歩いていた大勢の人影が一瞬のうちに消えた。
それどころか、並木の葉擦れの音も、大通りの車の音も何もかもが遠くなる。
音だけではない。
目に映る校舎や中庭も、まるで世界から見捨てられたかのように、その姿が滲んで消えた。
そして目の前に、一棟の建物だけが残った。
記憶に残るその場所は、文化部室棟。
リゼットは導かれるまま、その棟内へと入る。
二階に上がり、長い廊下を真っ直ぐ。
演劇サークルの小物が廊下に置かれている。それを目印に一つ隣の部屋。
そこはリゼットが、親友と過ごした、文芸研究会の部室だった。
リゼットは乾いた喉を鳴らし、ゆっくりとその扉を開く。
古い本の香りが鼻をくすぐった。
西向きの窓から、先程と位置の変わらない夕日が柔らかく差し込んでいる。
ソファとテーブル、それから無理やり本を詰め込んでパンパンになった小さな本棚。
記憶に残る映像と寸分違わぬその姿に、リゼットは息を呑んだ。
視線の先、窓の外を眺めるように、一人の女性が立っていた。
見覚えのある外套と、頭に生える一本の角。
リゼットの気配に気付いたのか、その人影はゆっくりと振り返った。
桃色の髪に、真紅の瞳。それは紛れもなく、さっきまで戦っていた魔王アリシアの姿だった。
その目は、昔を懐かしんでいるようにも、失った日々を悼んでいるようにも見えた。
それはリゼットも同じだった。
一歩ずつ、部屋の奥へと進んでいく。
「私、ずっと心の中で違和感を感じてた」
ぽつり、とリゼットが呟く。
「ユーレカ大陸の辺境の村で生まれて、優しい両親と友達に囲まれて育って。それなのに、何か大事なことを忘れてるような、そんな感覚」
魔王はその言葉に頷いた。
「私もだよ。もう、なんで忘れてたんだろ」
その声は柔らかく、謁見の間で放っていた禍々しい重圧はどこにもない。
リゼットの肩の力が抜けた。
ふと、失われた右の角が目に入る。
二人とも同じくらいの目線の高さだからこそ、その傷痕が一層生々しく感じられる。
リゼットはゆっくりと魔王に近づいた。
お互いの吐息が触れるくらい近く。
そして、その傷跡をそっと撫でる。
「ごめん、痛かったよね」
「うん、めっちゃ痛い」
その手の上に、魔王の手が重ねられる。
少しの静寂。二人は昔を思うように目を細め、やがてどちらともなく笑みが零れた。
「久しぶり、陽菜。また会えるなんて、夢みたい」
「うん、莉子ちゃんも元気そうで何より。って私たちさっきまでやり合ってたけど……」
その瞬間、勇者リゼット・ブランはかつての柊莉子に、魔王アリシア・ノワールは有栖陽菜に戻った。
陽菜は、莉子の顔をまじまじと見る。
「さっきまで全然気づかなかったのに、こうして改めて見ると、髪がめっちゃブロンドなところ以外は完全に莉子ちゃんだよね」
「角生やしてる女に言われたくないわよ。陽菜も顔はそっくりだし、背丈は……あれ、なんか背伸びた?」
陽菜は返事の代わりにわざとらしく顔をそむける。
その怪しい様子に、莉子はすかさず身をかがめ、外套の下のブーツを覗き見た。
「えっ、ずる。これ何センチ盛ってるの?」
「うるさい、うるさい! こうしないと威厳が出ないでしょうが」
陽菜は誤魔化すように手で振り払うと、耳を真っ赤に染めた。
「えー、なんか陽菜が見栄張ってる。あんなに皆のマスコットだったのに」
「蹴り飛ばすよ。……はあ、なんかこのノリ久しぶり」
二人は部室の中を見回した。
この世界で暮らしていた頃は、部室で過ごす毎日が普通だった。
陽菜は大事なものを抱えるように、両手を胸元で握りしめる。
「私さ、今この部屋に来るまで、本当に何も思い出せなかったの。私はあっちの世界に生まれたアリシアで、魔王として祀り上げられて生きてきた。前世のことなんて考えたこともなかったし、今だってアリシアとしての記憶が残ってる。……それなのに、遠い昔に過ごしたはずの莉子ちゃんとの思い出が、すごく温かいの」
「陽菜……」
陽菜の頬を、ひと筋の涙が伝った。
「莉子ちゃん、私たち、また忘れちゃうのかな」




