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 リゼットが目覚めたとき、彼女は宙に浮いていた。

 遠く地平の先に夕日が沈みかけている。

 眼下に映る景色は少し朧げで、現実感がない。


「夢……?」


 瞬きをすると、リゼットは地上にいた。

 目の前には赤く染まるレンガ造りの建物と長く伸びる影、そして街灯がポツポツと灯る並木道。

 

 その道を歩いた先には、神殿とも見紛うほどに巨大な石と硝子の建造物が連なっていた。

 それらの建物と建物の間を縫うように敷かれた灰色の石畳の上を、数え切れないほどの若者たちが、リゼットとは逆方向へ流れていく。


 彼らは兵士のような鎧も、聖職者のような法衣も纏っていない。

 誰もが驚くほど薄手で色鮮やかな、戦いには到底向かない平穏な衣服に身を包み、手には武器の代わりに薄い紙の束や、奇妙な光を放つ平たい黒い板を携えている。


 先程まで死闘を繰り広げていた魔王城ではない。それどころか、ユーレカ大陸のどこを見渡しても、こんな場所が存在するとは思えない。


「ここは、大学……」


 聞き馴染みのないはずの単語が自然と口をついた。

 そしてそれが呼び水となって、リゼットの脳内に濁流のごとく記憶が押し寄せる。


「私、ここに通ってた」


 遠い過去。リゼットは確かにこの日本に住む、普通の女子大生だった。


 そのことに気付いた瞬間、周囲を歩いていた大勢の人影が一瞬のうちに消えた。

 それどころか、並木の葉擦れの音も、大通りの車の音も何もかもが遠くなる。


 音だけではない。

 目に映る校舎や中庭も、まるで世界から見捨てられたかのように、その姿が滲んで消えた。


 そして目の前に、一棟の建物だけが残った。

 記憶に残るその場所は、文化部室棟。


 リゼットは導かれるまま、その棟内へと入る。

 二階に上がり、長い廊下を真っ直ぐ。

 演劇サークルの小物が廊下に置かれている。それを目印に一つ隣の部屋。

 

 そこはリゼットが、親友と過ごした、文芸研究会の部室だった。


 リゼットは乾いた喉を鳴らし、ゆっくりとその扉を開く。


 古い本の香りが鼻をくすぐった。

 西向きの窓から、先程と位置の変わらない夕日が柔らかく差し込んでいる。


 ソファとテーブル、それから無理やり本を詰め込んでパンパンになった小さな本棚。

 記憶に残る映像と寸分違わぬその姿に、リゼットは息を呑んだ。


 視線の先、窓の外を眺めるように、一人の女性が立っていた。

 見覚えのある外套と、頭に生える一本の角。


 リゼットの気配に気付いたのか、その人影はゆっくりと振り返った。

 桃色の髪に、真紅の瞳。それは紛れもなく、さっきまで戦っていた魔王アリシアの姿だった。

 その目は、昔を懐かしんでいるようにも、失った日々を悼んでいるようにも見えた。

 

 それはリゼットも同じだった。

 一歩ずつ、部屋の奥へと進んでいく。


「私、ずっと心の中で違和感を感じてた」


 ぽつり、とリゼットが呟く。


「ユーレカ大陸の辺境の村で生まれて、優しい両親と友達に囲まれて育って。それなのに、何か大事なことを忘れてるような、そんな感覚」


 魔王はその言葉に頷いた。

 

「私もだよ。もう、なんで忘れてたんだろ」


 その声は柔らかく、謁見の間で放っていた禍々しい重圧はどこにもない。

 リゼットの肩の力が抜けた。


 ふと、失われた右の角が目に入る。

 二人とも同じくらいの目線の高さだからこそ、その傷痕が一層生々しく感じられる。

 

 リゼットはゆっくりと魔王に近づいた。

 お互いの吐息が触れるくらい近く。

 そして、その傷跡をそっと撫でる。

 

「ごめん、痛かったよね」

「うん、めっちゃ痛い」


 その手の上に、魔王の手が重ねられる。

 少しの静寂。二人は昔を思うように目を細め、やがてどちらともなく笑みが零れた。


「久しぶり、陽菜(ひな)。また会えるなんて、夢みたい」

「うん、莉子(りこ)ちゃんも元気そうで何より。って私たちさっきまでやり合ってたけど……」


 その瞬間、勇者リゼット・ブランはかつての(ひいらぎ)莉子に、魔王アリシア・ノワールは有栖(ありす)陽菜に戻った。

 陽菜は、莉子の顔をまじまじと見る。


「さっきまで全然気づかなかったのに、こうして改めて見ると、髪がめっちゃブロンドなところ以外は完全に莉子ちゃんだよね」

「角生やしてる女に言われたくないわよ。陽菜も顔はそっくりだし、背丈は……あれ、なんか背伸びた?」


 陽菜は返事の代わりにわざとらしく顔をそむける。

 その怪しい様子に、莉子はすかさず身をかがめ、外套の下のブーツを覗き見た。


「えっ、ずる。これ何センチ盛ってるの?」

「うるさい、うるさい! こうしないと威厳が出ないでしょうが」


 陽菜は誤魔化すように手で振り払うと、耳を真っ赤に染めた。


「えー、なんか陽菜が見栄張ってる。あんなに皆のマスコットだったのに」

「蹴り飛ばすよ。……はあ、なんかこのノリ久しぶり」


 二人は部室の中を見回した。

 この世界で暮らしていた頃は、部室で過ごす毎日が普通だった。


 陽菜は大事なものを抱えるように、両手を胸元で握りしめる。


「私さ、今この部屋に来るまで、本当に何も思い出せなかったの。私はあっちの世界に生まれたアリシアで、魔王として祀り上げられて生きてきた。前世のことなんて考えたこともなかったし、今だってアリシアとしての記憶が残ってる。……それなのに、遠い昔に過ごしたはずの莉子ちゃんとの思い出が、すごく温かいの」

 

「陽菜……」


 陽菜の頬を、ひと筋の涙が伝った。


「莉子ちゃん、私たち、また忘れちゃうのかな」

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