第1話 ②
坂を下り、そのまま真っ直ぐ。
人家の灯や街灯から離れ、突き当りに着くと、目の前には黒々とした海が広がっている。
星あかりが幻想的に水面を照らし、地平線の境界すらも曖昧になって、まるで自分が宇宙に浮かんでいるようだった。
辺りを見渡すと、砂浜に膝を抱えて座り、同じように海を見つめるルミィの姿があった。
小さな背中を丸め、何かを考えるように俯いている。
「ルミィ」
「リゼ様……」
莉子が優しく声をかけると、ルミィが顔を上げた。
莉子を見つめる彼女の頬には雫が伝った跡が残り、その瞳は小さく震えている。
「急に飛び出してすみません。その、自分でもよく分からなくなってしまって」
「良いのよ。元はといえば私のせいなんだし」
「リゼ様が悪いだなんてっ。……いえ、正直に言えば、やはり私はまだ」
そしてルミィは「なんで」と小さく呟いた。
続きの言葉の断片だけが彼女の口から漏れては、空気へ溶け込んでいく。
やがて、消え入りそうな声で、彼女は言った。
「私たちのこと、どうでも良くなっちゃったんですか」
莉子は彼女の隣に並ぶように座り、空を見上げた。
水平線よりもさらに多く瞬く星々を眺め、莉子が話し始める。
「魔王城を目指して旅をしていたときにも、こうして夜の海辺で話したことがあったね」
◇
魔王城を目指す旅の終盤。
莉子たちは大型の魔獣に襲われ、何とか相手に深手を負わせながらも、進路を大きく迂回せざるを得なくなった。
命からがら逃げた先に、三日月のような浜辺にたどり着いた。
ルミィの回復術で一人ずつ治療をしていく間、ふと痩せぎすの青年が口を開いた。
「みんなは、この戦いが終わったら何をするんだ?」
焚き火の枝を弄りながら口を開いたのは、弓術士のサイラスだった。
良家の出でありながら誰よりも気さくな彼は、いつもこうして沈みがちな空気を和ませてくれる。
「僕は酒場でも開きたいなぁ。堅苦しい実家に戻るのも面倒だし」
「俺はむしろ故郷へ帰りたい。旅へ送り出してくれた家族を守らなければ」
質問に最初に応じたのは、大きな体躯をしたガランだ。
重い鎧を難なく着こなし、いつも最前線で盾として皆を守ってくれる彼は父のような存在だった。
莉子はその二人の会話を眺めつつ、自分の腕を治癒してくれているルミィに目を向けた。
「ルミィは? 何かやりたいことはあるの」
「私は……。リゼ様はどうですか」
莉子はうーん、と唸った。
神殿で勇者の神託を受けてからというもの、魔王討伐以外のことを考えることはなかった。
ましてやその先の未来のことなど、想像することすら出来なかったのだ。
でも、今こうして仲間と旅をして、いろんな地を見ることは不思議と嫌いではなかった。
「またこうして、旅が出来たらいいかな」
そう呟く莉子の横顔を、ルミィは眩しそうに見つめた。
「そのときは、私もご一緒してもいいですか」
莉子はルミィの言葉に目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「うん、もちろん。だってルミィはもう、家族みたいなものじゃない」
その言葉に、ルミィは目を細め、大切そうに頷いた。
◇
「忘れてないよ、ルミィとの思い出も」
隣に座るルミィは、膝の上で組んだ腕に顔を埋めながら、静かに嗚咽を漏らした。
莉子がその肩をそっと抱き寄せると、彼女の小さな身体は弱々しく莉子の胸に収まった。
「それならどうして、どうして、あの夜、あんな書き置きひとつで消えちゃったんですか。なんで、私に一言も言ってくれなかったんですか……」
その震える声に、莉子は息を呑んだ。
ルミィが本当に怒っていたのは、『魔王アリシアと共にいたこと』だけではなかったのだ――。
莉子の脳裏に、あの夜の記憶が鮮明に蘇る。
魔王消滅の宣言に沸く王城。冷たい石造りの客室。
震える手で書き置きだけを残し、誰にも何も告げぬまま、陽菜の手を引いて夜の闇へ飛び出したあの瞬間を。
「王都を出たあと、ずっと探してたんです」
彼女の声は、波の音に紛れそうなくらい小さかった。
「最初は王都の中を探して、それから港に行って。船に乗ったって噂を聞いたときは、嘘だと思いました。でも、他に手がかりがなくて……」
ぎゅっと膝を抱きしめる。
「私、リゼ様なら、ちゃんと何か理由を話してくれるって思ってたんです。だから、追いつけば、きっと……」
そこまで聞いて、莉子は言葉を失った。
こんな遠くまで追ってくるのに、どれだけの時間と執念が必要だったのか、想像するだけで苦しくなる。
生半可な気持ちで出来ることではない。
単なる友情や憧れでは片づけられない、ひたむきで、まっすぐな思いがそこにはあった。
それだけの大きな思いを、莉子はあの夜、踏みにじったのだ。
そのことに気付いた瞬間、足元が崩れるような悪寒が莉子を襲った。
自分の犯した罪の輪郭が、ここへ来てようやく、はっきりとした形になって浮かび上がってくる。
「ごめんね」
ようやく莉子が絞り出したのは、たったそれだけの一言だった。
きっとその声は震えていたと思う。
ルミィはふと顔を上げて莉子の顔を見た。
「……ずるいですよ。リゼ様が泣くなんて」
そう言われて、莉子はようやく自分が涙していることに気がついた。
頬に手を当てると、熱い雫が指を濡らした。
「大切なんですね。あの方のことが」
その言葉に、これまでの棘は一切なかった。
子供をあやす母のような、ちょっと困った様子の、優しい声。
ルミィはいつも莉子の気持ちの一歩先に行って、受け入れてくれる。
「……まだ、許したわけじゃありませんからね」
その優しさが変わらず胸に沁みつつも、莉子にはまだ正面から向き合えるほどの覚悟はなかった。
「うん……」
かけてやれる都合の良い言葉なんて、何ひとつない。
莉子はただ、胸にすがりつく小さな背中を、もう二度と手放さないようにそっと抱きしめ返した。




