第6話 ⑥
いつもは客で賑わう時間も、今日は静かに過ぎていく。
扉の向こうから聞こえる往来の喧騒も次第に遠ざかり、気がつけば、窓の外には深く冷たい夜の帳が下りていた。
やることもなく、店内を整理していた莉子は、小さく息を吐いて二階への階段を見上げた。
あれから、結局陽菜とは話していない。
ちゃんと眠れただろうか。お腹は減っていないだろうか。
そんな心配が何度も頭をよぎるが、どうしても踏み出すことが出来なかった。
片付けをしていた莉子は、流し台の側に置いて乾燥したままだったマグカップに気付いた。
今朝、ホットミルクを入れたときのカップ。そして、かつて二人きりだった夜にこの店のテーブルで一緒に分け合ったときのカップ。
あの時の、ランプに照らされた彼女の唇を今でも覚えている。
前世での別れ、そして今世での宿敵としての戦いを乗り越え辿り着いたこの地で過ごした、静かで甘い時間。
(ちゃんと、話さなきゃ)
莉子は意を決して階段を上り、陽菜の部屋の扉の前に立つ。
そっとノックをしてから扉を開けると、部屋の明かりは落とされたままだった。
ただ、窓から差し込む青白い月明かりだけが、ベッドの縁に腰掛けている陽菜の横顔を静かに照らし出している。
「陽菜……起きてる?」
「うん。……どうしたの、莉子ちゃん」
振り返った陽菜の顔には、朝と同じような柔らかい微笑みが浮かんでいた。
しかし、どこか透き通ってしまいそうなほど儚く、輪郭がぼやけているように見える。
まるで、今このひとときを目に焼き付けようとでもするように、陽菜の瞳はじっと莉子だけを見つめていた。
莉子はゆっくりと部屋の中へ入り、陽菜の正面に立った。
いざ彼女を目の前にすると、用意していたはずの言葉が喉の奥でつっかえてしまう。
それでも、莉子は微かに強張る自分の右手を、ぎゅっと強く握りしめた。
昨夜、自暴自棄になった陽菜の頬を思いきり張ってしまった右手。
その掌が、まだじんわりと痺れているような気がした。
「あのね。昨日の夜のことなんだけど……」
莉子は俯き加減で、ぽつり、ぽつりと紡ぎ出した。
「あんな言い方して、ごめん。私、まるで陽菜が悪いみたいに……陽菜はただ、私を守ろうとしてくれただけなのに」
「莉子ちゃん」
「私、あれじゃ、ただ自分の正しさを陽菜に押し付けて——」
ふわりと、冷たい空気が揺れた。
言い募ろうとした莉子の声は、重なった柔らかい唇によって、完全に塞がれた。
「——ぇ」
驚きで目が見開かれる。
至近距離にある陽菜の長いまつ毛が微かに震え、ひんやりとした吐息が莉子の頬を撫でていた。
突き放すことなど、できなかった。
月明かりの下、重なった唇から伝わってくる陽菜の体温はひどく冷たい。
それなのに。そこにはすがるような、泣き出す一歩手前のような不器用な熱がこもっていた。
訳が分からない。一体何が起きてるの。
頭は必死にこの状況を理解しようとするのに、唇の甘さがすべてを奪っていく。
それがどうしようもなく愛おしくて、莉子はゆっくりと目を閉じ、陽菜の細い背中にそっと腕を回した。
静かな部屋の中。
ただ、二人の小さな呼吸と体温だけがそこにあった。
(ああ……そうだ。私はただ、こうしていたかっただけなんだ)
王都の神官も、魔王の過去も、人間と魔族の諍いも。
世界を覆うその残酷な現実のすべてが、今はどうでもよく思えた。
このまま、二人だけの温かい世界に閉じこもっていられたら。
明日もまた二人で店を開けて、ホットミルクの甘さに笑い合って、くだらない冗談を言い合いながら、この普通がずっと続いてくれればいい。
いつ壊れてもおかしくない薄氷のような願いだと、心のどこかで気づいている。
それなのに、胸の奥の切実な祈りが、溢れ出して止まらない。
思考が溶け、視界から雪の寒さも消えていく。
この一瞬だけは、莉子の世界のすべてが、甘く無防備な幸福によって塗り潰されていた。
——だが。
その温かな錯覚は、唐突に終わりを告げた。
頬に、ぽたりと。
自分のものではない、雫が触れたのだ。
「……?」
ゆっくりと目を開ける。
すぐ目の前にある陽菜の顔。
その瞳から、とめどなく涙が溢れ出していた。
唇から伝わる熱とは裏腹に、肌を滑るその雫は氷のように冷たかった。
未来を願う甘さなどどこにもない。
ただ、これまでの愛おしい日々に自ら鍵をかけ、深い雪の底へと沈めていくような、後戻りのできない冷たさだった。
莉子の理性は、一瞬で現実へと引きずり戻された。
「——だめっ!」
トンッ、と。思考よりも先に、身体が動いた。
莉子の両手が、陽菜の華奢な肩を突き返したのだ。
陽菜が何を考えているのかは分からない。それでも、今のはきっと違う。
これを受け入れたら、もう二度とこの子とは一緒にいられないような気がする。
「あ……っ」
陽菜は、バランスを崩してベッドの脇へとよろめき、床に膝をついた。
莉子は息を呑んだ。
突き放してしまったことへの激しい後悔よりも先に、視界に飛び込んできた異質なものに目を奪われたからだ。
動揺によって魔法が解けたのだろう。
青白い月明かりに照らされた彼女の頭部。その左側に——禍々しくも美しい、一本の角が露わになっていた。
「違う、今のは……っ!」
我に返り、慌てて手を伸ばそうとした莉子を見て。
陽菜はなぜか、ふっと痛ましい笑みを浮かべた。
それは、悲しみではない。
莉子の無意識の拒絶こそが、自分が欲しかったものだとでも言うような、ひどく安堵したような歪んだ笑み。
「……ね」
陽菜の掠れた声が、静かな部屋に落ちる。
「莉子ちゃんも、本当は分かってるんだよ。私は、莉子ちゃんの隣にいちゃいけないって」
「違う! 私はただ驚いてっ……陽菜がいなくなっちゃう気がして、それで——」
「ううん。……ありがとう、莉子ちゃん」
陽菜は、立ち上がった。
露わになった魔族の角を隠そうともせず、ゆっくりと背を向ける。
「私に、罰をくれて」
その言葉は、莉子の胸をこれ以上ないほど鋭く、深く抉り取った。
「陽菜、待って! 行かないで!」
直後、陽菜の背中がふっと輪郭を失い、蜃気楼のように揺らぐ。
それは、彼女が最も得意とする幻影の魔法だった。
淡い光の粒子となって、陽菜の姿が完全に空間に溶け落ちる。
空っぽになった部屋に、ただ青白い月明かりだけが静かに降り注いでいた。
その無機質な光の中で、ふと、ベッドの上に微かなきらめきが落ちた。
見覚えのある、素朴な装飾があしらわれた髪飾り。
浄夜祭の熱に浮かされ、二人で並んで買ったお揃いの思い出。
あんなにも温かかった日常の欠片が、今はもう二度と戻らない夢の残骸のように、ひっそりとシーツの上に取り残されていた。
「っ……!」
莉子は弾かれたように部屋を飛び出した。
もつれる足で薄暗い階段を駆け下り、一階のホールへ。
乱暴に鍵を開け、重い木扉を押し開けて、店の外へと飛び出す。
「陽菜っ……、陽菜ぁっ!」
夜の冷たい風が、莉子の頬を容赦なく打ち据えた。
静まり返った石畳の通り。街灯に照らされた白い雪の上には、足跡ひとつ残されていない。
彼女はもう、本当に手の届かない場所へ行ってしまったのだと、冷酷な現実が突きつけてくる。
(私のせいだ。私が、陽菜を追い詰めたんだ……っ)
ただ、隣にいたかった。くだらないことで笑い合っていたかった。
けれど、その身勝手な願いが、一番大切な親友の居場所を奪ってしまったのだ。
膝から、力が抜けた。
降り積もった冷たい雪の上に、莉子は糸が切れたように崩れ落ちる。
「ああ……っ、あああああ……っ!」
自分の両手を強く握りしめ、冷たい雪に顔を伏せる。
凍えるような夜の静寂の中、取り返しのつかない後悔に身を裂かれた莉子の嗚咽だけが、いつまでもむなしく響き渡っていた。
◇
港町を見下ろす小高い丘の上。
すべてを白く染め上げていく降雪の中、純白の法衣を纏ったクラウス・ベルンハルトは、音もなく佇んでいた。
彼の手には、王都の教会本部へ送るための小さな羊皮紙が握られている。
昨夜、この街の近くで観測された『強大な魔力の異常発生』について記された正式な報告書だ。
クラウスは氷のような瞳で眼下の街を一度だけ見下ろすと、何の感情も交えない無造作な動作で、その羊皮紙をぐしゃりと握り潰した。
クシャッ、というくぐもった音とともに、報告書は彼の掌の中で微細な光の粒子となって分解され、雪風の中に消えていく。
(……今回だけだ、リゼット)
底冷えのする厳しい横顔に、ほんの一瞬だけ、弟子の甘さを咎めるような、しかしどこか見守るような微かな温もりが過ぎ去った。
だが、彼自身も教会の末端に過ぎない。この街に生じた亀裂を握り潰せるのは、これが最初で最後だ。
遠からず、王都の目は必ずこの街の異常を嗅ぎつける。
クラウスが静かに踵を返そうとした、その時だった。
街の外れ。王都へと続く街道の入り口に、吹雪に紛れるようにして歩く小さな影が見えた。
肉眼ではただの雪の吹き溜まりにしか見えない、完璧な幻影の魔法。
だが、クラウスの魔力視を欺くことはできない。
吹きすさぶ雪の中、たった一人で街を出ていく魔王の姿。
クラウスはそれを呼び止めることも、捕縛することもしなかった。
ただ無言で、影が遠ざかっていくのを見据えている。
「……己から首輪を外し、牙を抜かれたか。滑稽で、どこまでも哀れだ」
冷たい吐息とともに紡がれた独白は、風の音にかき消される。
クラウスは法衣の袖から静かに右手を持ち上げると、遠ざかる影に向けて、人差し指で小さく虚空をなぞった。
——その瞬間。
陽菜の足元に落ちた暗い影の奥底に、極小の術式が音もなく張り付いた。
どれほど完璧に姿を隠そうと、あるいは地の果てへ逃げようと、教会の追跡からは決して逃れられない。
それが、一時的な情けをかけた彼なりの保険だった。
すべてを真っ白に塗り潰しながら、街は深く静かな雪の底へと沈んでいく。
二人の少女が身を寄せ合った仮初めの春は、音もなく、長く冷たい冬の底へと沈んでいった。




