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第6話 ⑤

——とんでもない魔物が出たに違いないって血相を変えて……。


 階段の陰に座り込み、両膝を強く抱え込んだまま、陽菜は震える奥歯を必死に噛み締めていた。

 下から聞こえてきた声が、呪いのように耳にこびりついて離れない。


(私のせいだ。私が、莉子ちゃんの世界を壊してる)


 莉子がどれだけ明るく振る舞ってくれても。温かいミルクを淹れて自分を元気づけようとしてくれても。

 

 この街の人間にとって、自分は平和を脅かす魔物に他ならない。

 あの温かい常連客でさえ、もし陽菜の正体を知れば、迷わず石を投げるだろう。


 息が詰まる。喉の奥がカラカラに乾き、胸が押し潰されそうだった。

 ここにいてはいけない。今すぐ、どこかへ——。


 陽菜はふらつく足で立ち上がると、表の扉で立ち尽くす莉子に見つからないよう、息を殺して裏口の階段を下りた。

 厨房の勝手口から、逃げるように路地裏へと飛び出す。


「はぁっ、はぁ……っ」


 冷たい朝の空気を肺の底まで吸い込む。それでも、動悸は全く収まらない。

 壁に手をつき、雪の残る石畳に視線を落とした、その時だった。


「……己の罪から目を背け、今度はどこへ逃げるつもりだ」


 頭上から降ってきた氷のような声に、陽菜の心臓が跳ね上がった。


 勝手口のすぐ脇。建物の死角に溶け込むようにして、純白の法衣を纏った男が立っていた。

 ——昨日対峙した、神官その人だった。


「……っ。なんで、ここに」

「昨日の今日だ。貴様らの動向を見張っておくのは当然だろう。それともすべて夢で、何事もない平和な日常に戻ったとでも思ったか」


 その声は、一切の甘えを許さない。

 まるで鋭利なメスのように、陽菜の心を容赦なく抉り出してくる。


「……わかってる」


 陽菜は俯いたまま、掠れた声で絞り出した。


「わかってるよ……私がいちゃいけないことくらい。私が、莉子ちゃんを傷つけてることも」

「ならば、なぜまだここにいる」

「それは……」

「リゼットが自分を庇ってくれるからか?」


 神官は、底冷えのする瞳で陽菜を見下ろした。


「またあの娘の優しさに甘え、自分の弱さの言い訳にするつもりか」

「違うっ。私は、ただ……」


 ただ、大好きだった。

 くだらないことで笑い合える、この世界での二人の時間が。

 有栖陽菜として莉子に名前を呼んでもらえるこの場所が、愛おしくて手放せなかっただけだ。

 

 でも、その未練が、莉子の日常を狂わせている。


 目の前の神官は、反論すらできずに立ち尽くす陽菜から興味を失ったように、静かに背を向けた。


「あの娘は勇者だ。貴様がその首に縋り付いている限り、何度でも己の正義を曲げて庇うだろう。……それが、いずれあの娘自身を破滅させることになるとも知らずにな」


 それだけを言い残し、白い影は足音もなく路地裏の奥へと消えていった。


 後に残されたのは、身を切るような冷たい風と、陽菜だけ。

 陽菜は自分の両手を見つめた。

 魔王の力にまみれた、恐ろしい化け物の手。


「……ごめんね、莉子ちゃん」


 もう、泣けなかった。

 ただ自分自身に対する冷え切った確信だけが、陽菜の心を空っぽにしていた。


 行かなければ。莉子ちゃんが帰ってくる前に、今すぐ、どこか遠くへ。


 頭ではそう分かっているのに、雪に濡れた足はリリーの方角を向いていた。

 ——もう一度だけ。


 たった一度でいい。最後に、莉子ちゃんの顔を見てから。


 その甘く救いようのない未練だけが、陽菜を再びこの店へと引き戻していった。

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