第6話 ④
朝の冷たい空気を切り裂くように、街には穏やかな鐘の音が響いている。
祭りの後の、どこか気怠く、けれど平和な港町の朝。
莉子は凍える手に息を吹きかけながら、足早に石畳の坂道を下っていく。
(陽菜のために、今の私ができること……)
ふと、記憶の底から温かい香りが蘇った。
『莉子ちゃん、ホットミルクでも飲む?』
まだこの街に来たばかりで、慣れない生活と不安に凍えていた夜。陽菜が淹れてくれた、あの甘くておだやかな刺激を含んだ一杯。
あの優しい温もりに、これまでどれほど救われてきたか分からない。
(今度は、私が陽菜にお返しする番だ)
喫茶リリーの扉を開けると、暖炉に火の入っていない店内は、外よりもずっと底冷えがした。
莉子はコートを脱ぐのもそこそこに厨房へ向かい、小鍋を取り出して火にかける。
慎重にミルクを注ぎ、すりおろした生姜と、蜂蜜を少し多めに落とした。
甘く立ち上る湯気をマグカップに注ぐと、莉子は小さく深呼吸をしてから、二階へと続く階段を上り始めた。
◇
階段を上り、陽菜の部屋の前に立つ。
目を閉じ、深く息を吐いた。大丈夫、落ち着いている。
少しだけ隙間の開いた扉を、そっとノックした。
「陽菜、入るよ」
返事を待たずに静かに扉を押し開けると、カーテンの閉まりきった薄暗い部屋の中で、陽菜はベッドの上に、膝を抱えて座っていた。
昨夜の服のまま、虚空を見つめていた彼女の姿に身が竦む。
しかしそんな不穏な様子とは裏腹に、彼女は思いの外あっさりと呼びかけに応じ、こちらに顔を向けた。
そのことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「莉子、ちゃん……」
「おはよう。少しは眠れた?」
莉子は笑顔を作り、努めて明るい声を出した。
そうしないと、陽菜を引き止めていられないような気がしたから。
陽菜は小さく首を横に振った。その顔色は抜けるように白い。
それでも、完全に心を閉ざしてしまったわけではない。
莉子はベッドまでゆっくりと近づき、マグカップを差し出した。
「はい、これ。生姜入りホットミルク」
「あ……」
「前に陽菜が作ってくれたでしょ。ちょっと甘めにしてみたんだけど、どうかな」
陽菜はおずおずと両手を伸ばし、マグカップを受け取った。
マグカップを包み込む陽菜の指先が、微かに震えている。
それでも彼女は、ふう、と小さく息を吹きかけると、ゆっくりと一口飲んだ。
「……美味しい」
「よかった」
陽菜の唇から、ふにゃりとした、いつもの頼りない笑みがこぼれる。
その柔らかい表情を見た瞬間、莉子の胸を塞いでいた重たい泥のような不安が、すっと溶けていくのを感じた。
(よかった。……ちゃんと、いつもの陽菜だ)
ヴィエラの言葉を聞いて、最悪の事態ばかりを想像していた。
でも、陽菜はちゃんと笑ってくれた。私の淹れたミルクを飲んでくれた。
時間をかければ、きっとまた、あのくだらなくて温かい日常に戻れるはずだ。
「ごめんね、莉子ちゃん。色々と、心配かけて」
「ううん、謝らないで。今日は一日、お店はお休みにしてあるから。二人でゆっくり休もう?」
そう言いながら、莉子は空いたトレイをサイドテーブルに置こうと、ふと陽菜から目を逸らし背を向けた。
「ヴィエラもね、怪我はひどかったけど、ルミィがついてるから大丈夫そうだったよ。だから陽菜は何も気にしないで——」
振り返りざまに言葉を続けようとした莉子は、彼女の姿を見て、ぴたりと動きを止めた。
陽菜は空いた左手を、そっと自分の頭の横、今は隠された角が生えているあたりに触れさせていたのだ。
その瞳から先ほどの柔らかい笑みは完全に消え失せ、底知れない虚無だけがぽっかりと口を開けていた。
「え……陽菜?」
「あっ、ううん。何でもないの」
莉子の声に弾かれたように、陽菜は慌てて手を下ろす。
そして再び、困ったような、けれど優しい微笑みを莉子に向けた。
「うん。……今日は、ゆっくり休むね。ありがとう、莉子ちゃん」
その笑顔は、莉子がよく知る親友のものだった。
さっきの仕草も、ただ髪を直そうとしただけかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、莉子は「うん、また後で様子見に来るね」とだけ言って、静かに部屋を後にした。
一階の店舗に下りると、火の気のない冷え切った空気が莉子を包んだ。
少しだけ換気をしよう。
冷たい風に当たれば、先ほどの嫌な予感も気のせいだと思える気がした。
裏返した休業の札が揺れないよう、そっと入り口の扉を開けた、その時だった。
「おや、店員さん。今日は休みかい?」
不意に声をかけられ、莉子はびくりと肩を跳ねさせた。
そこに立っていたのは、毎日のように店に顔を出してくれる近所の常連客だった。
買い物籠を下げ、不思議そうにこちらを見ている。
「あ……はい。お祭りに行ったら少し疲れが出ちゃったみたいで、今日は休もうかと」
「そうかいそうかい、雪も降ってたし、身体が冷えてしまったのかもね。それがいい、いくら若いからって無理は禁物だからね」
常連客は人の良さそうな笑みを浮かべた後、ふと首を傾げ、心配そうに頬に手を当てた。
「それにしても、昨日の夜は恐ろしかったねえ」
「えっ……何が、ですか?」
「丘の上のほうさ。浄夜祭の片付けをしていた頃かな、空を切り裂くような真っ黒い雷みたいなのが落ちたって、近所で大騒ぎになってるんだよ。衛兵たちも、とんでもない魔物が出たに違いないって血相を変えて見回りをしてて……」
その言葉に、思わず息が詰まった。
心臓がひやりと収縮し、胃の腑へと重く冷たい石が落ちていくような錯覚に、全身の血がさあっと引いていく。
——この先どう足掻こうと、その異常な魔力はいずれ王都の嗅ぎつけるところとなる。せいぜい、偽りの日常で震えながら待つことだな。
昨夜、クラウスが言い捨てた警告が、氷のように脳裏に蘇る。
背中を嫌な汗が流れた。
莉子は耳の遠くなるような目眩を感じながらも、何事もないような表情を浮かべる。
「……私たちは、疲れてぐっすり寝ちゃってたので、全然気づきませんでした」
「ならよかった。戸締まりはしっかりしなよ。何が起こるか分からないからね」
常連客は心配そうに手を振って去っていく。
その背中を見送ろうとした莉子の視界の端に、ある異質なものが映り込んだ。
通りのずっと奥。朝の喧騒に紛れるようにして、純白の法衣の裾が建物の陰へと消えていくのが見えたのだ。
「……っ」
幻覚なんかじゃない。確実に見張られている。
莉子は震える手で逃げるように扉を閉め、内側から鍵をかけた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
(陽菜には、絶対に言えない。これ以上、あの子を追い詰めるわけにはいかない……!)
莉子は扉に背中を預け、必死に呼吸を整えた。
しかし、莉子は気づいていなかった。
古い木造の建物に響いたその会話のすべてが、薄暗い階段の上の廊下で、息を殺して立ち尽くす陽菜の耳に届いていたということに。




