第6話 ③
錆びついて踏みしめるたびに嫌な音を鳴らす外階段を上り、今にも外れそうなほど痩せて歪んだ扉をノックする。
半ば返事はないものだろうと思っていただけに、はーい、と軽やかな声が返ってきたことに驚いた。
ぎい、と開いたドアからルミィの顔が覗く。
向こうは向こうで予期せぬ顔の登場に目を丸くしていた。
「わっ、びっくりした……リゼ様? どうしてこんな朝早くに」
「おはよ。どうしたも何も、ヴィエラのことが気になったからね」
そう言いながら、莉子はルミィの姿を見た。
昨晩と同じ格好。目には薄く隈が浮かんでいる。
「もしかして、寝ずに看病してたの?」
「ええ……まあ」
ルミィは浮かない顔で部屋の奥を振り返る。
おそらくそこにヴィエラが休んでいるのだろうが、彼女の姿は柱の陰になっていて見えなかった。
昨夜、クラウス先生が去った直後、ヴィエラは張り詰めていた糸が切れたように気を失った。
傷だらけの彼女のことは気がかりだったが、陽菜を放って置くわけにはいかない。
迷う莉子の背に、ルミィのか細い声が届いた。
「ヴィエラのことは私に任せてください。リゼ様は……今は、陽菜さんに付いていてあげてください」
長年の師に針のような厳しい言葉を向けられ、ルミィだって辛いはずだ。
それでも彼女は、懸命に己を奮い立たせている。その目には、揺らぐことのない決意の火が灯っていた。
身も心もぼろぼろにやつれた四人の中で、ルミィだけがまだ終わっていない。
健気な彼女の言葉に、莉子は素直に頷いたのだった。
そして夜が明け、店の扉に本日休業の札を掛け、ルミィとヴィエラの暮らすアパルトメントへとやってきた。
「傷は大丈夫そう?」
「峠は越えたと思います。やっぱり魔族ですね。身体は無駄に頑丈みたいです」
彼女の言葉は憎まれ口そのものだが、その勢いはいつもよりずっと弱々しい。
その横顔には、ただ一人の無事を希ねがう切実な祈りが静かに滲んでいた。
莉子は用意してきた手提げの袋を取り出した。
「はい、これ。少しだけど、栄養のつきそうなものいくつか作ってきたから、温めて食べさせてあげて」
「わあ……こんなに沢山。ありがとうございます」
中にはハーブで煮込んだ清湯や消化によさそうな大麦の粥が覗いている。
ふんわりと柔らかい笑顔を見せたルミィだが、袋を受け取ると今度は心配そうにこちらを見た。
「お気遣いは嬉しいのですが、その、陽菜さんはいかがですか」
その問いに、莉子は力なくかぶりを振った。
「……あれからずっと、一言も喋らなくて」
「そうですか……」
ルミィは手提げ袋の持ち手を、ぎゅっと握りしめた。
血の気を失って白く透けたその指先が、微かに震えている。
あの雪降る丘の上で、クラウスの放った冷徹な言葉の刃がどれほど深く陽菜を切り裂いたか、彼女も同じ景色の中でまざまざと見せつけられたのだ。
「私、陽菜に何を言ってあげたらいいのか……分からないんだ」
昨夜からずっと胸の奥でせき止めていた迷いが、ぽつりと唇の隙間からこぼれ落ちる。
「陽菜がどんな気持ちでいるのか。下手に言葉をかけたら、余計に傷つけてしまいそうで……」
前世からの親友だなんて宣ったくせに、なんて自分は無力なんだろう。
俯く莉子の耳に、不意に、掠れた声が届いた。
「……貴方には、一生分からないでしょうね」
身体のあちこちを包帯で巻かれたヴィエラの姿が、そこにあった。
柱にもたれ掛かり息を途切れさせながらも、その真紅の瞳は静かに光を放っていた。
「ちょっと、何起きてるんですか——っ」
「いいから」
慌てて彼女の元に駆け寄ったルミィを手で制すと、ヴィエラはゆっくりとこちらへ寄ってきた。
一歩を踏み出す毎に小さくうめき声を上げ、彼女がどれだけの痛みに耐えているのかが伝わってくる。
「同胞が嬲られているのを、ただ黙って見過ごす。……あの方が、そんなことを平気でするはずがない」
「……でも、陽菜はあんなの見過ごせばいい、って」
「本気でそんなことを言ったと思ってるの?」
「それは……」
あの時、陽菜は震えていた。
表面に出た言葉が真実ではないことくらい、あの子の性格を知っていれば分かる。
それでも、それが本心ではなかったとしても、冗談でもそんな言葉を陽菜から聞きたくはなかった。
「だったら、なんであんなこと言ったのよ……っ」
「決まってるじゃない」
ヴィエラの鋭い目が莉子を捉える。
「魔王アリシアではなく、有栖陽菜として貴方の傍にいたいと、どうしようもなく願ってしまっているからよ」
「——っ」
莉子は息を呑んだ。
あの時、陽菜がどれほど自分を殺して、あの言葉を口にしたのか。
その痛切な覚悟が、今になって莉子の胸を鋭く突き刺す。
「魔王としての自分と同胞の命、そして有栖陽菜という前世の自分。その狭間で、あの方の心はとっくに限界だったはず」
ヴィエラは自嘲するように、ふっと息を吐いた。
「なのに……昨夜はどうだった?」
「えっ……」
「貴方たちを守るために、あの方は結局、捨てようとした魔王としての力を振るうしかなかったじゃない」
ズキリ、と。莉子の胸を締め付けるような嫌な痛みが刺す。
クラウスの言葉にも力にも太刀打ちできず、惨めに這いつくばっていた莉子たち。
それに止めを刺さんと放たれた圧倒的な威圧に対抗した、陽菜の暴力的で禍々しい魔力の奔流。
「どれほどの矛盾の中でもがいているか、分かる?」
「……っ」
「貴方を守ろうと力を使えば使うほど、貴方が生きる人間の世界から弾き出されてしまう。……昨夜、あの方がどんな顔をして自分の手を見つめていたか、貴方にも見えたはずよ」
——結局私は、化け物なんだよ。
雪の中でぽつりと零れ落ちた陽菜の呟きと、莉子を拒絶した虚ろな瞳。
あのとき莉子が越えられなかった冷たい壁の正体が、今、残酷に像を結んだ。
「本当なら、私が何とかして差し上げたい。アリシア様を幼少からお支えしてきたのは、この私なのよ……っ!」
ヴィエラは痛む身体を再びルミィに預けながら、真っ直ぐに莉子を睨みつけた。
その目には、今にも溢れそうな大粒の雫が浮かんでいる。
「でも……でもっ! あの方を人間の側に引き戻せるのは、私じゃない。私の前では、あの方はどこまでも完璧で孤高な……魔王アリシア様なの」
その声はほとんど聞き取れないくらい小さくて。
それでも、確かに莉子の耳に届いた。
「……どこまでも不器用な有栖陽菜という娘の隣にいられるのは、人間である貴方だけでしょうが」
棘だらけの言葉の奥で、彼女の瞳は誰よりも純粋な忠誠に揺れていた。
魔族としての矜持を捨ててでも、ただ一人の少女の幸せを願う。それはかつての敵が、人間の勇者へと己の王の命運を託した瞬間に他ならなかった。
莉子の胸の奥に、小さな熱が灯る。
「ヴィエラは……どうして、まだ陽菜の側にいてくれるの?」
その問いに、ヴィエラの唇から言葉が紡がれることはなかった。
彼女はただ、荒い呼吸を整えようとする自分の背中に、そっと労わるように添えられたルミィの小さな手を横目で見つめている。
神に仕えるはずの人間の少女が、かつての宿敵である魔族の傷を案じ、痛みを分け合っている。
この薄暗く狭い部屋にだけ灯るその静かな温もりこそが——どんな言葉よりも雄弁に、彼女の選択の理由を物語っていた。
——過去にとらわれず、自分の意思で今の仲間を選んだんだよ!
昨夜、莉子自身がクラウスに向かって叫んだ言葉。それが今、他でもないヴィエラの生き方を通して、莉子のもとへ確かに届いたのだ。
もう、迷いはなかった。
莉子は力強く頷き、立ち上がる。
「……ありがとう、ヴィエラ。ルミィも」
「リゼ様」
ルミィが、祈るように両手を組んで莉子を見つめた。
「陽菜さんのこと……どうか、よろしくお願いします」
「うん。行ってくる」
静かにアパルトメントの扉を閉める。
朝の冷たい空気が肺を満たすが、不思議と寒さは感じなかった。
(私が、陽菜を呼び戻すんだ)
二人に灯してもらった熱を胸に抱き、莉子は坂道を駆け出していった。




