第6話 ②
「——させないっ!」
莉子は爆発的な脚力で大地を蹴り、クラウスの頭上を飛び越える滑らかな軌道を描く。
視線は眼下の敵から外さないまま、空中で右手に意識を集中させた。
空間の狭間が波打ち、見えない次元の扉が開く。
何もない宙を掴んだはずの掌に、かつて何度も命を預けた重みが確かな実体を持って顕現した。
雪を散らしてルミィの前に舞い降りた莉子。
その盾となるように構えられた手には、暗い雪夜を鮮やかに切り裂く、青く光り輝く長剣が握られていた。
直後、大気を叩き潰すような衝撃波が莉子を襲う。
「くぅぅっ……!」
剣を盾に、絶え間ない圧力を受け止める。
勇者としての全魔力と筋力を防御に回してもなお、身体の芯が軋むほどの重圧。足裏の雪が抉れ、ずざざざっ、と後方へ押し込まれる。
それでも、莉子は決して膝を突かなかった。
「リゼ様……っ!」
「ルミィは間違ってない! 先生の言う通り、ルミィは誰よりも魔族を憎んでた。でも、今はヴィエラを、陽菜を助けようとしてる。過去にとらわれず、自分の意思で今の仲間を選んだんだよ!」
莉子は痺れる腕を下ろし、鋭い眼光でかつての師を睨み返した。
人間と魔族。決して相容れないはずの教義を破り、魔族を庇って立ちはだかる教え子たち。
その光景に、純白の神官は忌々しげに微かに眉をひそめた。
「……愚劣な。かつての人類の希望の象徴も、揃いも揃って腑抜けたか」
彼が下ろした掌に代わり、今度はその冷酷な視線が莉子と、反対側で小さく震える陽菜へと向けられる。
その眼光は、一切の容赦を持たない鋭い刃のようだった。
「リゼット。貴様が命を懸けて守ろうとしているその女を見てみろ。かつて勇者に敗れながらも惨めに命を長らえ、あろうことか魔族の長としての誇りすら捨てて、人間の真似事をして生きている。……滑稽を通り越して反吐が出るな」
莉子は奥歯を噛み締め、剣を構え直した。
「世界がどうとか、過去がどうとか、そんなこと関係ない。私が、陽菜と一緒にいたいだけです!」
吹きすさぶ雪の中、莉子の叫びがこだまする。
だが、クラウスの表情には微塵の揺らぎも生じない。彼はただ、哀れむような氷の眼差しを莉子に向けた。
「それが貴様の答えか。……その女が魔王として君臨していた時代、どれだけの人間が蹂躙され、血を流したと思っている」
「それは……っ」
「貴様らの居場所など、とうに掴んでいた。すぐに踏み込まなかったのは、かつての教え子が本当に魔王などに絆されたのか、この目で確かめるためだ。……ここ数日、お前たちの店を見ていた。なるほど、使命を捨て立場も忘れ、娯楽に興じるのはさぞ気持ちが良いだろうな。だが、人間に混じって愛想笑いを浮かべた程度で、これまでの大罪が清算されるとでも思っているのか」
断罪の言葉が、雪風よりも冷たく響き渡る。
それは莉子にも、そして誰よりも陽菜自身の胸を深く、無残に抉り取った。
「いかなる理由があろうと、魔王の罪は決して消えん。世界の理として必ずここで滅ぼすべき絶対悪。そして、それに加担するお前らも同罪だ」
クラウスが一歩、前へ踏み出す。
途端に、空気が重くのしかかるような圧倒的な魔力の圧が莉子たちを襲った。
殺気ではない。ただそこに存在するだけで魂をすり潰すような、絶対者の威圧。
(だめだ、このままじゃ……みんな、殺される)
莉子が必死に抗おうと身を固くした、その時だった。
「——やめて」
クラウスの背後から、ひどく静かな声が響いた。
小さくうずくまっていた影が、ゆっくりと立ち上がる。
「陽菜……?」
陽菜は俯いたまま、ふらつく足取りでクラウスと対峙した。
その身体からは、抑えきれない魔力が陽炎のように漏れ出している。
——おかしい。丘で見た陽菜は、角を隠す力すら尽きかけていたはずだ。
なのに今、凍えきった身体から、ありえないほどの魔力が滲み出している。
残った力をかき集めているのではない。空になった器に命そのものを流し込んで、無理やり満たしているようだった。
「悪いのは私。やるなら私だけにしなさい。……でも莉子ちゃんたちに手を出すことは、絶対に許さない」
顔を上げた陽菜の真紅の瞳は、これまでに莉子が見たことのない昏い光を宿していた。
直後、空気が悲鳴を上げた。
陽炎のように漏れ出していた魔力が、一瞬にして爆発的な奔流へと変貌する。
ドクン、と。
空間そのものが脈打ったかのような錯覚。
陽菜を中心に、黒い靄のような濃密な魔力が渦を巻き、周囲の雪を一瞬にして蒸発させた。
莉子の息が止まる。
ルミィが恐怖に顔を引き攣らせ、傷ついたヴィエラですら圧倒されて息を呑んだ。
それは、ただの膨大な魔力ではない。
あらゆる生命を蹂躙し、恐怖で世界を塗り潰す、純粋な暴力の波動。
魔王アリシアがもつ、文字通りの絶望そのものだった。
「……ほう」
これまで凪のごとく静止していた足先が、陽菜へと向けられる。
彼の目には、彼女から放たれる規格外の魔力が克明に視えているはずだ。
張り詰めた沈黙が丘を支配する。
陽菜から放たれる殺気と魔力は、今にも暴走しそうなほど膨れ上がり、雪雲を割って夜空を歪ませている。
クラウスは鋭い眼光で陽菜を見据えたまま、チッ、と微かに舌打ちをした。
「……なるほど。追い詰められれば、結局は化け物としての牙を剥くか。浅ましいことだ」
嘲りながらも、その表情は冷徹に何事かを思案している。
「ここでお前とやり合えば、街ひとつが灰になる。浄夜祭の晩に、わざわざ無用な虐殺を引き起こす趣味はない」
彼は右手を下ろし、纏っていた威圧感をスッと霧散させた。
(先生が、手を引いた……。助かったの?)
陽菜に背を向けたクラウスが、ゆっくりと莉子の前を通り過ぎる。
そして数歩のところで、その背中が止まった。
「……勘違いするなよ、リゼット。貴様らは今日、何も守れてなどいない。魔王の力にすがり、ただ延命しただけだ」
クラウスは冷たく言い放つ。
「この先どう足掻こうと、その異常な魔力はいずれ王都の嗅ぎつけるところとなる。……せいぜい、偽りの日常で震えながら待つことだな」
「……っ」
それだけ言い残し、その身を翻した。
純白の法衣が暗闇に溶け、足音一つ立てずに、彼が来たときと同じように静かに消えていく。
直後、陽菜の周囲を渦巻いていた異常な魔力が、燃え尽きるようにふっと途絶えた。
振り絞った力の代償か、糸が切れたように、陽菜の身体が雪の上に崩れ落ちる。
「陽菜っ!」
慌てて駆け寄った。
「大丈夫!? どこか痛むところは——」
しかし、陽菜は莉子の手から逃れるように、わずかに身体を引いた。
「あっ……」
抱きしめようとした莉子の手は、ただ空を切るだけだった。
彼女は、雪の上に手をついたまま、自身の震える掌をじっと見つめている。
先程まで、周囲を恐怖で塗り潰すほどの魔力を放っていたその手。
「あの神官の言った通り。……結局私は、化け物なんだよ」
ぽつりと零れ落ちた声には、もう涙すらなかった。
莉子を守るために——そのためだけに振るった力。
けれどそれは、莉子が生きる人間の世界を脅かす「魔王」としての証明に他ならなかった。
その残酷な事実が、二人の間に、先程までの敵の威圧感よりもずっと重く、冷たい壁となって立ち塞がる。
何も言い返せず、莉子は拳を握りしめる。
後に残されたのは、圧倒的な力に頼るしかなかった敗北感と、どうしようもないほどの気まずさだけ。
遠くで、浄夜祭の終わりを告げる鐘の音が、重く、低く響いていた。




