第5話 ⑥
どれくらい、雪の降る街を走り回っただろうか。
人通りの絶えた裏路地、暗い軒下、祭りの残骸が散らばる広場。
思い当たる場所をいくら探しても、陽菜の姿はどこにもなかった。
凍てつく空気を吸い込むたび、肺が焼けるように痛む。
それでも、莉子は止まらなかった。
(どこなの、陽菜……っ)
ふと、莉子は視線を上げた。
街の外れ、大通りから少し離れた高台へと続く坂道。
あそこなら、街を一望できる。祭りの光から遠ざかるように歩き続けたのだとしたら、暗い丘の方へ向かったのかもしれない。
藁にもすがる思いで、莉子は雪の積もる坂を駆け上がった。
丘の頂にたどり着いた瞬間、視界が開ける。
眼下には、街を埋め尽くすように並べられた無数の慰霊灯が、星海のように暖かな光を放っていた。
だが、莉子の目が捉えたのは、その美しい光景ではなかった。
光の海から一番遠い、丘の縁。
吹きさらしの雪の中、ほとんど埋もれたベンチの上にぽつんと、小さな影がうずくまっていたのだ。
「陽菜……っ!」
莉子はそれを見るやいなや、息が上がるのも構わず駆け寄った。
雪にまみれたコート。お揃いの髪飾りは緩み、淡い髪は濡れて肌に張り付いている。
顔には明らかに生気がなく、その頭部からは、普段は魔法で隠されているはずの一本の角が、痛々しく剥き出しになっていた。
魔力が切れたのか——。ただでさえこの寒さだ。それに加えて莉子の言葉が彼女を追いこんでいたのだとしたら。
「やっ、と……見つけたっ。なに、してるのよ……っ!」
氷のように冷え切った肩を抱きしめようと、莉子が手を伸ばした刹那。
「……触らないで」
かすれた、けれど拒絶の色を孕んだ声が、莉子の手を空中で縫い留めた。
ゆっくりと顔を上げた陽菜の瞳は、眼下の暖かな光を反射しているというのに、どこまでも虚ろで暗かった。
「陽菜……こんなところにいたら、風邪引いちゃうよ」
「……ほっといて。私にはもう、帰る場所なんてないんだから」
陽菜は腕に顔を埋めたまま、ひどく冷たい声で言った。
その言葉に、莉子は胸を突かれる。
「何言ってるの。私たちの家は、喫茶店でしょ。一緒に……っ」
「違うよ。……全然、違う」
顔を上げた陽菜の悲痛な声が、莉子の言葉を遮った。
「莉子ちゃんはいいよね。帰る場所がたくさんある。私に合わせなくたって、王都や故郷に戻れば、勇者リゼットとしての未来がある」
「そんなこと——」
「私には、何もないっ!」
反論しようとした莉子を、さらに強い拒絶が打つ。
「広場で、あの子が蹴られているのを見たとき……私、助けなきゃって思うより先に、怖いって思った」
「怖い……?」
「正体がバレたらどうしようって。そんなことになったら、もう莉子ちゃんの隣にはいられないって……」
陽菜の声が震えていた。
広場での出来事が、莉子の脳裏をよぎる。
大人たちに囲まれて蹴り続けられる子供を、遠巻きに凍り付いて見ていた陽菜の姿。
「だからって、私を言い訳にしないでよ……!」
「違うっ。 莉子ちゃんのためなんかじゃない」
陽菜の悲痛な叫びが、莉子の言葉を遮った。
「私はただ……莉子ちゃんとずっと一緒にいたかっただけ……。自分の居場所を守りたくて、あの子を……見て見ぬふりをした……」
ぽつりと、懺悔のような言葉がこぼれ落ちる。
「正体を隠してやり過ごせば……そうすれば、莉子ちゃんとずっといられるって思った」
震える両手が、頭に生えた一本の角を痛ましげに掴む。
「私、最低だ……っ」
声が、嗚咽に溶けていく。
その痛切な響きに、莉子は息を呑んだ。
——そうか、いま分かった。
陽菜は孤独だったんだ。同胞すら見捨てるしかないほどに。
陽菜にとって、喫茶店こそが、莉子との日々こそがすべての居場所だった。
その日々を手放したくなくて、あの子供を助けられなかったのだ。
「こんなことなら……莉子ちゃんとの記憶なんて、戻らなければよかった……」
ほとんど音にならないくらい、小さな声。
しかし底知れぬ諦念が、その言葉には込められていた。
否定したかった。そんなこと言わないでと抱きしめたかった。
けれど、陽菜をそんなにも残酷な葛藤へ追い込んでいたのは、何よりも自分自身だった。
その事実を在々と突きつけられ、莉子は声を発することすらできなくなってしまった。
莉子の沈黙をどう受け取ったのか。
陽菜は、力なく視線を下へ落とした。
人間の悲嘆と祈りが込められた、無数の慰霊灯が遠くに見える。
魔族を憎むその光の輪の中に、彼女の居場所はない。
「ねえ、莉子ちゃん」
雪の降る夜空に溶けるような、ひどく脆く、か細い声だった。
「今の私って……人間なのかな。それとも、魔族なのかな」
どちらの世界にも属せず、すべての中間に取り残された者の、あまりにも悲痛な問い。
胸が張り裂けそうになり、莉子がどうにか唇を開きかけた、その時だった。
「——そのどちらでもない。魔王アリシア」
背後から響いたのは、感情の温度を一切持たない、底冷えするような男の声だった。
「ッ!?」
莉子が弾かれたように振り返る。
雪の降る暗がりから、足音すら立てずに一人の男が進み出てきた。
純白の法衣。
首元で鈍く光る、オルディス神殿の聖印。
先程、広場で露店主に接触していたあの神官だった。
「な、んで……」
愕然とする莉子を鋭く一瞥し、神官は雪の中にうずくまる陽菜を静かに見下ろした。
「魔族の長としての誇りも、人間として生きる覚悟も持てず、ただ運命から逃げ出しただけ。……今の貴様は、どちらの世界にも属せない哀れな迷い子に過ぎない」
舞い散る雪の中、白法衣の男の言葉が、逃げ場のない真実として冷徹に響き渡った。




