第5話 ⑤
気付けば、莉子は再び露店の並ぶ大通りへと戻ってきていた。
喫茶店に戻れば、陽菜に会えるかもしれない。
だとしても、今は帰る気にはなれなかった。
自分の言葉を整理しないと、また彼女を傷つける気がした。
雪はまだ降り続いている。
道を埋め尽くしていた人々の影も随分と減り、ひしめくように並んでいた店の多くも片付けを始めていた。
祭囃子の音はすでに止んでいた。
通りの飾り付けは、祭りの賑わいを名残惜しむように儚く灯っている。
人々の往来を彩ったそれも、今はどこか遠く感じられた。
かじかんだ指先を、両の手を重ねて温める。
ひとり分の白い吐息が、雪と混ざって消えていった。
少し歩くと、パンとスープを買った、あの露店が目に映った。
その店もすでに営業を終えた後で、軒の灯は消され、香ばしく漂っていた匂いもどこにもない。
だが、店主はまだそこにいた。
周りと同様に片付けをしているみたいだが、その動作はどこか重苦しい。
(あの後、大丈夫だったのかな)
胸を衝く微かな気懸かりに、莉子はそのまま一歩を刻んだ。
だが、続くはずの片足は、雪の底へ沈むように途絶えてしまう。
自分はあの場に居合わせた当事者であり、何より、彼の愛娘の仇である魔族をこの手で庇い立てしてしまったのだ。
そんな人間が今更声をかけたところで、一体どんな言葉を紡げばいいというのだろう。
迷いと悔恨の狭間で身動きも取れず佇んでいると、視界の端、通りの向こう側から店主へと近づいていく、一筋の影が揺らめいた。
「ドニ殿、ですかな。お取り込み中にすみません。私——」
雪夜の静寂を切り裂くように、男の低い声がかすかに莉子の鼓膜を震わせた。
胸を突く不穏な予感に、咄嗟に身体を近くの物陰へと滑り込ませる。
じっと息を潜めた莉子の耳には、もうその先の言葉は届かない。
恐る恐る、暗がりの隙間から視線を走らせると、そこに佇んでいたのは、雪の白さに同化するような、純白の法衣を纏った神官の姿だった。
重なる軒の闇に阻まれ、その横顔を窺い知ることはできない。
けれど、男の首元で、微かな夜光を反射して冷たくきらめく聖印が、莉子の目を射抜いた。
純白の法衣、そして首元に掲げられた聖印。
脳裏の記憶が、その神聖な色彩の輪郭を、鮮明に呼び覚ます。
(あれって、オルディスの神官じゃない——!)
王都オルディスは莉子が勇者リゼットとして旅立ったまさしく始まりの地であり、陽菜とともに飛び出した街だ。
その地を統べる教会の神官が、一体なぜ、このような辺境に姿を現したのか。
しかも、なぜよりによって、先ほどの騒動の渦中にいた店主のもとを訪れているのだろう。
オルディスと港町セルリアの間には、気の遠くなるような大海原と別の大陸が横たわっている。
船だけが世界を繋ぐ唯一の手段であるこの広大な世界で、莉子たちがここまで来るのに費やした時間は、ゆうに三ヶ月を超えていた。
生半可な覚悟で越えられる距離ではない。
それなのに、一体どうして。浄夜祭の視察、あるいは巡礼の旅か。他国との外交という可能性もある。
それとも——。
(私の捜索……?)
握りしめた掌が、嫌な汗でぐっしょりと湿っていく。
もしその推測が事実だとして、これは単なる奇跡的な偶然なのか、それとも既に何らかの足取りを掴まれているのか。
前者であってくれと祈るような心地で天を仰ぐが、状況は楽観を微塵も許さない。
(伝えなくちゃ。みんなに。陽菜に)
神官の視線を遮るように、莉子は露店の脇から静かに裏手へと回り込む。
そして、雪の降り積もる細い路地の闇へと、気配を消して滑り込んだ。
白く覆われた小道の上を、必死に駆ける。
『もし誰かに怪しまれて、居場所を追われることになったら……どうするの』
脳裏に陽菜の言葉が蘇った。
「——っ!」
歩き慣れない夜の道に加え、降り積もる雪で足が取られる。
転びそうになって、思わず壁に手をついた。
ずきん、と右の掌が痛む。陽菜の頬を張ってしまった、この嫌な熱を持った手が。
「はあっ……はあ……。絶対に、そんなことにはさせない」
だが、言葉とは裏腹に、莉子の瞳はまだ揺れていた。
自分の言葉が、果たして今の陽菜に届くのか。
(今は、そんなこと考えてる場合じゃない)
莉子は、足元に絡みつくような弱気を振り払うように、強く首を振った。
立ち止まって後悔している猶予はない。今はただ、前へ。
凍てつく夜気の中、莉子はたった一つの帰るべき場所へ向かって、再び足を早めた。
◇
カランカランッ!
勢いよく扉を開け放つと、けたたましいベルの音が喫茶リリーの店内に響き渡った。
「はあっ、はあっ……!」
肩を大きく上下させ、息を切らして飛び込んできた莉子。
彼女を出迎えたのは、パチパチと爆ぜる暖炉の爆音と、仄かに漂う甘やかな酒の匂い、そしてルミィとヴィエラの姿だった。
二人もちょうど夜の街から帰還したばかりのようで、肩に積もった雪を払い落としている。
いつも張り詰めた二人の間に、少しだけ尖りの取れた微睡むような温もりが揺らめいている。
しかし、莉子のただ事ではない顔色を捉えた瞬間、その微かな弛緩は一瞬で消え、その身体が硬直した。
「リゼ様? お帰りなさい。どうしたんですか、そんなに慌てて……」
ルミィが不思議そうに小首を傾げる。
だが、莉子には彼女の言葉に応じる時間すらもどかしかった。
視線を激しく走らせ、店内をくまなく見回す。
――いない。
そこに陽菜の姿はなかった。
莉子は外套を脱ぎ捨てる暇さえ惜しみ、二階へと続く木造りの階段をけたたましく駆け上がる。
一度だけ深く、冷え切った空気を肺に溜めてから、陽菜の部屋の前に立った。
「陽菜、いる? ちょっと話せないかな」
呼びかけは、暗がりの静寂へと溶けて消えた。
応えのない木肌を、すがるようにノックする。
「怒ってるのは分かってる。それでも、今話さないと大変なの」
やはり、木の向こうからは一片の気配も返ってこない。
我ながら情けないほどに怯えを孕んだ声だ。
だからこそ、陽菜がこの声を聞いてなお、無視し続けるはずがない。
肌を粟立てる違和感。何かがおかしい。
莉子は心の中で「ごめんね」と謝りながら、ドアノブを回した。
そうして押し開けた室内は。
灯のひとつもない、完全なる闇だった。
扉に隔てられていたその空間は、まるで外の雪夜をそのまま閉じ込めたかのように冷え込んでいる。
カーテンの揺れる暗がりのなかに、陽菜の姿はどこにもなかった。
「帰って、ない……?」
その一言とともに、莉子の視界が急速に色を失っていく。
その時、背後の階段を急に駆け上がる足音が、二つ重なって響いた。
「急にどうしたんですかっ」
振り返ると、そこには不安に瞳を揺らすルミィと、その背後で表情を硬くするヴィエラの姿があった。
深夜になっても明かりの灯らない無人の部屋が、二人に全てを物語っていた。
「まさか、陛下はお戻りになっていないのですか」
ヴィエラが刃のように目を細め、莉子を射抜くように詰め寄る。
莉子は、言葉を失ったまま、ただ弱々しく首を縦に振るしかなかった。
「お二人で一緒だったのでしょう。一体何があったのです」
「喧嘩して、途中ではぐれちゃって……。でも、喫茶店の方へ戻ったはずなのに……っ」
感情の濁流に圧され、言葉が破片のようにしか出てこない。
あの時の、陽菜の光を失った瞳が鮮明に蘇る。
あまりに都合のいい思い込みだった。
どうして自分は、彼女が大人しく帰ったなどと信じ込んでしまったのか。
「リゼ様と陽菜さんが、喧嘩……?」
ルミィの言葉が、信じられないといった風に宙に浮く。
莉子は首を小さく縦に振り、市場で起きた陽菜との顛末を、 掠れた声で短く二人に告げた。
話し終えた瞬間、ヴィエラは舌打ちを響かせ、莉子を鋭く睨み据えた。
「馬鹿な真似を……! 外は雪です。いくら陛下とはいえ、あんな薄着のままこの寒空の下をあてもなく彷徨うなど、正気の沙汰ではありません。最悪、命に関わりますよ!」
ヴィエラの剥き出しの焦燥が、莉子の胸を鋭く抉る。
あの神官が、この街にいる――その事実を叫び出しそうになる衝動を、莉子はぐっと飲み込んだ。
今それを伝えれば二人が混乱するだけだ。
何より、もしあの純白の法衣が陽菜の足取りを追っているのだとしたら、もはや一刻の猶予すら残されてはいない。
今は何より、一秒でも早く陽菜を見つけ出すことが先決だった。
「探しに行こう……! ルミィ、ヴィエラ、手分けしてお願い!」
「も、もちろんですっ!」
三人はすぐさま身を翻し、再び雪の舞う夜の街へと飛び出した。
扉の向こうの暗い空からは、先程よりも大粒の雪が容赦なく降り落ちてきている。
(お願いだから、無事でいて……!)
莉子は凍えるような寒さも忘れ、ただひたすらに真っ白な雪道へと駆け出していった。




