第5話 ④
大通りの喧騒から離れ、喫茶リリーへ戻る坂道の途中。
肩越しに後ろを見ると、遠くにきらきらと浮かぶ祭りの灯と、それを背に肩を落として歩く陽菜の姿があった。
その髪を飾っている、莉子とお揃いの髪飾りが、暗がりですっかり色を失っていた。
月明かりを覆い隠すように、暗い雲が空に広がっていく。
まもなく、冷たい雪が降ってきた。
莉子は足を止め、振り返った。
「陽菜。なんでさっき、子供を助けなかったの」
合わせて、陽菜の足も止まる。
その顔は俯けられ、表情は伺えない。
言葉はない。少しして、また陽菜は歩きだそうとした。
「ねえ、陽菜——」
「莉子ちゃんこそ、なんで助けたの」
思わず、息を呑んだ。
囁きのように紡がれたその声は、すべてを諦めたような昏い響きをしている。
まるで言葉の形をした絶望が、低く、重く、ただそこに横たわっているみたいだった。
「なんで、って……。もちろん、子供が盗んだのは悪いことだけど、それと魔族であることは関係ない。あんな集団で殴ったり蹴ったりしてるのを、見過ごせるわけがない」
「見過ごせばいいじゃない。あんなことしたって、自分の居場所をなくすだけだよ」
雪に冷やされた肌の下から熱がこみ上げるような感覚。
莉子の頬が、にわかに朱を帯びる。
衝動に浮かされるまま、陽菜の胸ぐらに掴みかかった。
「……本気で言ってるの。仮にも、あんたの同胞なんでしょ」
自分でも想像できないくらいほどの低い声が出た。
華奢な身体は、浮き上がりそうなくらい軽い。
虚ろな目はどこか遠くを見ていて、決して莉子と合わせようとしない。
そのことが、無性に腹立たしかった。
「同胞——それが、何? 見ず知らずの子供であることには変わらない」
その言葉に、莉子の中で何かがぷつりと切れた。
「ふざけないで! あのままだとあの子、死んじゃってたかもしれないのよ! 下手したら兵士に捕まって、もっと酷いことになっていたかも……」
「悪いことをして捕まる。当然でしょ? しかも、相手は魔族の子供。人間にとってはいい事尽くめじゃない」
――パシィッ!
気づけば、陽菜の頬を打っていた。鋭い音が、徐々に雪の積もる路地に響く。
振り続ける雪は、その余韻すらも呑み込んで。
二人の間に、昏く深い沈黙が落ちた。
陽菜の言葉が本気でないことくらい、莉子にだって分かっていた。
吐き捨てるように言い放っていても、彼女の声は微かに震えていた。
ぎゅっと握りしめられた拳は白く鬱血している。
それでも、その言葉を黙って聞き流せるほど、莉子は陽菜を見損なっていない。
大きく見開かれた両眸が、凍りついたように動きを止める。
しかし、そこに宿る光彩はどこまでも冷ややかに、そして刃のように研ぎ澄まされていた。
その眼差しが触れた肌の腑から、じりじりと熱に侵食されていくような錯覚に囚われる。
やがて陽菜の細い手が伸びてきて、胸ぐらを掴む腕をゆっくりと、けれど確かな力で解いていく。
外れた莉子の手が、力なく宙を掻いた。
「莉子ちゃんは……分かってないよ。もし誰かに怪しまれて、居場所を追われることになったら……どうするの」
陽菜は、ゆっくりと歩き始めた。
立ち尽くす莉子の横を、通り過ぎていく。
「それでも、目の前の理不尽を見過ごす方が、よっぽど苦しい……っ」
必死なその想いは、彼女の心には届かない。
「それは、ただの偽善だよ。そんなことをしても、莉子ちゃんが苦しくなるだけ」
石畳を叩く足音が、遠ざかっていく。
振り返った先に見えた背中は、ひどく小さく見えた。
「同じことを、ヴィエラの前でも言えるの……?」
届くか届かないか分からないくらい、か細い声。
それでも、陽菜は一瞬だけ立ち止まったように見えた。
——だが、それだけ。
雪が降りしきる暗い坂道を、彼女は振り返ることなく足早に遠ざかっていく。
追いかけなければいけないのに。
そう思うのに、冷え切った足は石畳に縫い付けられたように、一歩も動かすことができなかった。
(私を、言い訳にしないでよ)
あの時、胸ぐらを掴んだときの感触が手に残っている。
あんなに、彼女の身体は華奢だったんだ。
その肩にどれだけのものを背負っているのだろう。
その瞳には、今、何が映っているんだろう。
私を守るために、彼女は自分の心をどれだけ殺したのだろう。
頬を張った掌が、ずきん、と痛む。
陽菜の身体の熱を、こんな形で知りたくなかった。




