第5話 ③
突如、祭りの喧騒を切り裂くような、くぐもった怒声が広場の方から響いた。
「こらっ、待て!」
何事かと人々が足を止め、人垣ができていく。
莉子と陽菜も自然と歩みを止め、群衆の隙間から音のする方向を覗き込んだ。
そこから見えたのは、ローブに身を包んだ小さな子供と、それを追いかける大人——つい先程「仲がいいんだね」と莉子たちに優しく微笑みかけてくれた露店主その人だった。
子供は、顔の大きさほどもあるパンを両手で抱えて、必死に走っている。
しかし所詮は大人と子供。
あっという間に追いつかれ肩を掴まれた拍子に、子供は体勢を崩して転んでしまった。
腕を塞がれていた子供は、受け身を取る間もなく、石畳に思い切り身体を打ち付けてしまう。
そのとき――すっぽりと被っていたローブがするりと落ちる。
小さくうずくまる彼の頭から覗いたのは、小ぶりながら異質な存在感を放つ二本の角。
それはまさしく、人ならざる者の象徴だった。
「ひっ……ま、魔族……っ?」
それを見た露店主が、掠れた悲鳴とともに掴んでいた子供の腕を離す。
腰を抜かすように後ずさり、そのままぺたり、と力なく地面に倒れてしまった。
その目は信じられないものを見るように大きく見開かれ、震えている。
周囲の人々の視線も、後を追うように自然とその子供へと向かう。
男性の怯えに満ちた声と、群衆の中に突然現れた異形の存在。
それは人々を混乱に陥れるには十分すぎる出来事だった。
「きゃあああ! 魔族よ!」
「な、なんでこんなところにっ!」
「誰かっ、誰か兵士を呼んでこい」
その動揺は波紋のように急速に広がっていき、抑えきれない悲鳴がそこかしこから上がってくる。
子供は相変わらず地面の上に小さく縮まったまま、震える両手で頭を隠そうとする。
しかしその弱々しい様子が、錯乱した観衆の心に思いがけず火を点けてしまった。
「魔族のガキが……」
「神聖な浄夜祭を台無しにしやがって」
鬱屈した感情が怨嗟を帯びた声となって、空気を一変させる。
それは、ただの盗難騒ぎが、明確な魔族狩りへと変貌した瞬間だった。
群衆の一人が、怒号を上げる。
それを皮切りに、数人の大人の男たちがうずくまる子供を取り囲み、容赦なく蹴りつけ始めた。
先程の露店主は、弱々しく首を振って、その様子を見ていた。
「ああっ……や、やめてくれ! 俺はただ……っ!」
その悲鳴も、怒り狂う群衆の声に飲まれ、むなしく消えていく。
彼はただ一人、自分の小さな恐怖が引き起こしてしまった凄惨な暴力の嵐に、青ざめた顔を浮かべていた。
娘のための慰霊灯を灯すと言っていた、あの温かい声。
儚くも穏やかな彼の祈りは、今や目の前の惨状に塗りつぶされてしまった。
(そんな悲しいことが、あっていいはずがない)
莉子の胸がギリッと軋む。
「人に紛れ込んで食い物にありつこうなんて、図々しいんだよ。気味の悪い化け物が!」
群衆の一人がそう吐き捨て、子供の腹部めがけて大きく足を振り上げた。
その瞬間、莉子の身体は、思いとどまることもなく先に動いていた。
「やめてっ!」
人垣を強引に掻き分け、子供を背に庇うように前に出る。
そして、男の太い脚から繰り出された蹴りを、自身の掌ひとつで真っ向から受け止めた。
「痛っ……! な、なんだお前は!」
魔法の力など介入する余地もない。
幾度もの戦いを越えて研ぎ澄まされた彼女の身体が、柳が風を受け流すように、振り向けられた暴力をただ静かに削ぎ落としたのだ。
男が怒りに任せて莉子を怒鳴りつけようとした、次の瞬間。
「——」
莉子は無言で、男たちを睨みつけた。
静かに底冷えするような眼光。
かつて魔王城の最深部への死線をくぐり抜けた勇者だけがもつ、絶対的な武の気迫。
ただそれだけで、逆上していた男たちは反射的に息を呑み、後ずさった。
熱狂していた群衆が、水を打ったように静まり返る。
その静寂の隙を突き、莉子は懐から銀貨を取り出すと、青ざめた顔でへたり込む露店主の胸元へ押し付けた。
「これで、盗まれたパンの代金は足りますね」
有無を言わさぬ冷徹な声が凛と響く。
もはや、この子供が犯した窃盗は彼を糾弾する理由ではなくなっている。
そんなことは莉子も分かっていた。
だが、それでも場を収める一時しのぎの口実くらいにはなる。
群衆は盗みを働いたことへの誅罰という大義名分を失い、振り上げた拳の行き場を失った。
ふう、と短く息を吐き、莉子は背後を振り返る。
当然、陽菜も後ろについてきているものだと思っていた。だが——。
「陽菜……?」
莉子は息を呑んだ。
陽菜は、人垣のずっと外側にいた。棒立ちのまま、ピクリとも動いていない。
さっきまで浮かべていた柔らかな笑顔は跡形もなく消え去っていた。
だが、悲しんでいるわけでも、怒っているわけでもない。
感情がごっそりと抜け落ちたような、誰もいない空洞の顔。
莉子ですら見たことのない、完全に凍りついた姿だった。
普段の彼女だったら、絶対こんな不条理を放っておくはずがない。
陽菜の心は、いつだって優しい。心の何処かで、そんな風に思い込んでいた。
それが――。
今の彼女には、迫害される同胞のために立ち上がろうという気配すら、一切ない。
「……っ」
大人たちが怯んだ隙を逃さず、背後の子供が弾かれたように駆け出した。
「あ、おいっ、逃げるぞ!」
我に返った一人の男が追いかけようとしたが、莉子はすかさず手を伸ばし男の進路を塞いだ。
子供は群衆の隙間をすり抜け、棒立ちになっている陽菜のすぐ脇を駆け抜けようとする。
逃げ惑う子供と陽菜の視線が一瞬だけ交差する。
そこに一切の言葉はない。
子供が陽菜の正体に気づいていたのかは、莉子からは分からない。
けれど、確かにそのとき、陽菜がふっと自ら顔を背けるのが見えた。
かつて魔王であった彼女にとって、その子供はまさに同胞。
それなのに、その横顔に覗く瞳はどこまでも虚ろで、冷たい。
子供の姿が路地裏に消え、色めき立った群衆は標的を失った。
やがて毒気を抜かれたように不満げな舌打ちを残して散っていく。
後に残されたのは、凍りついたままの陽菜と、莉子。
そして握りしめた拳を地面に打ち付け、静かに涙を落とす露店主だけだった。
祭囃子の音が、酷く遠く、冷たく響いていた。




