第4話 ⑤ (ルミィ視点)
(とは言ったものの、急に話しかけたりなんか出来ないよ……!)
翌日の営業時間になっても、ルミィはまだひとり悶々としていた。
接客の最中ちらちらとヴィエラの姿を窺うも、その表情にも行動にも、相変わらず変化はない。
次々運ばれる空き皿を、何を考えているのか分からない顔で黙々と洗っていた。
「お嬢ちゃん、注文いいかな」
「は、はいっ」
不意打ちのように、真後ろのテーブルに座る老夫婦から声がかかった。
注文票を片手に、ぎこちない笑顔を浮かべる。
(だめだめ、今は仕事に集中しなきゃ)
その後も何度かヴィエラのことが頭をよぎって気を取られていたが、その度に深呼吸をして何とか持ちこたえる。
また昨日みたいにお店に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
しばらくして、完成した料理を受け取りにキッチンへ向かうと、変わらずヴィエラが流し台に立っていた。
両手を泡だらけにして、てきぱきと作業を進めている。
奥の皿を取ろうと、彼女が少し前かがみになる。
すると、その拍子に腰のポケットから何かがずるりと滑り出た。
濡れた床にパサリと軽い音が響き、彼女は慌てて手を止めた。
それは、年季が入り、艷やかな照りを帯びた革の手帳だった。
ヴィエラの目が洗い物と床の手帳を往復する。
泡まみれの手では触れない。でも迷っているうちに紙はどんどん水を吸い込んでいってしまう。
気付けばルミィの足は勝手に動いていた。
そっと手帳を拾い上げると、ずしり、と見た目以上の重みが掌に乗った。
手帳の隙間から薄い紙切れ――古びた押し花の当てられた栞が覗いていた。
意外な趣味だとは思ったが、ルミィはあまりそれを見ないようにした。
なぜかその栞には、自身の胸元のペンダントと同じ、想いに似た何かが宿っているように感じられたのだ。
拾った手帳の表面についた水気を払って、そっとヴィエラに差し出した。
怒られるかもしれない。ルミィは少しだけ身体を固くして、恐る恐る彼女を見る。
しかし、その表情は想像とは真逆だった。
どこかほっとしたような優しい目が、手元の手帳に向けられていた。
「……勝手に触ってすみません。その、あまり濡らしたくないかな、と思って」
「あ、ありがと……」
先程の柔らかい顔はどこへやら、すぐに仏頂面へと戻るヴィエラ。
だがその口元は、少しだけ震えている。
手帳に伸ばされた彼女の指先は、ひどくあかぎれていた。
「ちょっと、血が滲んでるじゃないですか」
「え、ああ。気付かなかったわ。ずっと食器を洗っていたものだから……って何よ」
反発する隙も与えず、ルミィは即座に彼女の手を支えて、小さく祝詞を唱え始めた。
灯火のような、仄かな光がヴィエラの手を包み込む。
それは、ルミィの得意とする、治癒の魔法。
何をされるのか分からずたじろいでいたヴィエラも、怪我を治そうとしていることが分かると、大人しくそれを見守った。
手を離すと、ヴィエラの指先はすっかり綺麗に治っていた。
ルミィは手持ちのハンカチを取り出すと、皮膚に残っていた血を丁寧に拭った。
「……」
「か、勘違いしないでくださいよ。その怪我のせいで仕事が進まなかったら、リゼ様たちにご迷惑がかかるのでっ」
まただ。自分が嫌になる。こんなことを言いたいんじゃないのに。
素直にごめんなさいと謝ればいいものを、なんでその一言が出ないのだろう。
頭では分かっているのに、出てくるのはそんな憎まれ口ばかりで。
そんな自分が嫌になる。
いたたまれない気持ちのまま、視線は床へと外れていく。
二人の間に沈黙が流れる。
そしてこちらが支えていた手の指先が、今度はきゅっ、と握られる感覚があった。
思わぬ感触に、「えっ」と声が出た。
手元を見ると、さっき治療したヴィエラの指が、ゆるやかにルミィの指に絡んでいたのだ。
「乱暴な口の割に、すごく温かいのね。ルミィの手」
ヴィエラは小さく微笑んだ。
その表情は、今までの無表情とはかけ離れた少女のような愛らしさが浮かび、頬には薄く朱が指している。
彼女の言葉に、ボッ、と顔が一気に熱を帯びる。
何を言われたか分かっているのに、意味をうまく咀嚼できない。
完全に思考停止していると、ヴィエラの指先がそっと解かれた。
彼女はふいっと振り返り、滑らかな髪をなびかせながら、バックヤードへ向かってしまった。
その間、視線だけは彼女の背中を追っていたが、それが見えなくなると、ルミィはへなへなと床にへたり込んだ。
冷たい水が服に染み込んでいる気がするが、そんなものどうでもいい。
(な、何何何……っ)
今、一体何があった!?
ぐるぐると頭が回る。直前のことを覚えていないはずがないのに、何も思い出せない。
「ルミィ? ルミィったら! 注文忘れてるよ!」
しばらくしてリゼ様の焦り声が届くまで、ルミィの口はあわあわと開いたまま塞がらなかった。
すっかり沸騰してしまった頭からは、今にも白い湯気が立ち上ってしまいそう。
その日の残りの仕事が全く手につかなかったのは、言うまでもない。
営業後になってリゼ様にはこっぴどく叱られたが、隣に立つ陽菜さんはどこか嬉しそうだった。
ヴィエラは相変わらずそっぽを向いていたが、その耳は少しだけ赤くなっているように見えた。
◇
家に帰って、ルミィは洗濯物を桶にまとめていた。
ポケットから取り出したハンカチには、薄っすらと血がついている。
それを持ったまま、ルミィはベッドの上に寝そべった。
すっかり黒くなった斑模様を見つめていると、昼の彼女とのやり取りが思い起こされる。
そして、最後の柔らかな微笑み。
絡まる指先の温度が、今もじんわりと手の中に残っていた。
「うあああ! なにあれ! なんであんなこと言うのっ! 魔族のくせに、魔族のくせに、魔族のくせに……っ!」
その後もしばらく悶えていると、ドンッ、と隣の壁を叩く音がした。
「うっさい! さっきから響いてんのよ、駄犬!」
すぐさま、壁越しにヴィエラの声も飛んでくる。
ルミィはビクッと肩を震わせ、両手で口を塞いだ。
心臓がバクバクと跳ねている。
ルミィは身体を起こすと、壁の鳴った位置まで動いてみた。
(この向こうに、ヴィエラがいる……)
音を立てないように座り、その壁に背中をつけた。
もうどこかに行った後かもしれない。どうなのかな。
それでも壁についた背中は、じんわりと温かいような気がした。
◇
その日の深夜。
港町セルリアのとある路地裏に、男が立っていた。
雲間から覗いた月明かりが、暗がりの男をぼんやりと照らす。
純白の法衣に、首元で微かに光る聖印。
男は、通りの先にある一軒の喫茶店を見つめていた。
「……見つけましたよ」
再び雲が月を覆い、男は闇の中に溶けていった。




