第4話 ④ (ルミィ視点)
店に戻ってからの記憶は、酷くおぼつかない。
市場でヴィエラを突き飛ばして以来、ルミィの胸の底には、陽の光を吸い尽くす泥のような重苦しさが、ただじっと澱んでいた。
そんなお座なりな態度だったからだろうか。
足元が疎かになっていたルミィは、配膳途中の料理を客前でこぼしてしまった。
ガシャン、と大きな音が店内に響く。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
客の視線が一気にルミィへと集まる。
完全に自分の失態だ。情けない。
ルミィは顔を真っ赤にして周りに頭を下げた。
程なくして客の注目も引き、店内に穏やかな賑わいが戻る。
頭を下げる最中、視界の端にヴィエラの姿が映った。
彼女はただ背中を向けて、何事もなかったかのように粛々と作業をこなしている。
「大丈夫? ルミィちゃん」
布巾で床を拭いていると、アリシアが箒を手に寄ってきた。
ルミィのことを心配しながらも、割れた皿の破片をてきぱきと片付けている。
何かお礼を言わなきゃ。
そう思うのに、まるで縫い付けられたみたいに声は一向に出てこない。
言うべき言葉が喉の奥に引っかかったまま、ルミィはただ俯いた。
今声を出したら、ひどいことを口走ってしまいそうだった。
(私って、こんなに嫌な女だったんだ)
胸元にしまわれたペンダントを握りしめると、金属の表面がいつもよりずっと冷たく感じられた。
ごめんなさい、と小さく呟いた声は、誰にも届かないまま、店内の空気の中に解けていった。
その日の夜。店の営業時間が過ぎ、ルミィはバックヤードへと入った。
中には、同じく荷物をまとめにきたヴィエラがいた。
「あ……」
思わず声が出る。
淑やかな赤い長髪が揺れ、その奥から紅蓮の瞳が覗いた。
何か言わなきゃ。でも、一体何を。
『助けてくれてありがとう』? 『突き飛ばしてごめんなさい』?
頭に浮かぶ言葉は、どれも違う気がした。
胸の内の焦りだけが、行く当てもなく大きくなっていく。
しかし、そんなルミィとは対照的に、彼女は涼しい顔のまま、無言で横を通り抜けていった。
こちらのことを気にかける様子などまるでなく。
バックヤードの扉が閉まる音が、背中越しに静かに伝わった。
着替えが終わり、帰り支度をしても、ルミィはしばらく表に出られなかった。
肩にかかる鞄が、いつもより遥かに重く感じられる。
何もしないまましばらく時間を置いて、それからそっとバックヤードの扉を開いた。
隙間から顔を覗かせて、店内をぐるりと見渡す。
あいつの姿は、もうなくなっていた。
それでいい。
今日はもう、彼女と合わせる顔なんてどこにもなかった。
「ルミィちゃん。今日もおつかれさま」
ホールに出ると、キッチンの奥から明るい声がかかった。
アリシアが明日の仕込みを行う手を止めて、微笑んでいる。
どうやら、リゼ様はすでに二階に戻ったらしい。
「おつかれさまです。……その、今日はいろいろとご迷惑をかけてすみません」
「ううん、大丈夫だよ。ねえ、ちょっと時間あるかな?」
特に急ぐ用事もないし、何より早く出てしまったせいで追いついてしまう、なんてことにはなりたくない。
ルミィは返事の代わりに頷いた。
それにしても、こうしてアリシアの方から話しかけてくることは珍しい。
というより、そもそも二人きりになること自体がめったにないのだ。
好き好んで魔王に近づく気になどなれないし、あろうことかリゼ様と仲睦まじく話してるし。
(いや、違うか)
アリシア自身が、気を遣って話しかけてこないのだ。
そんなことをしたら、こちらが困ると知っているから。
はあ、と内心ため息をついた。
本当に、この人といると調子が狂ってしまう。
(いっそのこと、魔王らしくあってくれたら、ずっと楽なのに)
「……っ」
自分の心に浮かぶ言葉に、胸がズキンと痛む。
魔族は親の仇とはいえ、魔王が魔王として人と敵対したままでいてくれればいいと、そんなことを思っていたのか……?
「いかにも悩んでます、って顔だね」
いつの間にか彼女はルミィの傍までやってきていた。
ほとんど背丈も変わらないくせに、まるで子供をあやすように視線を合わせてくる。
こういうところが、本当に気に食わない。
こちらの内心など知る由もなく、当の本人は「いきなり二人で買い物はやりすぎだったかなぁ」などと呟いている。
この人は一体どこまで見えているのだろう。
柔らかな彼女の瞳は、すべてを見透かすようで、そのうえですべてを受け入れるようで。
(……そんなに、優しい顔をしないで)
胸が苦しくなる。
頭では抵抗したいのに、心の奥ではこの人に聞いてほしいと思っている自分がいる。
気付けば、せき止めていた感情が零れだすように、ルミィの口は言葉を紡いでいた。
「……私、ヴィエラに酷いことを言ってしまいました」
ぽつりと置かれた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「あいつは私を助けてくれたのに……これに触れられた途端、私、両親が殺された時のことを思い出してしまったんです。あいつがやったわけじゃないって分かってるのに……私、最低です……っ」
取り出したペンダントの上にぽろぽろと零が落ちる。
大切に仕舞ってきた形見の表面が滲み、そこに映るルミィの姿が歪んだ。
今更何かで拭う気にもなれず、ルミィはただ顔を覆った。
そんな彼女の背中を、柔らかな手がそっと包み込む。
甘い花のような香りがすっと胸を満たした。それを振り払うこともなく、ルミィは静かにその温もりの中に沈んだ。
「リゼ様や、あなたのことを困らせたいわけじゃないんです。でも……私、どうしても……っ」
「うん。いいんだよ、無理に許さなくて」
諭すのでもなく、非難するのでもない。
彼女の声は、どこまでもルミィに寄り添っていた。
「理不尽に家族を奪われたんだもん。憎んで当然だよ。……ヴィエラと、同じだね」
「え……?」
思いがけない言葉に、ルミィは濡れた顔を上げた。
アリシアは、遠くを見るような目をしていた。
「あの子も……人の掲げる正義に、大切なものを奪われているから」
ルミィは息を呑んだ。
正義。奪う。対極にあるような二つの言葉が絡み合い、重く静寂の中に沈んでいく。
「これ以上は、私の口から話すべきことじゃないから言えないけど。ヴィエラも、ただ意味もなく人間を嫌ってるわけじゃないんだよ」
そう言って優しく微笑む彼女の言葉に、ルミィの頭は真っ白になった。
魔族にも、人間に何かを奪われ、失う痛みを抱える者がいる。
その事実が、ルミィの頑なだった心に、小さな、けれど確かな波紋を広げていく。
「あいつも、私と同じ……」
アリシアの両手が、ルミィの肩に触れた。
「ゆっくりで良いからね。困ったら話しにおいで」
「……はい」
その手に、ルミィはそっと自身の手を重ねる。
(なんて、温かい手なんだろう)
何となく分かった気がする。どうしてリゼ様とこの人があんなに通じ合っているのか。
積み上げた時間だけではない。それよりも、もっと——。
「ありがとうございます。陽菜さん」
その響きが、あまりに自然に感じられたのは、きっと気のせいではない。
あっ、と声を漏らした彼女は、少しだけ顔を赤らめていた。




