第3話 ④
生地を作るまでに色々とトラブルはあったものの、その後は一直線だった。
陽菜が「生地を寝かさないといけないから、しばらく待機だね」というと、出来上がりが待ち遠しいルミィとヴィエラはぶつぶつと文句を言っていたが、しばらくして大きく膨らんだ生地を見ると二人とも目を輝かせた。
食パンといえば蓋のついた金型で焼き上げるイメージだったが、そんな気の利いたものは店にない。
どうしよう、どうしようと莉子が焦っていると、陽菜は肉のテリーヌ作りに使う金型を引っ張り出してきて、「これで代用しよう」と提案した。
「へへ……これ、私たちって必要なんですかね。へへ……」
あまりにも陽菜が優秀すぎて、危うく莉子は自身の存在理由を失いかける。
「も、もちろんだよ! 生地捏ねるのだって莉子ちゃんにやってもらったし」
莉子の卑屈な笑みに、陽菜は慌ててフォローした。
彼女は魔王ではなく天使や神の間違いなのではないかと本気で思う。
陽菜の言う通り、自分の強みはせいぜい腕力があることくらいなのではないか。
うん、きっとその通りだ。陽菜の圧倒的な知恵の前では、自分はただの筋肉に過ぎない。
これからも彼女を支える筋肉であろう。
そんな自己肯定感の低下に苛まれながらさらに待つこと数時間。
石窯から、徐々に香ばしい匂いが漂ってきた。
「わあ……っ、いい匂い!」
ルミィの黄色い声が上がった。
石窯の重い扉を開けると、熱気とともに小麦の焼ける甘く香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がった。
テリーヌ型の中でこんもりと山のように膨らんだ生地は、見事なきつね色に焼き上がっている。
陽菜が厚手のミトンをつけて型を取り出し、作業台の上にひっくり返すと、「ポンッ」という小気味良い音とともに、四角いパンが姿を現した。
「成功だね! すっごく綺麗に焼けてる」
陽菜の弾むような声に、莉子も思わずガッツポーズをした。
粗熱をとってからナイフを入れると、サクッとした表面の音とは裏腹に、刃がすっと沈み込むような柔らかさだった。
切り口からはふんわりと白い湯気が立ち上り、バターと小麦の甘い匂いが漂う。
その真っ白な断面に、先ほどの黄金色のたまごサラダをたっぷりと挟み込む。
莉子の分には、もちろん特製のマスタード入りだ。
「お待たせ! 真のサンドイッチの完成だよ!」
出来上がった四つを皿に乗せてテーブルに運ぶと、ルミィとヴィエラは身を乗り出すようにして見つめた。
「これが……」
「匂いだけでも、先ほどの黒パンの比ではありませんね」
二人はおずおずとそれを手に取り、大きく口を開けてかぶりつく。
先程のような、岩石を噛み砕くようなゴリッという悲惨な音は鳴らない。
ふんわりとしたパンが優しく歯を包み込み、その直後、口いっぱいに卵とマヨネーズの濃厚なコクが溢れ出した。
「ふにゃあ……っ」
ルミィの口から、気の抜けたような声が漏れた。
彼女は目をトロンとさせ、両手でサンドイッチを持ったまま、幸せそうに身体を揺らしている。
「なにこれ、すっごく柔らかいです……! それにこのソース、酸味があるのにすっごくまろやかで、ほっぺたが落ちちゃいそうですぅ……」
一方のヴィエラも、最初は訝しげに咀嚼していたものの、すぐに目を見開いた。
「……ほう。卵と油だけで、ここまでの深い味わいを生み出すとは。それにこの柔らかいパンの食感……一体どうして」
不思議そうに言葉を並べながらも、ヴィエラの手は止まらない。
あっという間に食べ進め、数秒で綺麗に完食してしまった。
二人の反応を見て、莉子と陽菜も顔を見合わせて小さく笑うと、自分たちの分のサンドイッチを口に運んだ。
「……うん、美味しいっ! やっぱりこの味だね」
マヨネーズのまろやかさの中に、マスタード風のピリッとした辛味が絶妙なアクセントになっている。求めていた完璧な味だった。
莉子の言葉に、隣に座る陽菜が得意げに胸を張った。
「莉子ちゃんの好きな辛味の調整、完璧だったでしょ?」
「うん。陽菜、天才かも。……まあでも、お店で出すとしたら、普通の味付けじゃないと辛いってなっちゃう人もいそうだね」
ルミィたちに出した甘めの味付けの方が、より多くの客にとって親しみやすいものになるだろう。
でも、と莉子は少しだけ俯いた。
(また、この味が食べたいな)
そんなことを思いながら、サンドイッチの断面をじっと見つめる。
すると、隣から陽菜の声が届いた。
「賄いで食べるときは、またこの辛めの味付けで作るからね」
その声にぱっと顔を上げると、彼女は内緒の話でもするように唇に手を当てていた。
まるで二人だけの秘密を作ったみたい。
二人は自然と微笑み合い、まるで周囲の音が消えたかのように、温かく心地よい世界に浸っていた。
――しかし。
「あの、お二人は……」
その空気を割るようにルミィの声が響いた。
莉子が顔を上げると、手元の空になった皿と、莉子たちを交互に見比べながら、不思議そうな顔をして首を傾げていた。
「前の世界でも、こうして一緒に料理を作ってたんですか?」
ぴたりと、莉子の咀嚼が止まった。
(前の世界でも、一緒に……?)
その言葉の意味を脳内で反芻し、莉子は自分の置かれている状況を客観的に見つめ直す。
言葉にしなくても好みの味付けを把握されていて。それを当然のように受け入れて、二人だけの空間で笑い合って。
それって、まるで――長年連れ添った夫婦のようではないか。
「っ~~~!」
カッ、と一瞬にして顔に熱が集まるのを感じた。
自分たちがどれほど無防備に、親密すぎる空気を垂れ流していたのかを自覚してしまい、莉子はパニックに陥った。
「そ、そそ、そんなことないわよ! たまたま! たまーに、家でお泊まりしたときとかに、何回か作ってくれたことがあるだけでっ!」
聞かれてもいないことまで早口でまくし立て、慌てて視線を泳がせる。
そんな莉子の必死な様子を見て、陽菜はポカンとしていたが、やがて状況を察したのか、にやにやと目を細めた。
「ふふっ、どうだったかなぁ?」
まるで莉子の慌てようを楽しむように、嬉しそうにはぐらかす。
その余裕たっぷりの態度が、余計に莉子の心臓の鼓動を早めさせた。
「ちょっと陽菜! 変な誤解生むような言い方しないでよ!」
「えー、別に嘘は言ってないよ? ねえルミィちゃん、また明日も美味しいの作ってあげるからね」
「え、本当ですか! はっ、で、でも、魔族の誘惑に屈する訳には……」
ルミィが一人で何やら葛藤する傍らで、ヴィエラは「私もご相伴にあずかりましょう」とちゃっかり便乗している。
「もう……あんたたちってば」
ため息をつきながらも、莉子の胸の奥には、火照りとは別のじんわりとした温かさが広がっていた。
まだしばらくは、この騒がしくて愛おしい日常から抜け出せそうにない。
◇
翌朝。
開店前の静かな店内で、莉子と陽菜はカウンターに並んで開店準備を進めていた。
「うーん、やっぱりお店のメニューに出すのはまだ先かなぁ」
棚の整理をしながら莉子が言うと、陽菜もコーヒー豆の瓶を拭きながら頷いた。
「だね。いくら私の魔法で仕分けられるって言っても、そもそも量が少ないのがねぇ」
「もうちょっと落ち着いたら、一日限定五食とかで出すくらいかな」
「だね。それまでは、私たちだけの賄いメニューってことで」
二人でくすくすと笑い合う。
陽菜は拭き終わった瓶を片付けると、自分と莉子のマグカップに温かいコーヒーを注いだ。
そして、莉子のカップにだけ、手慣れた様子でミルクを少し多めに入れる。
「はい、お疲れ様」
「あ、ありがと」
ごく自然な陽菜の振る舞い。
それを受け取った瞬間、莉子の脳裏に昨日のルミィの言葉がふいに蘇った。
『前の世界でも、こうして一緒に朝ごはんを作ってたんですか?』
(……っ、また思い出しちゃったじゃない)
途端に顔に熱が集まるのを感じ、莉子は誤魔化すようにコーヒーを一口飲んだ。
ミルクの甘さが、少しだけ乱れた心拍を落ち着かせてくれる。
隣を見ると、陽菜は自分が注いだブラックコーヒーを飲みながら、まだ少し眠そうに目をこすっていた。
そして莉子の視線に気づくと、ふにゃりと柔らかく微笑む。
(ほんと、ずるいんだから)
どう言い訳をしたところで、この居心地の良さは否定しきれない。
莉子は小さく息を吐くと、マグカップの温もりを両手で包み込んだ。
「まあ、いっか」
ぽつりとこぼれたその言葉は、そのまま朝の空気の中に溶けていく。
今日もまた、喫茶リリーの新しい一日が始まろうとしていた。




