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迷い子たちの冒険  作者: やす。


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第六話 迷い子たちの終幕

旧実験棟の最深部には、まだ硝煙の匂いが漂っていた。閉ざされていた隔壁は、半ば破壊され、床には薬莢が散らばり、血痕がこびりついている。

 倒れた保安部員たちは既に、医療スタッフによって応急処置を受けていたが、それが間に合わず手遅れとなっていた者も、少なからず存在した。そして、その場に生き残った誰もが皆、疲弊し切っている。



1.


 洗脳解除システムの周囲では、澪がコンソールに向かったまま深く息を吐いている。額には脂汗が滲み、ダイブの影響からか、指先はまだ微かに震えていた。

「…システム、安定。」

掠れた声でそう呟く。

 その近くの壁にもたれ掛かる様に、退助は座り込んでいた。脇腹の傷から流れた血で戦闘服は赤黒く染まり、呼吸も荒い。だがその腕の中には、太一の確かな重みと温もりが在った。

 目を覚ました直後の混乱も、今は少し落ち着いている。だが身体はまだ、完全には自由では無いらしく、T字帯一枚の裸体の上に毛布を掛けられ、退助へ寄り掛かる姿勢のまま、静かに目を閉じていた。

「…大丈夫か?」

低く、優しさを含んだ、退助の声が尋ねる。その声に太一は少しだけ目を開き、小さく頷いた。

「ああ済まん…心配…させたな。」

その声は、酷く掠れていた。

 退助は、それ以上何も訊かなかった。いや、訊けなかった。太一が抱えて戻って来た記憶の重さを、退助はあの「流入」で、一部だけとは言え、知ってしまったからだ。

 天梯の崩壊、消されて行く自我。御影からの支配と陵辱を、拘束の中で悦びとして、受け入れる様に作り変えられていた、心と身体。それを思い出すだけで、退助は怒りの感情に奥歯を軋ませる。

 その時、湊が壁へ背を預けたまま、不意に笑った。

「終わった…ん、ですよね?」

誰に向けた言葉とも知れない、独り言めいた問いかけだった。澪がコンソールから顔を上げながら、言葉を返す。

「まだ終わってない。原生圏を壊滅させた訳じゃないし、御影も逃げた。」

「夢の無いコト言うなぁ…。」

湊はその顔に苦笑を浮かべた後、ふと真顔になった。

「でも…。」

その視線が、退助と太一へと向けられる。

「太一さんが戻って来れたなら、俺はそれだけで十分です。」

「津崎…。」

その声には、感謝や後ろめたさ…様々な感情が、混ざっていた。その場の空気が、少しだけ静かになる。

 だがその時、退助が痛みに顔を歪めた。

「つっ…。」

脇腹の傷が限界だった。血を流し過ぎている。その様子に気が付いた医療スタッフが、慌てて駆け寄ってくる。

「中島さん、横になってなきゃ駄目って言ったじゃ無いですか!応急処置だけじゃ、もう持ちません!」

「…うるせぇな。」

退助はそうボヤくが、その直後、視界が揺らぎ、身体が傾く。

「退助!」

 咄嗟に太一がその肩を支え、退助の身体をそっと床に敷かれた毛布へと横たえる。退助は驚いた様に目を見開く。揺らぐ視界の中で、太一は酷く哀しそうな顔をしていた。

「…無茶のし過ぎだ、バカ。俺なんかの為に…。」

そこで言葉が詰まる。

 退助は、そんな太一の頬に掌を当てながら、ふっと笑った。

「絶対、お前を迎えに行くって…決めてたからな。」

太一の喉が、小さく震える。彼は俯き、それ以上何も言えなかった。代わりに、頬に当てられた退助の手を握り、僅かに力を込める。

 澪はその様子を見つめながら、小さく息を吐いた。

「…良かった。」

本当に小さな声だった。その横で湊が笑う。

「みぃ〜おちゃん、今ちょっと泣きそうだった?」

「うるさい、違う。」

「いや、絶対泣きそうだったって。」

「みぃ〜なぁ〜とぉ〜!」

「はい怖い。」

 そんな二人のやり取りに、最深部の空気が少しだけ和む。ほんの少し前まで、ここは戦場だった。命の奪い合いをしていた地獄だった。なのに今は、不思議な静けさに包まれていた。

 その時、表層ブロックへと続く通路の向こうから、メインコントロールでの役目を終えた、アサルトチームの生き残りたちが到着する。

「中島!八木も、無事だったか!」

隊員たちが周囲を警戒しながら駆け込んでくる。

 隊長が、破壊された室内を見て思わず呟く。

「ここも酷ぇ有様だな…。」

退助は、床に敷かれた毛布に横たわりながら、苦く笑う。

「悪い、派手に壊した。」

「こりゃ、お互いに始末書モンだな。後でちゃんと書こうぜ。」

「嫌な事、思い出させんなよ…。」

そう返した退助だったが、その声はもう掠れていた。

 医療スタッフが担架を準備する。

「中島さん、搬送します。八木さんも、体力の消耗が激しいですね。帰ったら精密検査が必要です。」

退助は面倒臭そうに、顔を顰めた。

「自分で歩ける。」

「駄目です。」

喰い気味に即答された。

そのやり取りを見ていた太一が、微かに笑う。

「往生際が悪いぞ、退助。」

「……誰のせいだと思っとる?」

「さぁな。」

ほんの短いやり取り。だがそれは確かに、以前の二人の間に在った雰囲気だった。

 湊はその光景を見ながら、小さく目を細める。失われたと思っていたものが、今、自分の目の前に戻って来ている。その事実に、彼の胸は締め付けられる様に痛んだ。

 それでも湊は、静かに笑った。

「…お帰りなさい、太一さん。」

太一は、ほんの少し驚いた様な顔をして、そしてゆっくりと頷いた。

「ああ。…ただいま。」


2.


 旧実験棟では、慌ただしく撤収作業が行われていた。負傷者の搬送、施設の再封印。残存するであろう、原生圏部隊への警戒。怒号と無線通信が飛び交う中、断固として担架に乗せられる事を拒否した退助は、医療スタッフに支えられながら、小型艇のデッキへと連れられて行く。

 だが、そこまで辿り着いた所で、退助の身体が大きく揺らいだ。

「中島さん!」

医療スタッフが、慌てて彼の身体を支える。

 退助は壁へ手を付きながら、なお立っていようとした。だが視界は既に暗くなり始めている。脇腹の止血材は血で染まり、呼吸も浅い。

「…まだ…歩ける…。」

「ちっとは言う事聞けよ!この老害!!」

湊の怒号が飛んだ。周囲が、一瞬だけ静寂に包まれる。

 滅多に怒る事の無い人間の、思いがけない突然の怒気に、さすがの退助も思わず怯んだ。

「だ…誰が老害だ、誰が。」

言い返しはするも、その言葉に力は無い。

「アンタだ!アンタ!!」

このときの湊は…本気でキレていた。

「どんな根性してたら、その傷で最深部まで走って来れるんですか!?」

「…走らなきゃ間に合わなかっただろうが。」

このときの退助は何故か、親に叱られている子供の様に、周囲の目には映っていた。

「だからって限度ってもんが有るでしょう!!」

怒鳴り返しながら、湊はストレッチャーを引っ張って来る。

「いいから寝てください!!」

「…断る。」

「断るな!!」

 そのやり取りを見ていた太一が、小さく吹き出した。退助と湊が、同時に彼を見る。太一は疲れ切った顔のまま、それでも少しだけ笑っていた。

「…ははは。」

その笑顔にようやく全員が、終わった事を実感する。そして次の瞬間。

「やっと…笑って…。」

退助は小さく呟いた後、その場に崩れ落ち、意識を失った。暗転する視界に、太一の笑顔を、確かに留めながら。

「中島さん、しっかりして!!」

彼の身体を支えていた医療スタッフが、退助の頬を叩きながら呼びかける。

「だから言ったでしょうが!!」

湊の怒鳴り声が、小型艇のデッキに響き渡った。

医療スタッフたちが、慌ただしく退助を担架へと移す。

「急いで艇へ、出血量が危険域です。」

 喧騒の中、太一だけが動けなかった。眠った様に動かなくなった退助を見つめたまま、唇を噛み締める。その胸の奥に、あのときの言葉が何度も蘇っていた。

『俺がお前を許す!!』

何故、どうして?こんなになるまで。俺なんかの為に。

 小型艇のエンジンが唸りを上げる。カーゴスペースの床に固定された、ストレッチャーの一つに退助は横たえられていた。口元には酸素マスクが付けられ、腕からは輸血が行われている。止血処置の為、衣服は全て取り除かれ、そのがっしりとした筋肉質に、適度な貫禄の乗った成熟した男の裸体は、全身が包帯だらけで、その隙間からは赤黒い血が滲んでいる。

 病衣姿の太一は、その傍らへ静かに腰を下ろした。旧実験棟へと至る道のりとは、座る位置が入れ替わっていた。あのときは、眠る太一を退助が見守っていた。今は違う、眠っているのは退助の方だった。

 艇内の振動が、微かに身体を揺らす。太一は暫く無言で、退助の寝顔を見つめていた。酷い顔だった。傷だらけで、疲れ切っていて。それでも、ここに居る。ちゃんと生きて。

 太一はゆっくりと手を伸ばし、退助の手を握った。

「…お前、本当に来てくれたんだな。」

疲労に掠れた声が震える、眠る退助は答えない。太一は俯き、哀しそうに小さく笑った。

「何でだよ…。」

その笑みは、泣きそうに歪んでいた。

「俺なんかの為に。」

握る手に、僅かに力が込もる。

 すると不意に、眠っている退助の指が、ほんの少しだけ動いた。太一の目が見開かれる。退助は目を覚さない。だがその指先は、弱々しくではあるが、太一の手を握り返していた。

 その瞬間、太一は堪えきれなくなった様に、深く顔を伏せた。肩が小さく震え、目からは熱い雫が溢れていた。


3.


 宇宙開発機構付属病院の発着デッキは、騒然としていた。

「負傷者の搬入、急げよ!」

「手術室を空けろ!」

「原生圏戦闘員との接触者は、隔離の上対応する!」

怒号と警告音が飛び交う中、小型艇から運び出された退助と太一は、それぞれ別方向へと搬送されて行く事になる。だが。

「待て!」

到着直前に目を覚ました退助が、ストレッチャーの上で、無理矢理身体を起こそうとする。

「太一は?太一を先に診ろ!」

旧実験棟から付き添ってきた医療スタッフが、退助の身体を、懸命に押さえている。

「診ます。診ますから、中島さん!安静にして下さいって、言ってるでしょ!!」

「うるさい!アイツが…アイツの方が…。」

その言葉を遮る声が、退助の背中から聞こえて来た。

「心配するな。」

退助が振り向くと、そこには太一が居る。彼は、医療スタッフの肩を借りて、立っていた。

「どう見ても、お前の方が重傷だろう。」

「いや、お前は長期間…!」

このときの太一も、決してまともな状況ではなかった。洗脳処置を施されてからは、長期間の拘束状態に置かれ、人格領域での過負荷にノクティルの後遺症が重なり、激しく体力を消耗し、立っているのもやっとで、脚には上手く力が入らない。

「俺は死なん。だからコイツを先に運べ。」

 周囲の人間が、揃って頭を抱える。

「お願いですから、二人とも大人しくしてください!」

その怒鳴り声に一瞬、周囲の空気が固まる。

 湊は思わず吹き出す。

「はは…何か、戻って来たって感じしますね。」

その隣で、澪も小さいため息と共に呟く。

「言っても聞かない人たちだねぇ。」

だがその声には、どこか安堵の声音を感じさせるものだった。

 結局、退助は半ば強引に手術室へと、押し込まれる事になる。それでも最後まで。

「太一!太一は無事か?」

と、繰り返していた。

 一方の太一も車椅子に乗せられ、処置室へと移されながら、何度も後ろを振り返っていた。

「退助は?ちゃんと治療受けてるんだろうな。」

お互いに、自分の事は後回しだった。


4.


 それから一週間ほどの後。ようやく事件は、一旦の落ち着きを見せていた。天梯崩壊の調査、御影の行方と、原生圏残存部隊の追跡。問題は山積しているが、それでも病院内には、久しぶりに静かな時間が流れている。

 退助は術後、集中治療室での療養を経て、今は一般病棟の個室へと戻って来ていた。脇腹の傷は深かったが幸いな事に、命に別状は無かった。むしろ医師たちは。

「よくこの状態で動いていた。」

と、呆れ返っていた程だ。

 そして太一も心療内科と精神科で、隔離状態に置かれた上での各種検査と、経過観察を経てようやく、最低限の自由を許されていた。

 このときの太一は宇宙開発機構にとっては、原生圏に洗脳を施され、命令に逆らえない状態にされていたとは言え、天梯の破壊工作に加担し、御影とも深く接触していた人物との認識で、警戒対象としての、扱いを受けていたのである。

 検査の結果を受け、彼の意志能力と権利能力は、公に回復する事が認められたが今後、天梯の再建や、宇宙開発機構に関連した公職に、復帰する事は難しいであろうとの判断が、正式に下された。実はその判断の裏側には、ある一人の男の強い意志と、一つの思惑が存在していたのだが、彼はそれを、太一と退助に伝える意思を、持っては居なかった。

 長い地獄だった。壊され、陵辱され、利用され、自分自身すら失いかけた。それでも、彼は生きて戻って来た。全てを抱えたままで。

 そして、地獄の底から帰って来た二人が、ようやく同じ場所で、同じ空気を吸える時間がやって来た。


5.


 個室の窓から差し込む夕陽が、病室を柔らかな橙色に染めていた。ベッドに背を預けた退助の隣で、太一は静かにリンゴを剥いていた。手つきは昔と変わらない。でも、時折ナイフを持つ指が、ほんのわずかに震える。

「…全部、覚えてる。」

 太一がぽつりと零した。暗闇と快楽の中で拘束され、何度も自我を削られ、親子以上に歳の離れた少年に、身体を弄ばれながら『可愛い』と言われ続けたこと。

 命令に逆らえない状態にされていたとは言え、天梯の破壊工作に加担してしまった事…全部。退助は黙って聞いていた。太一は皮を落としながら、淡々と続ける。

「辛い、なんて言葉じゃ全然足りない。俺は本当に、何度も『このまま壊れていい』と思った。それが一番楽だったから。」

 りんごの皮が、螺旋を描いて皿の上に落ちる。

「でも、退助の声が……『太一』って呼ぶ声が、俺を何度も引き上げてくれた。」

太一は一口大に切ったりんごをフォークに刺し、退助の口元へ差し出した。退助はそれを受け取りながら、太一の指をそっと握る。

「本当に…よく、戻ってきてくれたな。」

 太一は小さく微笑んだ。その笑みには、深い影と、それでも確かに灯った光が混ざっていた。

「これからは、全部話す。お前にだけは、隠さずに。」

その時、ノックの音と共に、病室のドアが静かに開いた。

 そこには湊の姿があった。手に小さな花束を持ち、疲れを滲ませながらも穏やかな顔で立っている。

「太一さん…本当に、戻ってこられたんですね。」

湊の声は優しかったが、目には複雑な感情が浮かんでいた。太一はゆっくり頷く。

「津崎…ありがとう。お前と榊がいなかったら、俺は本当に壊れていた。」

湊は花束を活けながら、静かに言った。

「俺は…正直、複雑です。太一さんが戻ってきてくれて、本当に嬉しい。でも…退助さんの隣に太一さんがいるのを見ると、胸が少し痛むんです。」

 湊は一度息を吸い、退助の方をチラリと見た。

「航の墓前で誓ったのに、俺はまだ自分の気持ちを完全に整理し切れていない。…情けないですよね。」

 退助が何かを言おうとしたが、太一が静かに手を上げて止めた。

「津崎。」

「はい。」

「お前は俺の代わり…いや、それ以上に退助を守ってくれた…ありがとう。お前の想いも、俺はちゃんと受け取った。」

 太一は穏やかに続ける。

「でも、俺はもうここにいる。お前も、自分の道を歩け。宗像の分まで、な。」

湊の目がわずかに潤んだ。

彼は深く頭を下げ、小さく微笑んだ。

「…はい。お二人の幸せを、俺はちゃんと見守ります。」

湊はそう言って、そっと病室を後にした。

 ドアが閉まった後、退助は太一の肩を引き寄せ、強く抱きしめた。

「太一お前、湊の気持ち…気づいてたのか?」

「薄々はな。」

太一は退助の胸に額を預け、静かに息を吐いた。

「今は少しだけ…お前の胸を貸してくれ。」

退助は太一のその言葉に、困惑しながらも優しく囁く。

「貸すも何も…ここに居て良いのはな、太一。お前だけなんだぞ…。」

 その暫く後の事、太一がもう一切れのリンゴを、退助の口に運んでいた。

「旨いか?」

「ああ。最高だ。」

退助は太一の頭を優しく撫でながら、窓の外を見た。天梯の再建工事は、まだ始まったばかりだ。失われたものは、もう完全には戻らない。太一の心に刻まれた傷も、航の死も、湊の想いも。それでも、二人はここにいる。

「なぁ、太一。」

「ん?」

彼は退助の手を握りながら答える。

「これから、また一緒に飯食おうぜ。毎日。」

その、自分の目をまっすぐに見つめながらの言葉に、太一は静かに微笑んだ。

「ああ。約束だ。」

 灰色の海の向こうに、夕陽がゆっくりと沈んでいった。


6.


 アンカーアイランドの居住区画。まだ新築の匂いの残る、コンドミニアムの高層階。その窓の向こうには、再建途上にある天梯の姿が見えていた。

 巨大な骨組みは、まだ半ばで途切れている。海上には無数の作業船が浮かび、夜の工区には白い照明が帯の様に連なっていた。かつて天へと伸びた梯子は、今は巨大な傷跡の様にも見えた。

 その景色を背に、退助はリビングに置かれたソファへと、深く身体を預けていた。退院してから数日。脇腹の傷は塞がってはいたが、まだ体力が完全に戻った訳では無かった。だが彼はもう、杖を使おうとはしていなかった。

「で?」

 向かいのソファに腰掛けた港が、少し身構えた様に口を開く。

「わざわざ呼び出したって事は、また何か決めたんですよね?」

キッチンでは、澪が黙ってコーヒーを淹れてくれている。二人は宇宙開発機構の技術部に招聘され、原生圏の洗脳施設から保護された人々を、元の人格へと戻す研究に従事する身となっていた。

 退助は少しだけ、太一の方を見た。窓際に立つ太一は、再建中の天梯を静かに眺めている。その横顔には、まだ消えない疲労の跡と、自らがもう二度と天梯に関連した仕事には、関わる事が出来ない事実に対する、忸怩たる思いが滲んでいる。

 太一に対する保護観察と、行動制限は既に解除されていた。人格状態は安定し、洗脳された痕跡も沈静化が認められ、彼の権利と名誉は形式上、回復された。だがそれでも、彼が背負った記憶と、心の傷は消えない。

 黙って外を眺めていた太一が、やがて小さく息を吐き、湊の方を振り向いた。

「俺たちは、ここを出る。」

湊の目が、驚きに見開かれる。

「…出る?」

「ああ。」

今度は退助が答えた。

「二人で決めた。ここを引き払う事にした。」

誰もが一瞬、無言になる。湊は言葉を失ったまま、二人を見比べた。

「保安部も辞める。」

退助は、あっさりと告げた。

「この件に巻き込まれて関わったんだ。それに元々俺は、太一の仕事にくっ付いて此処に来ただけ、だしな。」

「そんな簡単に…。」

「勿論、簡単じゃねえよ、でもな…。」

退助は即答した。だがその声には、彼らしくは無い、疲れが滲んでいた。

「なぁに、ただ、元の暮らしに戻るだけだ。」

 窓のそばに立つ、太一の顔を見上げながら、彼は続ける。

「俺は太一を取り戻したかった。それは出来た。」

そして、ソファから腰を上げ、太一の隣に立ち、その手を取って満足げな笑みを浮かべた。

「なら、もう良い。」

太一は退助の顔を見つめたまま、何も言わなかった。ただ、その表情だけが少し苦しそうに揺れる。

 湊は唇を噛み、視線を落とした。

「…種子島…ですか?」

「ああ。」

太一が静かに答える。

「アカデミーの教官時代に建てた家も、そのままにしてある。暫くは海でも見ながら、静かに暮らすよ。」

 その言葉に、湊は小さく笑った。

「…退助さん、絶対じっとしてませんよね?」

退助はむっとしながら応じる。

「何を失礼な。こう見えて、俺は穏やかな男だ。」

「三日で漁港の揉め事に、首突っ込みます。」

「ひどい言われ様だな。」

そう言いながら退助の眉の端が、微妙に下がっているのを見逃さず、太一が言葉を繋ぐ。

「昔からだろ。」

そのやり取りに、部屋は小さな笑いに包まれる。

 その空気に和みながら、澪が静かにカップを置いた。

「合理的な判断だと思います。」

澪は優しい表情を浮かべながら続ける。

「お二人は今回の件で、極度の消耗を強いられたと思います。」

「特に太一さんには環境を変えての、長期的な療養が必要でしょ。」

その言葉に、太一は思わず苦笑する。

「相変わらず、医者みたいな言い方だな。」

「だって、事実だから。」

澪はそう返した後、表情を柔らかくした。

「本当に…戻って来れて良かった。」

その言葉に、太一は微笑みながら答える。

「ありがとう。」

やがて部屋には、短い沈黙が訪れる。

 退助が、ふと思い出した様に、口を開いた。

「ああ!そうだ。」

「?」

湊が顔を上げる。退助は部屋を見渡しながら、あっさりと言った。

「この部屋な、お前らにやる。」

「……は?」

完全に虚を衝かれた湊が、間の抜けた声を上げた。澪も僅かに眉を動かす。

「これも二人で決めたんだ、受け取ってくれ。それにお前ら放っとくと、平気で研究室に寝泊まりするだろ?」

 何故かこのときの退助の心配は、突然に母の域まで達していた。その様子を見て、太一は笑うのを堪えながら、口を開く。

「だからここで、せめて人間らしく暮らせ。」

「待って下さい、何でそうなるんですか!?」

そう湊が、全力で拒否を試みようとした時。

「有りっちゃ、有りだね。」

「澪まで!ちょっと何言ってんだか、分かんないんだけど!!」

 その様子を見ながら、退助は腹を抱えて笑った。太一も、堪えきれずに遂に吹き出す。その笑い声を聞いたとき、湊はようやく気が付いた。二人の表情から、戦いの色が消えている事に。

 長い地獄の果てにこの二人は、ようやく、帰る事を選べたのだと。


7.


 出発ロビーの向こう側で、朝の滑走路は赤道直下の陽の光に強く照らされ、ターミナルビルは、地面に濃い影を落としていた。現在のアンカーアイランド空港は、天梯の再建工事用の資材搬入が優先されている影響で、人影は少なかった。

 保安検査場近くの出発ロビーでは退助が、携帯端末の画面に表示された搭乗チケットを確認しながら、不満気に鼻を鳴らした。太一はそのとなりで、先にチェックインを済ませている。

「結局、太一も俺も、揃ってお払い箱って訳だ。」

 辛うじて、冗談めかした口調にしていたのは、彼のせめてもの自重だったのだろう。その言葉に、太一が小さく首を振る。

「退助、そんな事言うもんじゃ無いぞ。」

「だがお前は事実…。」

 険悪になりかけた二人を見かねて、澪はつい、口を開く。

「実はこれ、鷹宮部長からは厳しく、口止めされていた事なんですが…。」

退助が首を傾げる。

「ん?」

澪は申し訳無さそうに続けた。

「実は太一さんの適正評価…。俺と湊は、問題無しって報告を出してます。」

太一が驚きに、目を瞬かせた。

「問題…なし…?」

「はい。」

湊は頷く。

「あれだけの事をされたんですから、多少の後遺症やトラウマは残ると思います。」

「でも、それを以て、公職復帰を拒絶する理由にはならない。」

二人の間に、沈黙が落ちた。

「じゃあ何故だ?」

退助が腕を組みながら、尋ねる。

「そこで鷹宮部長です。」

その名前に、二人の表情が変わる。

「部長が?」

太一の呟きに、澪が頷いた。

「正式な決定の前に、俺は執務室に呼ばれました。そこで尋ねられたんです。」

少しだけ、視線を遠くへ向ける。そのときの様子を、思い浮かべるかの様に。


 部長執務室へ呼び出された澪に、鷹宮は尋ねた。

『八木太一の状態に関してだが、本当に公職への復帰が可能なのか?忖度抜きで教えてくれ。』

その問いに、澪は迷いなく答える。

『可能です。』

『そうか…。』

鷹宮は、安堵の息を吐きながらも、腕を組んで考える。

『だが、それなら尚更だな。』


 湊はそこで言葉を区切る。太一と退助は、それを黙って聞いている。澪は言葉を続けた。

「部長は言いました。」


『もう十分だ、あの二人はもう十分、戦った。』


ロビーの喧騒が、遠く聞こえる中、澪は言葉を続ける。


『原生圏の件は、まだ終わってはいない。だからこそ、あの二人をそこに近づけたく無い。』

『もし復帰を認めれば、あの二人はまた、最前線に戻る。』

『そして次は、本当に失うかもしれん。』


澪は静かに笑った。

「それが、部長の言葉でした。」

 退助の脳裏に、幾つかの場面がよぎる。作戦中の視線、病室での言葉、太一の話になる度に見せた、あの微かな表情。そして。


『中島、よく無事で帰ってきた。ご苦労だったな。』


そのときの顔。

「…そうか。」

 退助はゆっくりと息を吐いた。それだけだった。もう、怒りも不満も無い。ただ、ようやく腑に落ちた。そんな様な声音だった。

 太一は隣で苦笑する。

「らしいな。」

退助も笑った。

「そう言えば、部長ってそんなだったな。」


8.


 そこへ、仕事で遅れてやって来た湊が、息を切らせながら合流すると、別れの時間も近づいてくる。湊は二人に告げた。

「種子島の病院との、データ連携は済ませてあります。定期検査は受けて下さいね。特に太一さん。」

「何から何まで済まんな。」

「そして、退助さんもね。」

退助は面倒くさそうに応じる。

「分かった、分かった。」

「返事は一回!」

「いつも俺だけ怒られる。」

「ちょっと位は自分の身体の事、気にして下さいね。」

「来世では、そうするさ。」

「ホントに全く、このオッサンは…。」

湊はため息をついた。だが、その目元だけは、少し柔らかい。そこへ案内のアナウンスが入る。

『種子島行き…手荷物検査を開始いたします、ご搭乗の方は…』

 四人の空気が、少しだけ静かになった。太一と退助は、ベンチから立ち上がる。退助は頭を掻きながら、照れくさそうに。

「あー…世話になったな。」

「雑。」

湊が思わず吹き出す。

「もっとこう、あるでしょう?」

「苦手なんだよな、そう言うの。」

退助はそう言うと、照れくさそうに笑う。

 太一はそんな彼の様子を、横目で見た後、ゆっくりと湊へ話しかける。

「湊。」

「…はい!」

「退助を守ってくれて、ありがとう。」

 湊の表情が、戸惑いから照れ臭そうな物へと変わる。航を喪ったときから、退助を守る事は、自分自身の願いになっていった。だからこそ、その言葉は深く刺さった。

 湊は小さく息を吐き、照れ隠しに笑う。

「俺、結局あんまり役に立てませんでしたよ。」

「そんな事は無い。」

太一は静かに首を振る。

「お前が居なかったら、俺は戻れなかった。」

湊は目を伏せた。胸の奥がまだ、少しだけ傷んだ。でも同時に、不思議と穏やかでもあった。

 長い時間を掛けて、ようやくこの二人を、送り出せる気がしたから。

「…ちゃんと、幸せになってください。」

その言葉に、退助は少し困った顔をする。

「なんだその、結婚式みたいなセリフ。」

「茶化さないで下さい。」

「悪い悪い。」

 退助は笑った後、ふと真顔になる。

「お前もな、湊。」

「え?」

「ちゃんと生きろ。」

湊は言葉に詰まって、何も言えなかった。代わりに、深く頷く。

 その隣で、澪が静かに口を開く。

「お二人が居なくなると、ここも静かになっちゃいますね。」

退助がちょっと悪戯っぽく尋ねる。

「寂しいのか?」

「べ…別にそんな事。」

「間があったぞ、今。」

「気のせいです。」

澪はそう言いながら、ほんの僅かに視線を逸らした。

太一が小さく笑う。

「澪、湊を頼む。」

 その瞬間、湊が勢いよく顔を上げた。

「いや何で!そういう話になるんですか!!」

「有りっちゃ有りだね。」

「澪まで何いってんの?!」

ロビーに、小さな笑い声が広がる。

 その空気のまま、退助と太一は軽く手を挙げた。

「じゃあな。」

「またな。」

二人は、保安検査場に向かって歩き出す。

 途中で、太一は一度だけ振り返った。湊と目があう。そこには、言葉にし切れない感情があった。失ったもの、救えなかったもの。それでも、生き残った者同士の静かな共感。湊は、微笑む。太一も、小さく頷いた。

 そして二人は、ゲートの向こうへ消えていった。


エピローグ


 種子島の海は、穏やかだった。潮風に揺れる洗濯物、遠くで鳴く海鳥に、防波堤へ当たる波の音。

 海の見える平屋の広縁で、退助はタブレットでニュースを読みながら、唸っていた。

「暇だ…。」

「帰って来て、たった三日で何言ってる。」

台所から帰って来た声に、退助は不満げな顔をする。太一はエプロン姿のまま、焼き魚を皿へ盛り付けていた。

「まだ安静にしてろって、通院したときに言われてるだろ。」

「もう元気だ。」

「脇腹の傷開いたら、麻酔なしで縫ってもらうからな。」

「怖い事言うなよ!」

 太一は苦笑いしながら、お盆を持って、広縁へと出てくる。焼き魚、野菜の煮物、味噌汁、漬物。質素な夕食だった。

 でも不思議な程、温かかった。退助は魚を一口頬張る。

「うん…旨い。」

「そりゃ良かった。」

太一も向かい合って腰を下ろす。

 その瞬間、太一の表情が、ほんの少しだけ強張った。遠くを見る様な目をしている。退助は気付く。

 夜になると、まだ時々悪夢に魘される事。ふとした音で、身体が強張る事。傷はまだ消えていない。多分、一生消えない。

 退助は黙って、太一の隣へ座り体を寄せ、肩を抱いた。太一は少しの間目を閉じ、静かに息を吐いた。

「…退助。」

「ん?」

「帰ってこれたな。」

その言葉に、退助は頷く。

「ああ、そうだな。」

海の向こうに、夕陽がゆっくりと沈んでいく。

 昭和の昔に、汽車に揺られて海へ向かった二人、長い地獄を超えた今、再び海へ帰って来た二人。

 波の音だけがその間に、静かに響いていた。 





 はい、中の人です。今回で、二人の冒険は一旦締めって事になりました。いやぁ、帰ってこられてホントに良かったですねぇ。作者本人が、一番どうなるか分かってなかったですから。

 で、最後だからと思って、ちょっと蛇足な感じはありましたが、自分の見たいシーンを全部盛りの増し増しで、トッピングしてみました。

 読んで下さる方が、胸焼けしなければ良いですけどねぇ。とにかく、ここまで駄文にお付き合いくださった方へ感謝をこめて。


ありがとうございました。

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