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迷い子たちの冒険  作者: やす。


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第五話 迷い子の帰還

 アンカーアイランドから空路で数時間ほどを隔てた、とある灰色の海域に直線と角だけで出来た、巨大な影が浮かんでいる。かつて宇宙開発機構によって建造された、航法AI実験用の海上浮遊プラットフォーム。現在では正式名称すらも忘れられ、記録の隅に残るだけの、旧実験棟。

 その黒い歴史の遺物を、遠くの海上から監視する存在が有る。それは原生圏所属の小型艇だった。その艇から、望遠鏡を通して見た旧実験棟に動きがあったのは、退助と太一がセーフハウスで対峙した日の、夜の事だった。複数の小型艇が、実験棟のデッキへと降り立ち、人員と物資が続々と、その屋内へと運び込まれていく。

「保安部の動き…予想よりかなり早いな。」

望遠鏡を覗き込んでいた、原生圏の構成員が呟く。

「回線を開け、本部へ連絡だ!」



1.


 原生圏本部は、今や混乱の極みにあった。榊澪の抹殺と、彼によって構築されたであろう、洗脳処置解除システムを奪取するために、宇宙開発機構が所有するセーフハウスへと送り込まれた、四天王の二人。九条と鷺沢、それと彼ら二人が率いる、配下の実働部隊も、八木太一と共に消息を絶ったのである。

 その、原生圏本部の最深部に設けられた謁見の間には、高い天井から、重い沈黙が落ちてきているかの様に静まり返っている。

 その中央に、真紅の絨毯が真っ直ぐと伸び、その先に据えられた玉座の前で、御影は片膝をつき、首を垂れていた。

 足音は聞こえずに、気配だけが降りて来る。そしてその気配は、重圧を伴い彼の全身を包み込んだ。

 やがて、玉座から低く、静かな声が流れ始める。

「許せ、御影。」

詫びられている…。しかし、その声と御影を隔てる簾の向こうからは、御影をして身体を押し潰されるのではないかと、錯覚させるほどの重圧が溢れ出ていた。

「今回其方に与えた、八木太一までが囚われたのは、すべて私の判断の誤りであった。」

 御影は、自分の背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、額が床に触れる程、深く頭を下げる。

「滅相も御座いません。御前様におかれましては、誠に勿体無いお言葉であると存じます。」

その言葉に揺らぎは無い。だが、悔恨は確かに滲んでいる。

 暫くの沈黙の後、玉座の主である「御前」は、ゆっくりと続けた。

「だが現在の状況へと至る、原因となる裏切りを、組織に対して働いた愚か者がおる。」

御影の肩が、僅かに揺れる。

「例の物を、これへ。」

 側に控えていた人影が、無言で頷き、奥の扉が開かれる。金属の軋む音と共に、台車が押されて来る。そこに載せられているものを見た瞬間、御影の視線は凍りついた。

 そこに有ったのは先日、太一が戒められていた物と同型の、X字型の拘束台。そこへ限界まで四肢を広げられた姿勢で、全ての衣服を剥がれ、生まれたままの姿で磔にされた、少年の身体

「と…冬馬…。」

 御影の目が、驚愕に見開かれる。それはかつて、御影と同格の存在であった、四天王の一角。その彼が、赤裸のまま拘束台に戒められている。

 未成熟ながらも、ようやく揃い始めた筈の首から下の体毛は、懲罰の証として、その全てが取り除かれ、まるで幼子の様な印象へと変えられてしまった体躯には、無数の電極とカテーテルが繋がれている。その機械に制御された肉体は、まだ幼さの残る彼自身を、宙を仰いで反り返らせ、その先端からは透明な滑りが糸を引き、彼の鼓動に合わせるかの様に、脈打っている。

「嫌…だ…おね…がい…御影…見ない…で……。」

 数日間に渡り、強制的に絶頂の間際へと留め置かれ、快楽の波に苛まれ続ける彼は、羞恥に顔を歪め、目に涙を浮かべながら、そう懇願する。

 その冬馬の声を無視した御前の声が、徐々に正気を失い始めている、彼の耳へと届く。

「此奴は調整などと称して、自らの好奇心を満たさんが為に、我らの情報を中島退助へと、漏らした。」

 御影は顔を上げない。だが、その額には汗が滲む。

「その罪は万死に値する。」

数瞬の沈黙の後、御前は言葉を続ける。

「だが今回の処罰は、せめてもの慈悲として、うぬの自我を消し去り、その身を我が組織の人形とするに、留めるものとする。」

冬馬の喉が、僅かに動いた。

「御前…お…お慈悲を…どうか…お赦し…くだ…さい…。」

彼は涙を流しながら赦しを乞うが、御前の声は、ただ冷徹な響きのみを帯び、玉座の前に響き続ける。

「ならぬ。キサマは今後、組織の人形としてのみ、存在を許される物となる。」

御前が合図をすると、冬馬の身体を制御している機械は、一段と高い作動音を発し、彼の自我を壊し始める。

「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 それと同時に冬馬の全身は、地獄の様な快楽の波に飲み込まれ、反り返った彼の先端からは透明な滑りが、まるで滝の様に滴り落ちる。

「どうかぁ!……どうかお慈悲をぉ!お赦しをぉぉ!!」

もう逃げる術も無い拘束の中で、言葉にならない叫びを上げつつ、のたうちながら、冬馬はそれから暫くの間、踠き、よがり狂い続ける。

 その波は、冬馬の自我を削り取り、彼の中身を完全な空白へと変えていた。そして御前の指が、乾いた音を立てて鳴らされた瞬間…。

「ぐひぃぃぃぃぃ!!」

 反り返った冬馬の先端からは、若く生々しい匂いを放ちながら、尋常では無い量の、白い迸りが溢れ出し、謁見の間の床に飛び散った。やがて、彼の顔からは表情が消え、その瞳の奥からは光が…消えた。

 冬馬の胸は呼吸の動きに上下し、虚になった目が、じっと御影の顔に向けられている。生きてはいる。だが、そこに彼の意志は、もう無い。

「御影よ。」

御前の声のトーンが、少しだけ低くなる。

「八木太一は、我らがこれから造り出そうとしている兵士の、唯一の成功例であり、あまつさえ彼奴の中には、洗脳アルゴリズムの最終パラメータの実態が残っておる。」

「何としても、あれを取り戻せ。」

そして御前の視線は、かつて冬馬と呼ばれていた物へと、向けられる。

「この人形は、其方に与える。」

台車が、御影の目の前まで運ばれて、止められる。

「八木太一再奪還の、手駒として使うが良い。」

 御影はゆっくりと顔を上げる。そこに在るのは、四天王から人形へと堕とされた、冬馬だった物の姿。だが、御影の目に映るのは、怒りでも悲しみでも無い。ただ、徹底的に研ぎ澄まされた決意。

「…御意。」

 短い返答の後、御影は立ち上がり、拘束台に磔にされた冬馬の前に立つ。かつて自分に並び立ち、共に任務を遂行してきた少年。だが今は、原生圏の道具としてのみ、存在を許される立場へと堕とされた、哀れな存在。

 御影は、冬馬の半開きになった口に、そっと自らの唇を重ねた後に、もう物言わぬ存在となった、彼に囁いた。

「あぁ…ステキだよ冬馬。なんて愛らしくて、美しい姿になったんだ。」

彼はそっと、低く優しい声で言葉を続ける。

「心配はいらないよ。キミは、ボクがちゃんと使ってあげる。」

その言葉には、感情がほとんど含まれていない。そこに存在するのは、使命だけだった。

 やがて御影は顔を上げ、踵を返す。

「残存兵力を再編成し、旧実験棟へと向かう。艇の準備を!」

側近が、即座に端末を操作し、準備を開始する。

 そのタイミングで御影の元へ、旧実験棟への監視の任に就かせていた部隊から、情報がもたらされる。

『旧実験棟に動き有り。』

その一報に、御影の目が細くなる。

「先を越されちゃったみたいだね。太一くん以外にも、アタマの良いヤツがいるみたいだ。」

そう呟いた後、御影は最後に一度振り返り、玉座へと深く一礼した。

「必ず、八木太一を取り戻して参ります。」

御前は何も言わず、ただ静かに見下ろしている。原生圏に残された戦力は、もう多くは無い。だが、それでも。

 御影という存在が有れば、それで十分だと…沈黙が、そう語っていた。


2.


 深夜、宇宙開発機構保安部の医療区画は、水を打ったように静まり返っていた。その沈黙を破るかの様に、ストレッチャーの車輪から発せられる音が、硬質な床面を規則正しく、刻んでいく。

 医療区画に収容され、応急処置を受けた後、病衣に着替えさせられた太一は、そこへ横たわり、運ばれている。その意識は、鎮静剤により深く落とされ、四肢は固定されている。

 だがその額には汗が滲み、閉じた瞼の奥からは、何者かと戦っているかの様な気配が感じられた。ストレッチャーを押す医療スタッフの後ろを、退助は無言のまま歩いている。顔の腫れ、割れた唇、こびりついたまま乾いた血。応急処置を済ませただけの彼の身体には、まだ先程の戦闘の余韻が残っている。

 廊下の角を曲がった先では、鷹宮が退助たちを待っていた。

「中島、よく無事で帰ってきた。ご苦労だったな。」

意外な労いの言葉に戸惑いつつも、退助は平静を装い応じる。

「いえ。自分は目の前の状況に、対処しただけの事です。」

その退助の受け答えに、鷹宮の顔には、一抹の寂しさにも似た表情が表われていたのだが、それが退助の目に止まる事は無かった。

「旧実験棟は開放済みだ、津崎と榊は、最深部へと先行して洗脳解除システムを、インストールしている。」

鷹宮は退助たちと歩調を合わせながら、淡々とそう告げる。退助は足を止める事なく、彼に尋ねる。

「随分と、手回しの良い事ですね?」

「想定していた事態だからな。」

 その一言で、退助は全てを察する。九条と鷺沢配下の部隊が、セーフハウスへと辿り着く前に、どれだけ保安部に削られていたのか?なぜ旧実験棟のシステムが、ここまで速やかに復旧されたのか?

 鷹宮は最初から、この局面を作る為に動いていた。

「…俺たちを囮にする事で、ここまで削ったって、事ですね。」

「結果的にそうなったって事だ。だが、済まんかったな。」

退助は鼻で笑う。納得は出来ない。だが、理解はする。自分が太一を取り戻す為に動く事が、組織にとっても最善の事であった。という事実を。

 小型艇の発進デッキへと至る通路の途中、鷹宮はまるで独り言の様に呟く。

「原生圏は本来、過激ではあるが、環境を保護する目的で設立された組織の筈だ。」

そう呟きながら、視線をストレッチャーの上で眠る、太一へと移す。

「それが何故、今になっていきなり、人をこうまでして変えようとする?」

そして視線を退助へと向けながら、尋ねるかの様に言う。

「何か、こう…これすらも、もっと大きな事への、布石の様にも感じられないか?」

そこまで言って、鷹宮はふと、我に帰った表情になる。

「済まん!大事な時に。今は彼に戻って来てもらう事だけを考えよう。」

退助は顔に、少しの安堵を浮かべながら答える。

「俺にはそこまでは分かりませんが、そういう小難しい話は、コイツが得意な筈です。戻って来たら、訊いてみる事にしましょうや。」

 そう言いながら退助はその手を、そっと眠る太一の肩へと添える。その顔には、彼本来の優しさが滲んでいた。


3.


 発進デッキでは、アイドリング状態にある小型艇のエンジン音が、低く船体を震わせている。退助は自らコックピットへと向かおうとしていた所を、同行する医療スタッフに見咎められる。

「中島さん、駄目です。」

「……あ?」

怪訝な顔で、退助は眉を顰める。

「貴方も、少しは休んで下さい。本来なら、とても同行できる身体の状態じゃ無いんですよ。」

その言葉に反論を試みようとするも、脇腹に走った痛みに顔が歪んだ。

「…ちっ。」

「ほらご覧なさい。それに…。」

彼は船体の後方に視線を移し、退助の肩に手を添え、優しく微笑みながらそっと呟く。

「付いて居てあげて下さい、一人じゃ…きっと彼も心細い。」

その医療スタッフの言葉に、退助は何とか自分を納得させながら、踵を返す。

「済まんな…解った…それじゃ宜しく、頼んだぞ。」

 艇内後部のカーゴスペースには、医療ユニットが持ち込まれ、仮設の病室が設営されていた。そこに固定されたストレッチャーの上で、太一は静かに寝息をたてている。

 拘束具は外されている。だが、いつ暴れ出すか分からないという判断なのだろう。両手首には、柔らかな固定ベルトが嵌められていた。

 退助は、その傍らに設置された、簡易ベンチへと腰を下ろす。しばらく無言のままで、太一の顔を見つめた後、そっと彼の手を握った。

 熱がある様で、その手は少し汗ばんでいるが、退助にはそれが、太一が生きている事の証の様に感じられた。

「なぁ、太一。」

当然の事ながら、返事は無い。だが退助は、気にした様子もなく続ける。

「鷹宮部長も、あれで仲々、芯は現場の調査員なんだな。」

自分の中のその認識に、彼は思わず苦笑する。

「俺たちを囮にして、原生圏を削る。」

「普通の上役なら、そんな危ない橋を自分じゃ、渡らないだろ?」

「まぁ…だからって、納得出来る話じゃ無いけどな。」

 そう言ってから、退助は少しだけ視線を落とした。

「けど、お前を取り戻す為だったなら……。」

「…俺は…もっと酷い事を…あいつにしてしまったんだ…。」

その瞬間、退助の視界が揺らぐ…彼の脳裏に、あのときの光景がフラッシュバックする。

 天梯高層の冷たい床。血の臭い。航の弱々しい息遣い。航は最期まで笑おうとしていた。血に塗れた口元を歪めて、震える指で退助の袖を掴みながら、掠れた声で囁いた。

『……退助さん……太一さんを……必ず、助けて……あげて、くださいよ……。』

 航の瞳は、恐怖と痛みの中でさえ、退助を信じきっていた。その手を、退助は握り返した。握り返したはずだった。

 しかし航の体温は次第に失われていき、指の力が抜け、瞳から光が消えるまで、退助は何もできなかった。ただ、航の血で自分の掌を真っ赤に染めながら、ただ見ていることしかできなかった。

 「…あのとき、俺は航を守れなかった。お前を取り戻したいだけの思いに駆られ、結局、アイツを犠牲にした。航が命を投げ出してまで守りたかった俺を…自分自身が守れなかった。」

 退助の目から、熱い雫が一筋、零れ落ちた。それが握った太一の手の甲を濡らす。

「……ごめんな、航。お前が死んだのに、俺はまだ太一のことばかり考えてる。」

「お前が最期に託してくれたものを、俺はちゃんと守れるのか……?」

 声は震えていた。

「太一……お前が戻ってきたら、俺はもう二度と、誰かを失わせない。」

「お前も、航も……もう誰も、こんな思いはさせない。」

その時、眠る太一の指が、ほんのわずかに、退助の手を握り返した。退助はそれに気づかず、ただ強く、強く、その手を握り続けた。

 小型艇は旧実験棟のデッキへと、滑り込む様に舞い降りた。艇から運び出された太一は、棟を貫くメインエレベーターへと乗せられ、退助と、付き添いの医療スタッフたちと共に、下層へと向かった。エレベーターは通常の階層表示を通り過ぎ、更に下へと降りていく。

 やがて辿り着いたのは、長く閉鎖されていた区画、実験棟の最深部。重い隔壁が、軋みながら開き、埃と金属の匂いが混じった空気が流れ出す。そこでは、本隊に先行してここへ来ていた、湊と澪が、共にセーフハウスで構築した、洗脳解除システムの最終調整を行なっている。

 澪は端末を起動し、データのチェックに余念が無い。湊は複数のケーブルを点検しているが、その横顔からは、先の戦闘でのダメージが抜け切ってはいない事が窺える。隔壁の開く音に、二人は作業の手を止め、退助と太一を出迎える。

「間に合いましたね。」

澪が短く言う。

「ありがとうな。で、準備は?」

退助は二人の労を労いつつ尋ねる。

「いつでも。」

拭いきれない疲労を滲ませながらも、湊は笑顔で応じた。

 退助はストレッチャーを装置の中へと押し込み、太一の身体を抱き抱え、処置台へと移す。同行した医療スタッフが、太一の身体から病衣を脱がせ、T字帯一枚となった彼の身体に、各種センサーを取り付けていき、腕に取られたラインから、ノクティルの投与を開始する。

 かつて人格を壊す為に使われた装置を、今はその逆の為に使う。湊と澪が、それぞれの席に座る。二人の頭に、ヘッドギアが装着される。

「ここからは、俺たちの仕事です。」

湊の声は、もういつもの調子に近い。

 退助はその言葉に頷きながら、装置から数歩離れた位置で、戦闘用の装備を身に着け、短機関銃を手に取り、弾倉を装填し、初弾を薬室へと送り込み安全装置をかけつつ、湊と澪を見る。

「二人共、頼りにしてるぞ。こっちは任せろ。」

 その時だった。実験棟の上層から、爆発音が響き、やがて衝撃が伝わる。天井から埃が舞い、照明が揺れる。澪の目が一瞬、驚きに見開かれる。

「来た…。」

退助は振り向かずに呟く。銃の安全装置を外す音が、小さく響く。

「予想通りだな。」

通信機から、前線部隊の緊迫した声が流れる。

『原生圏の侵入を確認!』

退助は、静かに息を吐いた。

「よし、ここを動くな。絶対に。」

それだけを告げ、システムの直掩部隊を最深部に残し、彼は隔壁の外へと歩き出す。背後で、装置の起動音が低く唸り始める。湊と澪の意識が、太一の中へと潜っていく。

 そして退助は、決意を込めた男の顔で、暗い通路へと踏み出した。


4.


 退助は保安部のアサルトチームと共に、旧実験棟のメインコントロールに布陣していた。原生圏の実働部隊が目指すとすれば、まずここだ…そう考えたのである。

 中央制御卓の周囲には、保安部の武装要員が配置され、各監視モニターには、実験棟内部の映像が、映し出されている。

 退助はその中央で、短機関銃を肩に掛けたまま、侵入予想経路を睨んでいた…。だが、来ない。監視カメラには、侵入した原生圏の部隊が映っている。

 彼らは、メインコントロールへ向かうルートを避ける様に動いていた。

「…何故だ?」

退助は眉間に皺を寄せる。本来なら、ここを陥せば実験棟全体のシステムを掌握出来る。少なくとも、普通ならそう判断する。だが、敵は違った。

「まるで…最初からここを捨てているみたいじゃないか。」

 オペレーターが声を上げる。

「侵入者は、第二搬送区画を通過。」

「進行方向、南側サブコントロール。」

退助の胸を、嫌な感覚がよぎる。

「サブコントロール…?」

 その頃、御影を初めとする侵入部隊の姿は、旧実験棟の低層、南側サブコントロール室にあった。非常灯だけが赤く瞬く、薄暗い室内で、御影は静かに端末の前へ腰を下ろしていた。

 その背後には、武装した原生圏の残存部隊。そして、その傍らには無言のまま立つ、冬馬の姿が有った。

 拘束衣にも似た黒い戦闘服を着せられ、その瞳には感情の色が無い。御影は端末へと指を走らせ、サブコントロールを起動する。

「さて…どこまで抵抗してくれるのかな?」

そう呟きながら、彼は自分の後頭部に有る接続端子と、サブコントロールの端末を、有線で接続する。御影の全身が、ピクリと震えた。

 室内の照明が、一瞬だけ明滅する。そして、実験棟内部のモニター群へノイズが走った。御影の意識が、実験棟の管理システムへと侵入を開始する。

 通常の人間ならば、脳がその情報量に耐えきれず、壊れる。だが御影は違う。「対AI適応能力」。それは、人間でありながら、AI的な情報処理へ脳を最適化された存在。

-複数の演算-

-並列思考-

-空間把握-

-分岐予測-

常人ならば、脳を焼かれてしまう程の、膨大な量の情報が流れ込む中で、彼は静かに笑った。

「…見える。」

実験棟の内部構造。

保安部の配置。

電力の経路。

最深部の封鎖区画。

 だが次の瞬間、御影の表情が僅かに曇った。

「これは…?」

視界の奥で、複数のアクセス経路が遮断されている。いや、遮断では無い。

偽装。

多重化。

欺瞞構造。

それは、最悪の事態を想定した澪が、予め組み上げていたプロテクトだった。

 旧実験棟最深部…洗脳解除システムの周辺だけが、異常なまでに閉ざされている。侵入経路を一つ見つければ、その先に更に別の防壁。突破したかと思えば、接続先そのものが、偽物へと切り替わる。

 それはまるで、電子の迷宮。御影は初めて、小さく息を漏らした。

「…へぇ。」

感心したかの様な声音になる。

「榊澪…キミ、ホントに怖い子だね。」

背後の部下が問いかける。

「御影様、システムの掌握は?」

「まだ無理。」

御影は即答する。

「最深部だけ切り離されてる。力任せじゃ開かない。」

その言葉に、部下たちの間へ緊張が走る。

「では…。」

 御影は、ゆっくりと振り向く、その視線の先には、冬馬が控えている。

「だから、物理的に扉を開けに行くしかない。」

冬馬は虚な視線のまま言葉も発せず、ただ静かに佇んでいる。

 御影は立ち上がり、優しく彼の頬に触れながら、囁く。

「さぁ、キミの仕事だよ、冬馬。」

「最深部へ行って津崎湊と、榊澪を殺しておいで。」

 冬馬の身体は、音も無く動いた。人間離れした速度で、次の瞬間には、既に通路の奥へと消えている。

 それを見送った後、御影は再び端末へと向き直りながら、静かに呟く。

「退助くんは…ボクが引き付けておくからね。」

 その頃のメインコントロールは、混乱に包まれていた。突如、室内の照明が激しく明滅する。

「管理システムへの干渉を確認。」

「アクセス権限が、書き換えられていきます!」

「侵攻、止まりません!」

警告音が鳴り響き、モニターの一部がブラックアウトする。

 退助の目が険しくなる。

「まさか、そう出て来るとはな…。」

次の瞬間、電子的にロックされていた筈の、メインコントロールの正面隔壁が、音も無く開いていく。まるで、主人を迎え入れるかの様に。

 そして、開かれた扉の向こうから、ゆっくりと歩いてくる、一人の少年。その背後には武装した集団。

 御影は、微笑みながら口を開く。

「久しぶりだね、退助くん。」

「太一くんを迎えに来たよ。」

退助が銃を構え、引き金を引こうとした瞬間。実験棟全体のモニターが、一斉に御影の瞳と同期する。それは不気味な赤い光を発していた。

 そして実験棟全体が、御影の意のままに動き始める。


5.


 原生圏の侵入部隊と、保安部アサルトチームとの間に、先頭の火蓋が切って落とされた。次の瞬間、メインコントロールは凄まじい銃声と怒号に包まれる。保安部側の隊員が、遮蔽物に潜り込み、原生圏の兵士たちもまた、散開しながら応戦する。銃火が飛び交い、コンソールのモニターが火花を散らして、砕け散る。

 その混乱の最中、御影だけはまるで、別の場所に居るかの様に静かだった。

「じゃあ、ボクは太一くんを迎えに行ってくるね。」

場にそぐわぬ柔らかな声で、部下にそう告げる。

「御影様、ご武運を。」

彼は踵を返し、銃声の轟く戦場を背に、悠然と歩き始める。

「ありがとう、後は頼んだよ。」

 御影の言葉に応じるかの様に、原生圏の兵士たちは、一斉に攻勢へと転じた。

「撃てぇッ!」

激しい掃射の応酬。保安部側も応戦し、弾丸が空気を裂いて飛び交う。退助も咄嗟に物陰に飛び込み、短機関銃の引き金を引き絞る。

「中島!」

そう退助に、怒鳴る様な声を向けたのは、アサルトチームの隊長だった。

「お前は奴を追え!」

「だが!しかし!!」

 退助は反射的に叫び返す。ここを離れれば、戦線が崩れるかもしれない。御影の能力も未知数だ。自分が抜ける事への危険性を、彼は痛いほど感じていた。

 だが隊長は、それを遮る様に怒鳴った。

「最深部には、僅かな直掩と医療スタッフしか居ない!」

言葉の間にも、銃弾が頭上を掠める。

「あそこの隔壁を突破されれば、また八木は連れ去られるぞ!!」

 その言葉に、退助の目が見開かれる。

(太一!)

ハッとした様に、彼は顔を上げた。御影の姿は、既に通路の奥へと消えかけている。

「……っ!」

一瞬の逡巡の後、退助は短く言葉を吐いた。

「すまん!」

「最初から、素直になりゃ良いんだよ!」

そう言って、隊長は退助を送り出す。

「後で泣き付くなよ!」

そう返した次の瞬間、退助は遮蔽物を蹴って飛び出す。

「もう、二度と大事なもん、手放すんじゃないぞ。」

走り去る退助を援護しながら、隊長はそう呟いた。

 退助の背後では、なおも激しい銃撃戦が続いている。もう振り返らない。彼は全力で、御影が消えた方向へと通路を駆け出した。

 長い通路を走る。その瞬間、背後で重い金属音が響き、メインコントロールへと通じる隔壁が、閉鎖される。

「…閉じ込めたつもりか。」

退助は舌打ちしながらも、その足を止めない。だが次の瞬間。

 通路の照明が、一斉に落ちた。退助の周囲は闇に包まれ、非常灯だけが赤く脈打つ様に点滅する。それと同時に、天井裏から乾いた機械音が響いた。

 退助の反応は速かった。彼は咄嗟に床を蹴り、横へ跳ぶ。その直後、凄まじい銃撃が今まで退助が居た空間を、薙ぎ払った。

「ちっ!」

弾ける様に火花が飛び、床材が破砕される。天井のハッチから現れたのは、実験棟に対人攻撃システムとして組み込まれている、自律制御型のドローンだった。赤いセンサーに光を灯しながら、退助に向けて照準を固定している。

「やってくれる!」

退助は転がりながら銃を構え、ドローンの一機に向かい、三点射を放つ。そのセンサーが砕け、側を飛ぶもう一機を巻き込み、火を噴きながら壁へと激突する。

 だが次の瞬間には、通路側面のパネルが展開し、更に二機のガードロボットが滑り出した。その時、通信機に場違いな、静かな囁きが届く。

『退助くん。』

その声に、退助の表情が険しさを増す。

「御影か!」

正確な射撃で、ガードロボットを無力化しつつ、彼は応じる。

『そんなに急がなくても、大丈夫だよ。』

声は穏やかだった。まるで雑談でもしているかの様に。

『太一くんには、なるべく苦しまない方法を選んであげるからね。』

「ふざけるな!」

虚空に向かい、退助は怒鳴る。だが次の瞬間、今度は床面に高圧電流が走る。

「くっ!」

 退助は咄嗟に壁を蹴って跳び上がる。靴底を青白い火花が掠めた。そして、辛うじて電撃の範囲外へ着地するが、それと同時に新たなドローンが、彼に向かって襲いかかる。退助は一機の機体を掴み、力任せに別の機体へと叩きつける。ドローンは砕け、火花が散る。だが休む暇などは与えられず、攻撃は続けられる。

 非常灯の赤い光の中、深層部へ向かう方向の隔壁が閉じ始める。退助は全力疾走で辛うじて隔壁の向こう側へと転がり込む。そこへ、天井から伸びた銃身から、再びの機銃掃射が襲いかかる。彼は受け身をとりつつ、銃身の位置を把握し、短機関銃の全自動射撃でそれを破壊した。通路そのものが、退助に牙を剥く。

 もはや実験棟全体が、御影の意思そのものになっていた。

『キミ、ホントに頑丈だね。』

通信機越しに、御影が小さく笑う。

『普通なら、もう動けなくなってる頃だよ?』

「…抜かせ。」

 そう毒づきながらも、退助の額からは血が流れ、脇腹の傷も開き始めていた。それでも、彼は止まる訳にはいかなかった。最深部には、太一が居る。湊と澪も。だから退助は、赤い非常灯の下を、再び走り出す。

 一秒でも早く、その場所へと辿り着く為に。 


6.


「ノクティル、血中濃度安定。」

「システムへの接続、確認。」

「人格領域へのダイブ…準備完了です。」

 実験棟最深部へと同行した、宇宙開発機構の医療スタッフが湊と澪を、太一の内側へと導く為の手順を進めていく。

「津崎さん、榊さん、後はあなた方にお任せするしか無い。」

ヘッドギアを装着し、処置台に横たわる太一の側に設置されたシートに、深く身を預けながら、湊は頷く。

「任せてください。」

澪は、優しい笑みを浮かべながら、言葉を続ける。

「後は宜しく頼みます。」

「それでは、始めます。」

 スタッフの言葉に、二人はヘッドギアのバイザーを下ろし、現実世界での視覚を閉ざす。

「人格領域へのダイブを開始します。」

電子音が淡々と響く。

 ヘッドギア越しに流れ込むノイズ。視界が白く明滅し、身体の感覚の境界が曖昧になっていく…そして。

 湊は、自分が「立っている」事に気づいた。風の音がする。

「…ここは?」

隣では、澪も周囲を見渡している。そこは夕暮れの駅だった。

 人気の無い古びた駅舎、赤錆びた線路、止まったままの時計、ホームのベンチには誰も居ない。だが、空だけが不自然だった。

 夕焼けと夜空が、途中で裂ける様に混ざっている。現実と別の何かが、無理矢理に繋ぎ合わされている、異様な空。

 澪が低く呟く。

「…人格の境界領域。」

湊は眉を顰める。

「太一さんの…記憶?」

「うん。」

「おそらく、元の人格が最も安定していた、時代や場所。」

澪はそう言いながら、駅舎の奥へ目を向けた。その瞬間だった。

 構内にアナウンスが流れる。

『…次の列車が参ります…。』

ノイズ混じりの音声、だが。線路の向こうから聞こえてくる音は、列車の走行音では無い。

ガリ、

ガリ、

ガリ、

と、何か巨大な物が、金属を引きずっている音。

 湊の顔から、笑みが消える。

「俺たち…歓迎されて無いみたいだな。」

澪は静かに答える。

「当然だよ。」

「今の太一さんは、おそらく…誰も中に入れたく無い筈だから。」


7.


 風の匂いがした。潮の香り。気が付けば、湊たちは駅舎の外に立っていた。

木造の古い駅。黒い瓦屋根。白い壁。柱には旧字体の駅名標、空は薄曇りだった。遠くで汽笛が鳴る。ホームへと視線を向けた湊と澪は、思わず息を呑む。

 そこには、二人の男が居た。一人は上着を小脇に抱えながら、にこやかに手拭いで汗を拭き、もう一人は帽子を被り、少し不機嫌そうに腕時計を覗き込んでいる。

 今よりも少しだけ、歳を取った印象だが、それは間違いなく太一と退助だった。今とは違う服装、昭和初期の洋装。けれど、立ち姿も、視線も、声も、確かに二人だった。

「これは二人の…前世…なのか?」

湊が小さく呟く。澪は否定しない。

「…恐らく。」

「人格の深層に残った、極めて強固な記憶だ。」

 ホームに立つ退助が、腕時計を見ながら言う。

「太一、汽車が来るぞ!」

「分かっとる、そう急かすな。」

ぶっきらぼうに返しながらも、太一の声は少し笑っている。

 その瞬間、湊は気付く。この空間には、さっきまであった歪みが少ない。空が安定している。風景が崩れていない。この記憶だけが、辛うじて太一を繋ぎ止めている事に。

 澪も同じ事を理解したのだろう、静かに言う。

「ここが…核…だね。」


8.


 ホームで、ゆっくりとした足音が響く。カツ、カツ、カツと。湊と澪が同時に振り向く。駅舎の影から現れた人影。それは、八木太一だった。いや、太一の姿を借りた何か。

 白い開襟シャツ、亜麻色のスラックス。昭和初期の旅装束に合わせるかの様な姿。不自然な程、整っている。

 乱れが無い、傷も無い、表情も穏やかだった。

「ようこそ。」

太一が微笑む。

「君たちに、人の頭の中を覗く趣味があったとは、知らなかったな。」

湊は眉を顰める。

「……アンタ、誰だ?」

太一は少しだけ首を傾げた。

「誰…か。」

そして笑いながら言う。

「難しい質問だな。俺は八木太一の記憶で出来ている。」

「なら、俺は太一だろ?」

澪の目が鋭くなる。

「違う。」

 太一は気を悪くした様子も無く、小さく肩を竦める。

「お前が榊澪か?初対面の相手にも、手厳しい事だな。」

湊にとってはその口調が、太一そのものに感じられた。だからこそ、不気味だった。彼は目の前の太一に、低く問う。

「…退助さんにも、こうやったんですね?」

太一は否定しない。

「中島退助は、分かりやすい男だ。情で動く。だから記憶を見せれば止まる。」

 その瞬間、背後で前世の退助が、車内で駅弁を広げながら、笑う声が聞こえる。

『おい太一、泳いだ後は縁日にでも行くか?ラヂオ焼きに、一銭洋食。二人で一杯やるのが楽しみだ。』

『全くお前は…食ってばかりだな。腹壊しても知らんぞ。』

記憶の中の太一が、少し呆れた微笑みを返している。

 書き換えられた人格は、その光景を眺めながら静かに言う。

「この辺りの記憶は、特に強固だった。消すより利用した方が、効率的だったんだ。」

湊の顔から、笑みが消える。

「……貴様ぁ。」

だが太一は、感情も無く続ける。

「安心しろ。本人は、まだここに居る。」

そう言って、駅の奥を指差す。

 そこには、暗い改札口があった。光が届かない。まるで、そこの見えない穴の様に。

「だが、もう長くは保たない。」

太一の笑みに、少しだけ悪意が混ざる。

「お前たちは、間に合うと思うか?」


9.


 湊は歯を食いしばりながら、目の前の太一を睨んでいた。

「アンタは太一さんじゃない、何度言えば分かる!」

だが、そこに居る太一は、静かに笑うだけだった。

「なら訊くが。俺を消して、その後はどうする?」

その声は穏やかだった。怒りも、焦りも無い。

「八木太一を戻す?本当に?」

湊の眉間に皺が寄る。

 太一は、駅のホームを見渡しながら続ける。

「俺は天梯の破壊工作に加担した。」

「何万人もの人生を狂わせた。」

「大勢、人も死んだ。」

「退助を惑わせ、彼に傷を負わせた。」

 夕暮れの空が、ゆっくりと軋む。遠くで、金属の崩れる音がする。

「たとえ洗脳され、従わされていたとしても、そこに至る悪事に、関わったのは俺だ。」

 その瞬間、ホームに立っていた、前世の太一の姿が一瞬だけ揺らぐ。澪が息を呑む。人格領域そのものが、崩れ始めていた。

「…自己否定。」

澪が低く呟く。

「違う、自己認識だ。」

 そして初めてその顔に、感情を滲ませる。

「戻って、どうする?また退助に、大丈夫だって、顔をさせるのか?」

湊の顔が、険しさを増す。

「退助さんは、そんな事……。」

「する。」

その言葉は、一切の迷いの感情を含まない、断言だった。

「アイツはそういう奴だ。」

だから、湊は言葉を失う。太一は続ける。

「彼はこのまま、俺の奥深くで眠り続ければ良い。」

「この人格のままなら八木太一は、御影様の人形として終われる。」

 その時駅の時計が、ガコン、と音を立てて逆回転を始める。景色が軋む。空が暗く染まっていく。人格の崩壊が、加速していた。澪が険しい声で言う。

「まずい…。罪悪感そのものが、人格再固定の核になってる。」


10.


 実験棟の通路に、激しい銃声が響く。退助は床を滑りながら、空気を裂き飛来する銃弾を避けた。脇腹の傷が開き、戦闘服の中に血が滲む。

「つっ…!」

 だが彼は止まらない。曲がり角の向こう、最深部へと続く通路。その先に、太一が居る。

『退助くん。』

通信機から、御影の声が流れる。

『もう間に合わないよ。』

「黙れ!!」

退助は怒鳴り返し、息を切らせながらも、短機関銃からの正確な射撃を、ドローンへと叩き込む。火花が散り、爆発が起こる。

 だが次の瞬間には、別方向からの機銃掃射が、彼を襲う。天井から現れた銃身を射撃で破壊しつつ、受け身を取りながら転がり、銃弾を寸前のところで躱す。

 残弾の尽きた短機関銃を捨て、得物を拳銃に持ち替えながら、退助は更に前へと進む。

「太一を…!」

よろけながらも血に濡れた手で、壁を掴む。

「もう…!」

呼吸は乱れ、視界が揺れる。それでも。

「もう、二度と奪われてたまるか!!」


11.


 その瞬間、駅のホームに風が吹いた。湊が顔を上げる。

「…何だ?」

止まっていた時計が、僅かに動く。遠くで波の音が聞こえ、澪の目が見開かれる。

「外部同期……?」

そして、太一が初めて反応する。書き換えられた人格では無い、ホームの奥。改札の闇の向こうから、微かに声が聞こえる。

『……退助…。』

湊が息を呑む。

 次の瞬間、景色が激しく軋む。書き換えられた太一の人格の笑みが、初めて崩れた。

「…何故だ?」

澪が理解する。

「退助さんの感情が…人格領域に干渉している。」

駅舎の壁が軋み始める。夕空が割れる。そして、改札の向こうから、一人の男が現れる。

 傷だらけの裸体を晒し、虚で苦しみの表情を浮かべてはいるが、その目だけは、まだ死んではいない。

 本来の、八木太一だった。


12.


 退助は隔壁の脇へと滑り込み、荒い呼吸を繰り返していた。汗と血が、視界へと流れ込み、拳銃を握る右手は、既に痺れ始めていた。だが、まだ止まれない。最深部まで、あと少し。

 その時だった。突然、視界が揺らいだ。

「……っ?」

頭の中へ、何かが流れ込んでくる。

ノイズ。

悲鳴。

崩落音。

そして、見知らぬ記憶。

 燃えている巨大建造物が、崩れ落ちていく。赤い警告灯、泣き叫ぶ声、逃げ惑う人々。その中心に、太一が立っていた。

 彼の手は、端末を操作している。否、操作させられている。止めようとしている。だが、身体が止まらない。指が動く、システムが起動する。

 天梯が、崩れ落ちる。

『やめろ…!』

太一の声が、絶望に震える。

『やめてくれ!!』

 だが、止まらない。世界が壊れていく。人が死ぬ。その光景を、太一は全部見ている。逃げられない。目を閉じることすら叶わない。そして最後に真っ黒な海へと、巨大な残骸が落下していく。

 太一は、壊れた様に呟く。

『俺が…俺が、やった。』


13.


 「うぅ…。」

退助は現実へと引き戻され、床に片膝をつく。呼吸が乱れる。

「はぁ…っ…!」

通信機の向こうで、御影が小さく笑う。

『届いたみたいだね。』

退助の目が見開かれる。

『太一くんの記憶。彼、ずっと壊れそうなんだよ。』

「…てめぇ。」

退助の声は、唸る猛獣の様に低くなる。

 だが御影は、どこか不思議そうに続ける。

『なのに、まだ踏みとどまってる。スゴいよねぇ、さっさと壊れちゃえば良いのに。』


14.


 崩れかけた駅舎、軋むホーム。夕空が裂け、世界そのものが壊れ始めている。太一本来の人格は、改札の前で立ち尽くしていた。顔色は青白く、目には深い絶望が宿っている。

「…無理だ。」

声は掠れていた。

「俺は…もう戻っちゃいけない。」

湊が何か言おうとする…言おうとするが、言葉が見つからない。

 だがその瞬間。人格領域全体へ、凄まじい感情の奔流が押し寄せてきた。

怒り。

焦燥。

悲しみ。

寂しさ。

そして、どうしようも無い程の、懸命さ。駅の窓ガラスが震え、止まっていた時計が、激しく逆回転を始める。書き換えられた太一の人格。その表情が歪む。

「…またか?」

 そして、退助の声が届いた。

『全く、バカだお前は!!』

太一の目が見開かれる

『そんな事で、自分を責めやがって!!』

声だけでは無い、感情そのものが、流れ込んでくる。全身傷だらけで、血まみれで、ボロボロになりながら、それでも退助は叫んでいる。

『俺はお前が欲しい!!』

世界が揺れる、ホームの床が砕けていく。

 書き換えられた、太一の人格が、初めて苦しげに眉を顰めた。

『お前じゃなきゃ、ダメなんだ!!』

本来の太一の人格が震える。

『戻って来い!太一!!』

 その瞬間太一の脳裏に、あの日の海が蘇る。潮風、笑い声、海へ向かう汽車、退助の背中。世界が壊れる前の、穏やかな時間。

 そして最後に、退助の声が響く。

『俺がお前を許す!!』


15.


 退助の叫びが届いた後も、駅の崩壊は止まらなかった。空が裂ける。ホームが軋む。海鳴りの様なノイズが、世界そのものを揺らしている。

 太一本来の人格は立ち尽くしたまま、震える拳を握り締めていた。

「…退助。」

その声は、今にも消えそうだった。だが、もう先ほどまでの虚さは無い。

 書き換えられた太一の人格が、静かに彼を見つめている。

「…聞こえただろ?」

本来の太一は、ゆっくり顔を上げた。

「ああ。」

返答は短かったが、その目には確かな意志が、戻っていた。

「俺は、全部覚えてる。」

天梯の破壊工作に加担した事、自らの手で傷付けた人々。退助へ向けた刃。その全てを忘れていない。消えていない。

 太一は苦しげに息を吐く。

「…多分、一生消えない。」

その言葉に、湊が何か言いかける。だが太一は、静かに首を振った。

「でも、それでも。」

 そして、彼は初めて自分の足で、前へ進む。

「アイツが…退助が戻れって、言うなら。」

崩れゆくホームの中で、太一は真っ直ぐ前を見据える。

「俺は、戻る。」

 その瞬間だった、書き換えられた太一の人格が、静かに揺らぎ始める。湊が息を呑む。だが、彼は抵抗しなかった。

 ただ、少し困った様に笑う。

「……敵わないな。」

その顔は、どこか寂しそうだった。

「結局、八木太一の芯は、中島退助で出来てる…そして、それは恐らく彼も…。」

その言葉の途中で、書き換えられた太一の人格は、静かな光へと崩れていく。憎悪も、断末魔も無い。ただ、役目を終えたかの様に。

 最後に、消えかけたその声が、小さく呟く。

「……後は、任せた。」


16.


 洗脳解除システムが設置されている、実験棟最深部へと続く通路は、不気味に静まり返っていた。退助は壁に手を付きながら、荒い呼吸を繰り返す。脇腹から流れ出た血が、既に戦闘服を黒く濡らしている。拳銃を握る手も痺れ、視界は霞み始めていた。

 だが、それでも彼は前を見た。その先に有る、最終隔壁。重厚な金属扉の前には、直掩部隊の隊員たちが倒れている。床に飛び散った血痕に、散乱した薬莢。破壊された短機関銃。

 奇妙な事に、激しい戦闘の痕跡は少ない。まるで、一瞬で壊滅させられたかの様な印象を、彼に与えた。

「…一体何が?」

退助の背筋を、冷たい汗が流れ落ちる。御影か?いや、違う。何かが引っかかる。だが、疲弊し切った今の彼の頭では、その違和感の正体にまで、辿り着く事が出来ない。

「ここがロックされている限りは、外からはおいそれと侵入を許す事は、無いはずだが…。」

 不安に駆られた退助は、つい隔壁脇の生体認証装置に、手をかざしてしまう。

『生体認証確認。』

『中島退助。』

『最終隔壁、解錠します。』

重い駆動音が響き、巨大な隔壁が左右へ開き始める。

「そうするしか、無いよねぇ。」

耳元で、声がした。

「なにっ!」

 その一瞬の隙を突いて、暗がりから飛び出した影が、開き切る前の隔壁の中へと滑り込む。

「御影っ!貴様!!」

退助も即座に隔壁内へと飛び込み、御影に向けて銃を構える。

「この時を待っていたよ、退助くん。」

退助も、もはや躊躇する事なく、引き金を引く。最深部に、乾いた発砲音が鳴り響き、驚いた医療スタッフたちは、悲鳴を上げながらその場へとしゃがみ込む。

 だが御影は紙一重でその正確な射撃から身を躱し、逆に床を蹴って距離を詰める。速い、異常な程に。

 退助は咄嗟に銃を手放し、組み付く様に御影へと飛び込んだ。二人の身体は、縺れ合いながら、床に転がる。

「ぐっ!」

 脇腹の傷が裂ける、それでも退助は離さない。御影の腕を捻り上げ、遂にその身体を抑え込む。

「御影…もう終わりにしようや…!」

だが、その状況でも御影は不敵な笑みを浮かべ、退助に囁く。

「ふふ…詰めが甘いよ、た・い・す・け・くん。」

 その瞬間、背後で気配が動いた。

「…っ!」

退助の目が、驚きに見開かれる。血に濡れたナイフを構えた影が、音も無く背後へ走り寄っていた。

「冬馬か!」

避けられない。そう覚悟したその時。

 突然現れたもう一つの影が、冬馬へと飛びかかり、その身体が投げ飛ばされ、受け身を取る事も許されず、固い床に叩きつけられる。そしてその手から離れたナイフが、甲高い音を立て床に転がる。その影の正体は…。

「……太一?」

洗脳解除システムから目覚めたばかりの、八木太一だった。

 呼吸は乱れ、まだ無数の電極が付けられたまま、申し訳程度のT字帯一枚の姿で、退助の前に立っていた。退助の目が揺れる。

「お前…。」

 システムから戻ったばかりの太一は、激しく体力を消耗している様子で、その場で息を切らしながら、苦しげに膝を付く。だが彼の目にはもう、虚な光は無かった。苦痛も、罪も、迷いも、全部抱えたまま。それでも確かに、以前の「八木太一」の目だった。

「…待たせたな、退助。」

 次の瞬間。その後方で、撃鉄を起こす音が響く。

「御影、そこで終わりだ。」

組み伏せられたままの御影が視線を移したその先には、拳銃を構えた湊が立っていた。その隣では、澪がコンソールに片手を置いている。

「この最深部に、君の干渉は及ばない。ここだけは、絶対に渡さない様に組んである。」

澪が静かにそう告げる。

 御影の瞳が、僅かに揺れた。モニターは反応しない、ドローンも動かない。照明も、隔壁も、実験棟の全てのシステムが、もう彼に応えてはいなかった。

「…そっか。」

そして、どこか寂しそうに笑った。

「負けちゃったか。」

 その時、最深部入口側の隔壁が、爆発音と共に吹き飛ぶ。

「御影様っ!」

原生圏の残存部隊が押し入って、一斉掃射を掛けて来た。

「伏せろ!!」

湊が叫び、同時に側の端末へと手をかざし、自らの意識を最深部のシステムへと、繋ぐ。その場の照明が激しく明滅し、天井の自動防衛銃座が起動し、侵入部隊へ火線を浴びせた。

 医療スタッフからは悲鳴が上がり、室内の至る所では火花が散り、小さな爆発が起こる。そして湊の顔に、苦悶の表情が浮かぶ。

「っ…長くは持たない!」

人格領域から戻った直後の彼に、過重な負担が掛かっている。

 その隙を突くかの様に、煙幕弾が炸裂し、視界が白く染まる。

「退助くん。」

煙の向こうから、御影の声が聞こえてくる。

「残念だけど、太一くんは一旦キミに預けておくよ。」  

「待て!!」

退助が叫び、御影に追い縋ろうとする。だが限界を超え酷使された身体は、その持ち主の意思を見事に裏切った。

 冬馬が、御影の側に、静かに寄り添う。虚な目、だがその視線が一瞬、太一へと向けられた。太一は、その視線に気づく。

「冬馬…。」

 原生圏の戦闘員たちが、二人を庇う様に後退し、非常隔壁が閉鎖される。最後に、御影の声だけが残った。

「借りは、必ず返してあげる。」

重い閉鎖音の後に、最深部には静寂が戻る。その後に残されたのは、硝煙の匂いと破壊された最深部そして…。

 互いを抱き留め合う様に倒れ込む、退助と太一の姿だった。


 はい、ご無沙汰しております。中の人です。当初は、今回で最終回の予定だったワケですが、ちょっと予想以上のボリュームになってしまったので、今回はここ迄とさせていただきました。

 なんとか、太一さんを退助の所へ還してあげられたかなと、胸を撫で下ろしておりますw。次回は、エピローグ的な静かなお話で、この二人の冒険を一旦、締めようかなと考えております。もう少しだけ、駄文にお付き合い下さると、嬉しいです。

 太一さん、よく頑張ったねぇ。


 ありがとうございました。

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