第四話 迷い子たちの境界
旧実験棟での一件の後、湊の胸の中には、日毎に大きくなる想いと、固まりつつある決意があった。彼はその想いを吐露し、決意を固める為に、とある場所を訪れていた。
1.
海沿いの墓地には、風の音だけが鳴っていた。宗像航 の名が刻まれた墓標の前に、津崎湊は一人で立っている。手向けた花が、かすかに揺れていた。
「……久しぶりだな、航。」
返事があるはずもないのに、声は自然とこぼれた。あれから、どれくらい経ったのか。時間の感覚が、曖昧になっている。
退助の姿を、ずっと見ているせいだ。壊されてしまった太一を、懸命に追い続ける、あの背中を。
「お前が、命を投げうってでも退助さんを、守りたかった気持ち……今なら俺にも分かるよ。」
口元に、苦い笑いが浮かぶ。
「全く……退助さんには、太一さんが居るってのにな。」
それでも日毎に、彼の胸の奥で膨らんでいく感情は、自分でも抑えきれない程の物になっていた。
理屈じゃない。
「ロジックじゃないんだよな……人の心は。」
墓標に視線を落とす。
あの頃…もし、あの時の自分に、退助のような存在が居たなら。少しは、違う人生なっていたのだろうかと、湊はついそんなことを考えてしまう。
「……なあ、航。」
しばらく黙ったまま、湊は風の音を聞いていた。そして、小さく息を吐く。
「俺、動くよ。」
その声は、決意に満ちていた。
「もう、見てるだけは…やめる。」
湊の目に、迷いはなかった。
その時、背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこには花束を手にした強面の男が立っていた。
「なんだ、お前も来てたのか?」
「退助さんこそ。」
退助も航の墓に花を供え、墓前に腰を落とし静かに手を合わせる。目を閉じた横顔には、いつもより少しだけ、穏やかな表情が浮かんでいた。
「昔の日本じゃ、四十九日って言ってな。あの世へ行った者が、仏さんになる日だ。」
「憶えててくれたんですか?」
短い沈黙の後、退助は目を開け、腰を上げた。
「何言ってんだ、当たり前だろ。」
「湊は、航と何話してたんだ?」
湊は少しだけ笑った。
「へへ……退助さんの、悪口です。」
「なんだと、こいつめ!」
そう言いつつ、退助は湊の肩を抱きながら、頭をガシガシと撫でた。その手つきが、やけに優しく感じられて、湊は何も言えなくなる。風が吹き、花が揺れた。
二人が去った後、航の墓前には、それまでと変わらぬ静けさが戻っていた。
2.
墓参りを終えた退助と湊は、その足で宇宙開発機構・保安部へと出勤した。保安部フロアには、いつも通り慌ただしい空気が流れている。各部署から飛び交う報告音声。壁面モニターに映し出される軌道情報と警戒宙域図。誰もが自分の任務に追われ、二人に特別な視線を向ける者は居ない。
だが、部屋へ入って間もなく、端末に着信音が鳴った。
「……鷹宮部長?」
通知を確認した湊が、小さく目を瞬かせる。
「退助さん、呼び出しです。」
「二人とも、か?」
「はい。」
退助は短く息を吐くと、無言のままデスクから立ち上がった。部長執務室前まで来ると、自動ドアが静かに左右へ開く。
「失礼します。」
二人が中へ入ると、鷹宮はデスク越しにこちらを見ていた。だが、いつものようにすぐ言葉は返って来ない。重い沈黙だけが、部屋を満たしている。退助は黙って立ち尽くし、湊もまた、その空気の変化を感じ取っていた。
やがて鷹宮は、机上に置かれていた端末を閉じる。
「単刀直入に言う。」
低い声だった。
「中島退助、津崎湊。」
「これより、お前たち二人を、八木太一奪還任務専従調査員として任命する。」
一瞬、湊は言葉の意味を理解出来なかった。
「……専従?」
先に反応したのは退助だった。
「ああ。他の任務からは外れる。必要な権限、装備、人員協力については、こちらで可能な限り融通する。」
退助は、わずかに目を細める。
「随分と思い切った判断ですね?」
「そうでもない。」
鷹宮は淡々と答えた。
だが、その表情には、どこか疲労にも似た影が落ちている。
「……旧実験棟での、八木太一を見た。」
その一言で、部屋の空気が変わった。退助も湊も、黙ったまま鷹宮を見つめる。
「木星圏の英雄が、あんな姿で繋がれている。」
鷹宮はそこで言葉を切った。その光景が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。
拘束台の上で、丸裸に剥かれた姿で繋がれ、虚ろな目をしていた太一。感情を削がれ、人格を塗り潰され、それでもなお、利用され続ける存在へと堕とされた、木星圏の英雄。
「……あれを、宇宙開発機構が見過ごしたとなれば、それこそ、末代まで物笑いの種だ。」
皮肉めいた口調だった。だが、その奥にある感情は、退助にも伝わっていた。しばしの沈黙が、3人を包む。
やがて退助は、静かに頭を下げる。
「了解しました。」
湊も続いて敬礼した。
「必ず、連れ戻します。」
鷹宮は小さく頷く。
「下がって良い。」
二人は踵を返し、執務室を後にしようとする。その時だった。
「中島。」
呼び止められ、退助だけが振り返る。鷹宮は椅子に深く腰掛けたまま、窓の外へと視線を向けていた。
「……彼を助け出してやってくれ…あの地獄から…。」
ほんの僅か。それは、部長としてではなく、一人の人間として漏れた声だった。退助は一瞬だけ目を伏せる。
「……はい。」
短く答えると、二人はそのまま、部屋を後にした。
3.
保安部による原生圏の捜索は、確実に成果を上げていた。点在する洗脳処置施設は数箇所が摘発され、処置の途中にあった者たちも保護されている。高槻を初めとして、太一の拉致に関わったと見られる内通者の姿も、その中に在った。
だが、保護された人間たちを、元の人格に戻す術は、未だ見つかってはいなかった。情報は得られない。証言も取れない。 ただ、空白の心を宿したまま、生きている人間が増えていくだけだった。
退助と湊も、この捜索の中での成果を上げ続けてはいたが、太一の行方も、原生圏本部の位置も依然として掴めないまま、捜査は行き詰まりを見せている。その現実を、湊は誰よりも重く受け止めていた。
自分だけが知っていることがある。自分にしか出来ないことが、あるかもしれない。まだ言葉にはならない。けれど、その思いだけが、静かに、確実に、湊の中で形を取り始めていた。
その日湊は一人で、港湾区の外れにある、古い集合住宅の前に立っていた。潮風に晒された外壁は白く褪せ、共用廊下の手すりには薄く錆が浮いている。
住人のほとんどは、仕事の為に出払っているのか、人気は無い。昼下がりだと言うのに、周辺一帯は、息を潜めているかの様な、静けさに包まれていた。
湊は階段を登りながら、小さく息を整えた。ドアチャイムの前でしばし迷い、意を決した様に、ボタンを押す。
程なくして、ドアの内側から足音が聞こえる。ドアが開き、現れた男は、湊の顔を見るなり、目を見開いた。
「……みな…と?」
「久しぶり、澪。」
榊澪は昔と変わら無い、繊細に整った顔立ちと、涼しげな目をしていた。だが、その瞳の奥には、明らかな緊張と恐怖が宿っていた。
「ちょっと、良いか?」
「ちょ、止めろよ、出ていってくれ!」
その制止しようとする口調に、違和感を覚えた湊は澪を押しのける様にして、部屋に入る。質素な室内には、端末と書類の山、生活感は薄い。
湊は警戒を解かずに、澪を自分の背後に置きつつ、腰の銃に手をかけながら、室内を見渡す。その時だった。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。」
どこかで聞き覚えの有る声が、部屋の奥から響いた。だが、その声の中に込められた殺気に、湊の背筋が凍る。
視線を向けると、窓際に二人の男が立っていた。いつから居たのか分からない。気配すら無かった。一人は眼鏡をかけ、整ったスーツ姿。静かな目でこちらを見ている。もう一人は、無表情のまま壁に寄り、二人は湊に短機関銃を向けていた。
「…九条……鷺沢?」
湊が低く呟く。九条と呼ばれた眼鏡の男が、湊と澪に冷たい視線をむける。
「二人にはここで消えてもらう。」
4.
湊が単独で外出許可を申請したのは、午前中の勤務時間が終わる前の事だった。珍しい事では無い。だが、その申請理由の書き方が、退助の目に引っかかった。
―私用-
それだけだった。
端末に残る閲覧ログも、ここ数日分が不自然に整理されている。消しているわけではない。だが、おそらくは、退助には見られたく無いであろう部分だけが、きれいに抜け落ちている。
(こいつ……)
退助は何も言わず、自分の端末を開いた。湊の行動ログ、外出経路、申請時刻、交通系記録。点と点を繋いでいく。やがて、ひとつの場所に行き着いた。
ー港湾区・居住区画ー
「なんで、こんな所に……?」
呟くと同時に、退助は席を立っていた。問い詰めるためではない。止めるためだ。思い返せば湊の顔が、ここ数日ずっと、何かを決めた人間のそれに変わっていた。人があの顔で動く時、理由は大抵、ロクな事ではないと相場は決まっている。
湊を追い、海沿いへと車を走らせる退助の胸の中には、木星への探査行、帰路のトラブル時に、自分を犠牲にして退助だけを、地球へと還そうとしていた太一の顔が、浮かんでいた。
車を港湾区に乗りつけた退助は、足早に居住区へと向かう。
「場所はこの辺りの筈だ。」
胸の奥で、嫌な予感だけが膨らんでいく。その時だった。
乾いた破裂音が、空気を震わせた。退助はその音に向かい弾かれる様に、全力で走り出した。
5.
「二人にはここで消えてもらう。」
「は……?」
湊の声がかすれる。彼は四人の位置関係を把握した。出口と澪の身体は自分の背後、窓側に、銃を構える九条と鷺沢。
「理由を訊いても?」
澪を逃す隙を作らなくてはならない。と、湊はワザとらしく尋ねる。
「八木太一の奪還には、二人の能力が必要になるだろうからね。」
その一言に、湊の背筋に冷たいものが走る。
「まさか二人共……、原生圏に?」
「理解が早くて助かる。」
壁に無表情のまま靠れていた鷺沢が、初めて口を開いた。
「君らが、この件にどう関わるのか、少し見てみたかったけど…御前からの命令でね。」
湊は、澪を背中に庇いながら時間を稼ぎ、少しづつ後退りをしていた。そして叫ぶ。
「澪、逃げろ!」
「湊、一体何が…?」
その瞬間、室内に乾いた破裂音が響き、会話はそこで打ち切られた。
銃弾が壁を砕き、粉塵が舞う。湊は澪を床に押し倒し、そのままテーブルを蹴り上げて、目眩しにする。
腰のホルスターから銃を抜き、応射する。港湾区の静かな一画は、一瞬で戦場に変わった。
「九条!仕留めろ!!」
無表情な鷺沢の声。
「君が観察したいなんて言うから、こうなる!鷺沢!!」
そのやり取りが、銃声の合間に差し込まれる。
(九条……鷺沢…)
湊と澪の脳裏に、あの頃の記憶が蘇る。
残弾が尽きかけ、遮蔽物が砕けていく。澪の息が荒い。
(まずい…押し切られる)
その時、部屋の外から足音が響いた。次の瞬間、銃声と共にドアが蹴破られる。男が一人、部屋に飛び込みながら、更に三連射を2回放ち、窓側の二人に銃弾を浴びせる。
九条の肩口が弾け、体勢が崩れた。
「…遅くなったな、湊。」
聞き覚えのある、低い声。振り返った湊の視界に、男の姿が飛び込む。
「退助さん!」
部屋に飛び込んだ退助は、状況を一瞬で把握していた。見知らぬ男性を庇う湊。居住区画には似つかわしく無い、重武装をした二人の男。
「下がってろ!」
鋭い射撃で九条と鷺沢を、窓際へ追い込みながら、流れる様な手捌きで弾倉を交換し、退助は二人を牽制し続ける。
鷺沢が舌打ちする。
「チッ!新手か。」
九条は出血する肩を押さえながら、退助を見据えた。
「お前が、中島退助か…。」
退助は、名も知らぬ二人を睨み返す。
「何者だ?お前ら。」
二人からの返答は無い。
鷺沢が窓を蹴破り、外へ飛ぶ。
「九条、退くよ。」
九条も続く直前、退助を睨み返した。
「この借りは、必ず返す。」
二人の姿は、窓の外へと消える。
室内に、硝煙の匂いだけが残った。退助は銃を、腰のホルスターへと戻しながら、湊を見る。
「無事か?」
湊は息を整えながら、頷いた。
退助の視線が、初めて澪へと向く。
「……誰だ?この人は。」
湊は、ようやく決意を固めた顔で言う。
「退助さん、紹介します。」
「彼が、榊澪です。」
6.
鷹宮が居る部長執務室は、いつもと変わらず静かだった。だが、その静けさが、先程まで銃声の中に居た三人には、却って現実味を失わさせる。
「失礼します。」
退助を先頭に、湊と澪が中へ入る。鷹宮はデスク越しに三人を見たが、すぐには口を開かなかった。その視線だけが、澪の前で止まる。
「…まぁ座れ。」
短い指示に従い、三人は向かい合う形で腰を下ろす。退助は、部屋に漂う空気の重さを感じ取っていた。
「報告を聞こうか?」
退助が口を開く。
「港湾区居住区画にて、武装した二名の男と交戦。彼らは、今回津崎が接触した榊氏宅を、榊氏殺害目的で訪れていた模様。交戦の後、二名は窓から逃走。」
鷹宮は更に尋ねる。
「特徴は?」
「一人は眼鏡をかけたスーツ姿。もう一人は無表情で、終始無言に近い。互いを、九条、鷺沢と、呼び合っていました。」
その名前が出た瞬間、鷹宮の視線が、わずかに険しくなる。
「…やはり動いたか。」
小さく揺れたその言葉に、退助の眉が動く。
「ご存じなんですか?」
鷹宮は答えない。代わりに、視線を湊へ向ける。
「津崎。」
その声は低く、静かだった。
「お前がこの件を、自分の口から話す日が来ない事を、願っていた。」
退助が、ゆっくりと湊を見る。澪は俯いたまま、何も言わない。
「部長…。」
湊の声が、僅かに震える。
「彼を…澪を巻き込むつもりは、ありませんでした。」
「分かっている。」
鷹宮は即答した。
「だから、これまで触れなかった。」
部屋は、再び静けさに包まれる。
退助だけが、何も分からないまま、そのやり取りを観ている。
「……説明してもらえますか?」
低い声だった。
「榊澪、久しぶりだな。」
澪の肩が、わずかに跳ねた。
「……憶えて、いらしたんですね。」
「忘れるはずがない。」
鷹宮は端末を開き、古いデータを呼び出す。画面に表示された情報を、退助は横目に観る。そこに並んだ名前…。
・津崎
・榊
・九条
・鷺沢
退助の視線が止まる。
「……面識があるのか?」
「この四人は、かつて同じ案件に関わっていた。」
「表に出る事の無い、極秘研究だ。」
退助の胸の奥が、ざわつく。
「そして、その内容は…。」
鷹宮は言葉を区切る。
「八木太一に施された、洗脳と人格再固定の、原型となり得る物だ。」
室内の空気が、一瞬で変わり、退助の目が、驚きで見開かれる。
「……何だって?」
湊が、ゆっくりと顔を上げる。
「俺たちは…あの処置の、最初期の実験対象でした。」
澪が続ける。
「九条は理論担当で、鷺沢は観察記録。湊と俺は…被験者として。」
退助は、衝撃に言葉を失う。
「だから奴らは、榊を餌に津崎を誘い込み、二人を纏めて消そうとした。」
鷹宮が、言葉を繋ぐ。
「榊澪と津崎湊は、あの処置の綻びを知っている、数少ない生き残りだからだ。」
湊が、退助の手を握りながら、語りかける。
「太一さんを助け出す手掛かりは…あります。」
退助が、ハッと湊を見る。
「お前……。」
湊は、退助の目を見ながら、言葉を続ける。
「俺たちにしか、分からない方法が、あるかもしれません。」
その目に、迷いは無い。鷹宮は静かに言った。
「この件の存在が発端となって、津崎は保安部へと身を置かれる事に決まった。」
退助が、鷹宮を観る。
「最初から…?」
「ああ。」
迷いの無い肯定だった。
「いずれ、必要になる日が来ると思っていた。だが、そんな日が来ることを、決して望んでは居なかった。」
静寂が、四人を包む。
鷹宮は、三人を見渡す。
「八木太一奪還の任に、榊澪氏を正式に、協力者として迎え入れる。」
そして湊に視線を戻す。
「津崎。もう、隠さなくて良い。」
退助はゆっくりと、安堵の息を吐いた。ようやく繋がった。なぜ湊が、ここまで必死なのか。なぜ九条と鷺沢が動いたのか。なぜ鷹宮が、何も問わなかったのか。
彼の頭の中で、全てが一本の線になる。退助は、そっと湊の肩に手を置いた。
「……よく、話してくれたな。」
退助の目は。問い詰めるものでは無く、ただ真っ直ぐに湊を見ている。
「辛かっただろう。」
退助に、抱きしめられながら掛けられたその言葉に、湊の喉が詰まる。何かを言おうとして、声にならない。
退助は、いつもと変わらぬ調子で、言葉を続ける。
「もう一人で抱えなくて良い。」
湊は、退助の温もりに包まれ、その厚い胸板に身体を預けながら、小さく頷いた。
「……はい。」
その様子を、黙って見ていた鷹宮が、静かに告げる。
「それでは、反撃を始めようか。」
7.
執務室での話の後、四人の姿は、保安部の地下駐車区画に在った。そこには、鷹宮の指示で、非登録車両が一台、準備されていた。
「公式記録には残さない。」
鷹宮は短く言った。
「榊澪は本日から、保安部の保護下に置く。だが、住居は外部に設ける。」
退助が眉間に皺を寄せる。
「内部に居れば安全でしょう?」
「残念ながら、内通者の件がまだ、完全にクリアになったとは言えない状況だ。」
湊が小さく頷いた。
「原生圏は、俺たちの動きを見てます。」
「だから、セーフハウスを使ってもらう。」
鷹宮は端末を操作し、地図を表示する。
「保安部が、対外的に存在を認めていない、退避区画だ。警備ログにも残らん。」
澪は静かに息を吐いた。
「……そこまで、されるんですね。」
鷹宮の視線は、相変わらず鋭い。
「九条と鷺沢が動いた時点で、事はもう、過去の因縁では済まない。」
退助が言う。
「警護は俺と湊が?」
「そうだ、お前たち以外に任せられる人間が居ない。」
湊が澪を見ながら言う。
「暫く、不便をかける事になる。」
澪はかすかに笑った。
「命があるだけ、ありがたいよ。」
人気のない湾岸区画の一室。外見は、今は使われていない、倉庫の一つにしか見えない。だが内部は違う。通信設備、武器庫、監視網、緊急脱出経路、全てが整えられている。
「ここが、セーフハウス…。」
澪が室内を見回しながら、言葉を続ける。
「中身は意外と、普通の家なんだね。」
退助は窓の外を確認し、湊は持ち込んだ機材を、書斎スペースのデスクに広げる。
「明日から動く。」
退助が言う。
「準備が出来次第、旧実験棟を開けるそうだ。」
澪の動きが止まる。湊も、一瞬だけ目を伏せた。
「あそこに、また入るのか。」
湊は静かに言う。
「太一さんを助ける為なら、入れる。」
退助は二人を見た。そこが、ただの過去の場所ではないことを、もう理解している。
「今日は休め。」
低い声で言った。
「準備は、明日からでいい。」
澪は椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。湊は端末を握ったまま、しばらく動かなかった。やがて、小さく呟く。
「……いよいよだな。」
その夜、セーフハウスの外を、気づかれぬように一台の車が通り過ぎた。停まることなく、ただ一度だけ減速し、建物を確認して去っていく。
まだ、誰もそれに気づかない。
8.
原生圏の本部では、太一に対して、ある準備が行われている。処置室にはX字型の拘束台が設置され、彼はそこに相変わらず、衣服を纏う事すらも許されない、丸裸に剥かれた姿のまま、首から下の体毛を、全て取り除かれた状態で磔にされ、仰向けに寝かされている。その体内の前立腺には外部から電極が取り付けられ、数日間に渡り継続的に、低周波パルスによる刺激が与え続けられている。
太一は、もう時間の感覚を失っていた。どれだけの刺激が与えられているのか、それがどれほど異常なことなのか、頭では理解しているはずなのに、思考が水に沈んだかの様に、もう輪郭を持たない。
その刺激により、彼の一部は当然の様に宙を仰いで反り返り、その滑りを帯びた部分にも、電極が繋がれ、太一の身体は絶頂の間際に留め置かれたまま、快楽に苛まれ続けていた。
「ああ…太一くん…可愛いよ、なんて美しい姿なんだ。」
御影の声だけが、やけに近い。やさしい。穏やかだ。安心する。…安心、してしまう。それが、たまらなく怖い。自分は、こんな状況で、なぜ安堵しているのか。なぜ、この人が来ると、ほっとするのか。
おかしい。絶対に、おかしいのに。身体の反応が、思考を裏切る。やめてくれ、と心のどこかが叫んでいるのに、反り返った自分自身に、その細い指で触れられることを、今か今かと待ち侘びている。
太一は、もう痛みを数えてはいなかった。最初は、これはおかしいことだと、どこかで分かっていたはずなのに。いつからか、その判断をする力が、ゆっくりと削り取られている。御影の手は、いつも優しく自分を弄る。声も、穏やかで、まるで壊れ物を扱うみたいに、自分を気遣う。だから余計に、分からなくなる。
「ほら、こうされると、どんどん、苦しく無くなっていくだろう?」
これは酷いことのはずなのに。なのに、自分は今、反り返った我が身が、御影の手に委ねられる事を、願ってしまっている。触れられる前の、あのわずかな静寂の時間に胸の奥で、期待を高めてしまっている自分がいる。
(ああ、また来てくれた)
嬉しい…と、そう思ってしまう。本当は、来てほしくなど、無いはずなのに。その矛盾が、太一の中で、ゆっくりと何かを削っていく。
「気分はどうだい?太一くん。」
その準備の仕上げの為に、強制的に広げられ固定された、太一の両脚の間に立った御影はそう呟きながら、固くなった太一を細い指で優しく、じっくりと揉みほぐすかの様に、愛でる。
「ん…んん…。」
口腔にねじ込まれた枷のせいで、太一は満足に言葉を発する事が、出来なくされている。優しく、規則的に押し寄せる快楽の波に呑まれ、彼の目は虚になり、身体は痙攣し、口元からはだらしなく、涎が溢れている。
太一の中のどこかが、もう御影に嬲られる事を「救い」に感じてしまっている。それに気づくたびに彼はひどく、自分への嫌悪を感じるが、でも、もうどうしようもない。
自分の中で、とても大切だったはずの存在を、何とか思い出そうとする。声を思い出そうとする。でも、自分自身に、執拗に加えられる愛撫に、彼の記憶はどんどん輪郭を失っていって、代わりに、御影の声がはっきりと、近くにあると感じられる様になる。
「喜んでくれてるみたいで、ボクも嬉しいよ。」
太一の滑りを指先に伸ばしながら、御影は優しく微笑む。
「もっと悦ばせてあげるね。」
御影は太一に、そう優しく囁くと、反り返った彼の先端に頬擦りをした後、そっと口に含み、その中で彼を愛撫した。御影の味覚と嗅覚は、咽せ返る様な成熟した雄の味と、匂いに満たされるが、御影はその感覚を、存分に楽しんでいる。
「んん…ぐぐ…。」
太一は言葉を発する事も出来ず、虚な目のまま涎を垂らしながら、逃げられる筈もない拘束の中で、身体を懸命に仰け反らせ、悶え、痙攣する。
彼の身体に与えられた刺激は、とうの昔に許容量を超えているが、機械に接続され、制御されたその肉体は、決して絶頂を迎える事を許されない。
御影は更に口の中で太一を、快楽の皮を被った地獄へと堕としながら、その両手で彼の厚い胸板の突起を、優しく摘み、指の間に弄ぶ。
「んんんんんー!」
太一は言葉を遮る枷の奥から、悲鳴にも似た叫びをあげるが、その声は既に、悦びの感情を込めた物へと変わっていた。
そして、決して迸りを許されないその先端から、更なる滑りを滴らせるが、それは全て御影によって受け止められる。御影はその後、暫くの間ゆっくりと、太一の味と萎える事の無い、固い感触を愉しんだ。
(ごめん)
誰に対してなのかも、もう分からないまま、太一は心の中で謝る。助けに来てくれると、信じていたはずなのに。その「信じる」という感覚が、押し寄せて来る快楽と一緒に、少しずつ溶けていく。それが、彼には何より怖かった。
痛みよりも、羞辱よりも、それらを自分自身が全て、悦びと共に受け入れてしまっている事が、何より一番恐ろしい。しかし、その恐怖すらも、時が経つにつれて、次第に快楽の波に、押し流されていった。
それから、どの位の時間が流れただろうか、御影は太一のその部分から口を離し、彼の耳元に口を寄せ、優しく囁きながら、リモコンを操作して、拘束台ごと太一の身体を垂直に起こし、壁面に設置されたモニターに、ある人物を映し出した。
「彼の名前は、榊澪。太一くんを、正しく無い場所に連れ出そうとしてるヤツさ。」
「キミの次の任務は、彼を殺すコトだよ。そうすれば、太一くんは正しい場所に居られるし、ボクがもっとキミを悦ばせてあげる。」
ノクティルを投与され、その血中濃度を一定に保たれている状態の太一の脳には、御影のその言葉は全て、真実として染み込んでいく。
(こ…ころ…す、み…みお……)
薄れゆく意識の中で、太一の中には澪に対する殺意が、快楽と共に確実に、刷り込まれていった。
処置室の照明は落とされ、機械音だけが規則正しく響いている。磔にされたままの太一は、ぐったりと意識を失っていた。呼吸だけが、かろうじて彼が生きていることを示している。
その前に立つ御影は、タブレットに表示された数値を満足そうに確認し、そっと、眠る太一の頬を撫でる。
「よく頑張ったね、太一くん。」
その声音は、ひどく穏やかだった。
背後で、自動ドアが開く。入ってきたのは、九条と鷺沢。二人は室内の光景を一瞥するが、特に驚いた様子も見せない。ただ任務対象を見る目だった。
「準備は出来たかい?御影。」
九条が淡々と言う。御影は振り返り、わずかに目つきを険しくする。
「御前からの命令だから貸してあげるけど…。」
視線だけが、鋭さを増していく。
「傷とか付けたら、承知しないからね。」
その言葉には、冗談の響きが一切なかった。
鷺沢が肩をすくめる。
「随分と大事にしてるんだな?」
御影は、再び太一の方へ視線を戻し、指先で彼の短く揃えられ、白髪の混じり始めた髪を整える。
「当たり前だよ。太一くんは、ボクの宝物なんだから。」
九条は無言で拘束具のロックを確認し、拘束台ごと太一の身体を、運び始めながら言う。
「任務に支障が出なければ、それでいい。」
その言い方は、人間に向けるものではなかった。
御影の眉が、わずかに動く。
「任務のための道具じゃない。太一くんは、ボクの側に在るべき物なんだ。」
九条は答えない。三人の価値観は、まるで噛み合っていない。
ただひとつ共通しているのは…この場にいる誰一人として、太一を人間として、見ていないことだけだった。
9.
ソファに身体を預けたまま、退助は完全に眠っている。靴も脱がず、片腕をだらりと落として。その姿を見た湊は呆れ気味に、小さくため息をついた。
「ほんと、無防備なんだから……。」
毛布を広げ、そっと肩にかける。それでも、よほど疲れているのか、退助は起きない。近い。顔が、思ったよりずっと近い。寝息が、かすかに頬に触れる。
(……今なら)
ほんの少しだけ、身をかがめる。唇が触れる距離まで、あとわずか。そのとき。ぐい、と強い力で身体を引き寄せられる。
「っ……!」
退助の太い腕が、無意識のまま湊の背中に回っていた。胸板に湊の顔が押しつけられる。
完全に、抱きしめられている。心臓が跳ねるかの様に高鳴り、息の仕方が分からなくなる。けれど退助は、目を覚まさない。
「……んん…太一…ぃ…。」
その名前が、すぐ耳元でこぼれた。湊の胸が、きゅっと締めつけられる。ほんの一瞬だけ、言葉を失って。それでも、ゆっくりと息を整える。そして、できるだけやさしい声で。
「貴方の中には、ずっと太一さんが居るんですね?」
眠る退助は、わずかに呼吸を深くするだけ。湊は、そっと視線を落とす。
「大丈夫ですよ。」
静かに、言い聞かせるように。
「太一さんの中にも、きっとまだ、退助さんが居ます。」
退助の腕の力が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。退助の腕の中で、湊はしばらく動けなかった。力強い鼓動が、毛布越しにも伝わってくる。
ほどけない温もり。けれど、その腕は、自分を抱いているわけじゃない。
「……太一。」
寝息に混じってこぼれた名前に、湊は目を閉じる。小さく息を吸って、震えを押さえた。
「太一さん……ごめんなさい。」
声は、ほとんど囁き。
「今だけ……。今だけ退助さんの胸を、俺に貸してください。」
額を、そっと厚い胸板に預ける。ほんの一瞬だけ、このぬくもりに甘える。それから、ゆっくりと顔を上げて。
「航との約束……きっと、貴方を助けに行きますから。」
自分に言い聞かせるように、静かに告げる。
退助の腕の力が、わずかに緩む。湊はその隙に、静かに退助の腕の中から抜け出し、彼の身体に毛布を掛け直した。けれど胸の奥ではひとつの気持ちが、きれいに畳まれていた。退助の頭をそっと撫でた湊は、何事も無かったかの様に、静かに立ち上がった。
そのとき。視線を感じて、顔を上げる。リビングの入り口。薄暗がりの中に、澪が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。何も言わず、ただこちらを見ている。湊の喉が、ひくりと鳴る。けれど澪は、問いたださない。からかいもしない。
ただ一瞬だけ、湊と目を合わせて、それから小さく視線を伏せた。まるで、見なかったことにするみたいに。
「……コーヒー、淹れよっかと思って。」
静かな声。湊は、ほんの少しだけ救われた気がして、頷いた。
「手伝う。」
それだけ言って、二人はキッチンへ向かう。ソファでは、何も知らない退助が、変わらぬ寝息を立てている。
翌朝から澪は、セーフハウス内の書斎スペースに、置かれたデスクに向かい、黙々と端末を叩いていた。
退助は壁に凭れ、腕組みをした姿勢でそれを見ている。湊は床に広げた、機材の配線を確認していた。それは、静かな準備の時間だった。
「この旧実験棟の記録、まだ残ってるんだな。」
退助がぽつりと言う。湊は画面から目を離さないまま答える。
「完全には消されていませんね、消せなかった。が、正しいかもしれません。」
澪が続ける。
「理論と観測データは、九条と鷺沢が、原生圏への手土産として、持って行った筈です。」
「でも、実際にかけられた側の反応データは、ここにしか無い。」
湊の手が止まる。
「俺たちの中に、だ。」
退助は視線を二人に戻す。言葉は挟まない。ただ、二人の言葉に耳を傾けている。
「太一さんに施された処置は、あの実験の発展型だと思います。」
湊が静かに続ける。
「なら、綻びも同じ場所にあるはずなんだ。」
澪が、端末を退助に向けた。脳波パターンの、古いログが並んでいる。
「人格再固定の直後に、必ず微細なノイズ…元の人格の、抵抗と思われる反応が出ます。」
「俺と湊、両方共、同じ位置に現れています。」
「そこに外部から、何らかの揺さぶりを掛けられれば…。」
退助が、言葉を繋ぐ。
「…引き戻せる可能性が有る。」
二人が頷く。
10.
それからの数日間、湊と澪はずっとその作業を続けている。旧実験棟のデータ解析。脳波同期アルゴリズムの再構築。旧実験棟最深部の設備に、接続する為の準備。
鷹宮がこの作戦の為に解放しようとしているのは、かつて実験の「中枢」として使われていた設備だった。そこに繋がなければ、この作戦は成立しない。
不意に、退助の携帯端末が低く振動した。それは、保安部専用の回線からの情報だった。
退助の表情が変わる。
「…来た。」
「侵入警報。港湾区西区画。この近くだ。」
退助の声が低くなる。
「二度目だな。奴ら、借りを返しに来たってワケだ。」
澪の喉がわずかに動く。
「九条と鷺沢…。」
次の報告が入る。その事実に、退助の目が大きく見開かれる。
「いや…もう一人居る。」
その退助の言葉の重みに、室内の空気が凍りつく。
「単独で三名を制圧。動きが、尋常じゃ無い。」
湊が立ち上がる。
「映像は、出ますか?」
退助が端末を床に置き、壁に映像を投影する。荒れた路地の監視映像。漂う煙と倒れた保安部員。それらを背にして、ゆっくりと歩いて来る影。その顔は無表情で、目には感情の光も無い。そして、規則正しすぎる足運び。
湊の息が止まった
「……太一さん。」
声にならない声を呟く。澪の指が、デスクを強く叩く。
「間に合わなかったんじゃ無い。」
澪が低く言う。
「向こうが、ここを目指してる。」
退助は、既に装備を身に着けていた。
「ここの場所が、敵さんにバレたってワケだ。」
「奴らの目的は、榊の命と、ここで構築された、洗脳解除システムだろう。」
湊が退助を見る、その目に迷いは無い。
「行きましょう。準備は、もう出来てる。」
澪も立ち上がり肩をすくめながら言う。
「ここで隠れてる意味もなくなっちゃいましたね。」
「で、二人に提案が有ります。」
澪の突然の言葉に、驚きながら視線を向ける、退助と湊。
「ここでもし、太一さんの身柄を抑えられれば、彼を引き戻せる絶好の好機になりえます。」
二人は、澪の顔を見ながら、深く頷く。
「よし、行くぞ!湊。」
「はい、今度は迎え撃つ側ですね。」
セーフハウスの静けさは、そこで終わった。
全ての準備は、この瞬間の為にあったのだと、三人は、もう理解していた。
11.
廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてくる。退助は遮蔽物の陰で銃を構えたまま、視線を外さない。
「来るぞ。」
湊は無言で頷く。角を曲がり、三つの影が姿を現す。先頭は九条、その後ろに鷺沢、そして…太一。
退助の喉が、僅かに上下する。分かっていた。分かっていたはずなのに、視界に入った瞬間、胸の奥が軋む。
太一は、こちらを見る。だがその視線には、何も宿っていない。湊が、低く言う。
「退助さん。」
退助は、銃を握り直す。
「ああ。」
太一の銃口が、ゆっくりと持ち上がる。九条の声が、静かに落ちた。
「排除しろ、八木。」
迷いのない動作で、引き金が引かれる。
太一の構える短機関銃からは、連続した炸裂音と共に無数の拳銃弾が、退助と湊に向けて放たれる。二人は咄嗟に遮蔽物の影に身を隠し、九死に一生を得る。太一は身を隠す事もせず、空になった弾倉を交換し、再び銃を退助へと向ける。
退助も、物陰から太一の身体へと照準を合わせてはいるが、やはり引き金を引く事は出来ずにいる。
「どうした!中島退助?」
九条が退助を挑発する雑言を投げつける。
「…くっ。」
このままでは、退助は動けない。湊は、ある危険な決断をして、退助に話しかける。
「退助さん、俺…少し変わります。九条と鷺沢は、俺が引き受けます。」
「…太一さんを…お願いします。」
その言葉は、退助の理解の外にあるものだったが、彼は太一から目を離すことが出来ずに居る。
「湊…一体何を?」
湊は、小さく息を吐き、壁の端末に手を伸ばし、自らの意識をシステムへと繋いだ。
建物の照明が、一部落ち、非常灯が赤く点灯する。湊の意思に応え、防火シャッターが降り、三人の侵入者の屋外への逃走を、不可能なものにしていく。
九条は即座に理解する。
「津崎がシステムに入った!」
この瞬間、戦場の主導権が湊に移る。そして彼は走り出す、二人の注意を引きつけるかの様に、ワザと足音を響かせて。
鷺沢が反応する。
「追うぞ、九条!」
九条もそれに続くが、湊の手により進むルートが分けられ、二人は分断される。
退助は銃を構えながら、遮蔽物の影から姿を現し、遂に太一と、一対一で向き合う。
12.
セーフハウスの最奥部に設けられたパニックルーム。澪は退助と湊によって、そこへと匿われていたが、彼はただ守られているだけでは無く、その室内で太一を助け出す為のシステムの、最終調整に余念が無かった。
そのとき、ふと照明が落ちたと同時に、建物の管理システムを通じて、澪の中に情報が流れ込んできた。
「…そう、能力を使ったんだね…湊。」
「こちらからもバックアップはするけど、戻れる内に終わらせてね。」
そこは湊によって作り出された暗闇の密閉空間だった。ここで繰り広げられているのは音と気配だけの戦闘。鷺沢は動かない。動けば位置を知られる。そう理解している。
耳を澄ませる。呼吸を殺す。だが…何も聞こえない。その静寂の中で、湊の声だけが、すぐ近くから響いた。
「昔から観察だけは、得意だったよなぁ。」
反射的に振り向き、銃口を向け、撃つ。閃光だけが闇を裂き、何もない壁を照らす。その瞬間、足元で金属音がする。
鷺沢が反応するより早く、床が沈む。バランスを崩し、膝をついた瞬間、背後から加えられる衝撃。手首を蹴り上げられ、銃が闇へ弾かれる。
身体を押さえ込まれ、息が詰まる。耳元で、静かな声が聞こえる。
「てめぇらは、記録しか見てねぇんだよ!」
腕を極められながら、鷺沢は初めて理解する。津崎は、もう「観察対象」ではない。
「これからは、せいぜい人間を、見るんだなぁ。」
鷺沢の意識が遠のき、暗闇へと落ちる。湊は力を抜き、彼の体を床へ横たえた。手早く手足を拘束し、通信機を奪う。そして、初めて小さく息を吐く。その目は、いつもの湊のものではない。感情が、薄い。
その頃、九条は異様な感覚に包まれていた。廊下を進むたび、扉が閉まり、ルートが変わる。誘導されている。
「津崎め……!」
苛立ちと焦りに苛まれながらも、彼は足を止めない。角を曲がった瞬間、天井のスプリンクラーが作動して、視界が水煙に包まれる。
同時に、足元にワイヤーのトラップが現れる。転倒はしない。だが、体勢が崩れた、その一瞬、背後から聞き覚えのある声が聞こえる。
「よぉ、理論担当さんよぉ。」
九条が振り向くより早く、足払いが掛けられ。彼は壁に身体を叩きつけられる。銃を向けるが、視界は歪み、水で前が見えない。
湊の姿は見えない。声だけが、近く、遠く、位置を変える。
「てめぇは、ずっと計算ばっかしてたよなぁ?」
九条は歯を食いしばる。
「どこだ!」
返答はない。代わりに、照明が一瞬だけ点く。
その刹那、九条の目に映った。低い姿勢で、死角に潜り込んでいる湊の姿。
次の瞬間、照明が落ち、彼の身体を襲う衝撃。腕を取られ、関節を極められ、銃が落ちる。
床に押さえつけられながら、九条はようやく理解する。これが、津崎湊に植え付けようとした、「戦術人格」の完成形。
「……成功しているじゃないか。」
苦笑の混じる声。
湊の動きが、一瞬止まる。その一瞬が、湊にとっての危険だった。呼吸が乱れる。視界が揺らぐ。頭の奥で、別の声が囁く。
(排除しろ、感情は邪魔だ)
湊の指が、九条の首元へ伸びかけ、絞め殺そうとする。
その時。通信機から、微かな音。ノイズの中に、退助の声が混じる。
「…みな…と…。」
その一言で、湊の動きが止まった。目に、感情が戻る。荒く息を吐き、力を抜く。九条を拘束しながら、彼は低く呟く。
「……未完成で、良かった。」
湊は壁にもたれ、暫くの間、動けない。手が震えている。自分が、どこまで行きかけたかを理解している。それでも、立ち上がる。
退助のもとへ戻る為に。
13.
非常灯だけが点滅する通路で、退助は銃を構えたまま、動けずにいた。数メートル先。影の中に立つ人影。撃てば当たる距離。だが、撃てない。
「……久しぶりだな、退助。」
その声は、間違いなく太一のものだった。抑揚も、間の取り方も、昔と同じ。退助の喉が、わずかに動く。
「太一……。」
「その呼び方、変わってないな?」
一歩、太一が前に出る。退助は反射的に照準を上げるが、指は引けない。太一は、薄く笑う。
「覚えてるか? 初めて海に行った帰り。お前、車酔いしてさ。」
退助の呼吸が乱れる。
「窓開けるなって、俺、怒ったよな?」
そんなことは…誰も知らない。二人だけの記憶。
「それでもお前、開けた。『吐くよりマシだ』って。」
太一は、さらに近づく。
「俺がコンビニでポカリ買ってきたんだ。」
退助の視界が、わずかに滲む。
「なんで……それを?」
太一は首を傾げる。
「俺の記憶だからだ。」
言葉が刺さる。
「御影は消さなかったよ。効率が悪いからな。人格を消すより、使った方がいい」
退助の銃口が、わずかに震える。太一の目は、穏やかだ。優しい目。かつて、退助を何度も助けた目。
「退助、お前は撃てない。」
太一は断言する。
「お前は、俺を助けに来たんだからな?」
一歩、また一歩、距離が縮まる。
「俺が覚えてる限り、お前はそういう奴だ。」
退助の中で、記憶が溢れる。笑った顔。怒った顔。背中。声。撃てない理由が、次々と蘇る。太一は、そこを正確に突いてくる。
「なあ、退助。」
太一の顔はすぐ目の前。銃口が、太一の胸に触れる距離。
「俺を、助けに来たんだろ?」
指が凍りついた様に動かない。その時、退助は違和感に気付く。太一は…自分のことを一度も言っていない。「俺は」「俺が」「俺の記憶」だが、「退助と俺の約束」「俺がお前に言った言葉」それが、一度も出てこない。
退助の目が、ゆっくりと険しくなる。
「なぁ、……太一。」
声が低くなる。
「本当のお前なら、そんな言い方はしない。」
太一の表情が、わずかに止まる。
退助は、震える声で、しかしはっきりと言う。
「お前はな、俺のことを話す時、主語を省くんだよ。」
沈黙。それは、太一の癖だった。「分かってるな?」「覚えてるな?」「行くぞ」
そういう話し方をする男だった。退助の目から、迷いが消えていく。
「お前は、太一の記憶を使ってるだけだ。」
太一の表情から、笑みが消える。
「太一じゃない。」
初めて、太一の目に感情が揺れる。退助は、銃を下ろさない。だが、撃ちもしない。
静かに、言う。
「太一はな……俺を揺さぶらない。」
その言葉は、何よりも深く刺さる。ほんの一瞬。太一の呼吸が乱れる。どこかで、何かが、軋む。
書き換えられた人格の奥で…本来の太一の記憶が、矛盾を起こし始める。太一の目の奥で、何かが軋んだ、その瞬間。
迷いが消える。次の動きは、あまりにも速かった。太一の手が、退助の銃を横へ弾き、暴発する。弾は壁に逸れる。同時に踏み込まれ、体当たりを受ける。
退助は後方へ吹き飛ばされ、床に叩きつけられる。息が詰まる。太一はためらわない。馬乗りになり、退助の手首を押さえ込む。
強い。記憶にある太一の力より、明らかに強い。御影の元で、戦闘用に最適化された身体。退助は歯を食いしばる。
「くっ……!」
太一の拳が振り下ろされる。頬に衝撃。視界が白く弾ける。もう一発。床に血が落ちる。太一の目には、感情がない。任務として、確実に制圧しに来ている目。
退助は理解する。
(本気で来てる……!)
次の拳を、腕で受け止める。衝撃で骨が軋む。その隙に腰を捻り、体勢を崩す。二人が転がる。床を滑り、壁にぶつかる。
太一は即座に立ち上がろうとするが、退助は足にしがみつく。立たせない。撃たせない。ただ、それだけに全力を使う。
太一が肘を打ち下ろす。肩に直撃が走り、痺れる。だが退助は太一の足を離さない。
「……っ、太一……!」
思わず名前が漏れる。その瞬間。太一の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。その瞬間を退助は見逃さない。体を反転させ、太一の腕を取り、関節を極める。
「ぐっ……!」
初めて、太一が苦悶の声を漏らす。だが、振り払おうとする力が尋常じゃない。退助の額から血が流れる。息が荒い。もう限界に近い。それでも…。
「お前を……撃つくらいなら……!」
腕に全体重をかけ、太一を床に押しつける。太一がもがく。退助は、腰の装備から拘束具を引き抜く。片手で押さえ込みながら、必死に太一の手首にかける。
太一は最後の力を振り絞って暴れる。力が強すぎる。拘束具が外れそうになる。
「頼む……!」
まるで祈るように、退助は力を込める。ガチリ、と金属音がして片手が拘束される。太一がさらに暴れる。退助は全身で覆いかぶさり、もう片方の手も押さえ込む。
息が、視界が、もう限界を迎えようとしている。それでも、カチリと音をたてて両手が拘束された。
太一の動きが、止まる。荒い呼吸だけが響く。退助は、その上に倒れ込むように覆いかぶさったまま、動けない。
しばらくして。太一が、かすれた声で言う。
「……退助?」
その呼び方は、さっきまでとは、違って聞こえた。太一の腕を捻り上げたまま、退助はようやく呼吸を思い出した。
荒い息。震える指先。だが、力は緩めない。太一の瞳は開いている。けれど、焦点は合っていない。口元がかすかに動いている。誰かと、会話しているように。
「……湊、応答しろ」
喉が焼けるようだった。数秒の沈黙。
やがて、激しいノイズの向こうから、途切れ途切れの声が届いた。
『……っ、退助さん…で…すか?』
その声に、退助の胸が強く脈打つ。
「無事か!」
『無事、じゃない……けど……まだ、俺です。』
銃声の残響。何かが崩れる音。荒い息。
『九条と鷺沢は……止めました。だが……長く、もたない、保安部の…応援を…。』
退助は、太一を見下ろした。震えている。全身が小刻みに痙攣している。
「湊。太一が……おかしい」
『……やっぱり…そうですか。』
湊の声が、わずかに低くなる。
『人格の衝突が始まってます。もう時間がない。』
「どうすればいい」
迷いのない声が返ってくる。
『旧実験棟です。あの装置で固定するしか…。』
退助は、太一を抱え上げた。軽いはずの身体が、やけに重い。
「合流できるか?」
『向かいます。澪も回収する。』
そして、わずかに間があって、
『……退助さん。』
「なんだ」
『呼んでくれなかったら……戻れなかった。』
退助は短く息を吐いた。
「馬鹿言え。勝手に戻れなくなるな。」
通信が切れる。
退助は、太一の顔を覗き込んだ。その瞳が、わずかに動く。ほんの一瞬。懐かしい色が、そこに宿った気がした。
「もう少しだ。持ちこたえてくれ。」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
数分後、退助は合流地点に辿り着く。壁にもたれかかる湊の姿を見つけたとき、退助は初めて安堵した。だが、その目を見て、すぐに分かる。まだ「戻りきって」いない。
澪がその肩を支えていた。
「無事でしたか。退助さん。」
澪の声は震えていたが、しっかりしている。
「太一を旧実験棟へ、急ごう。もう限界だ。」
湊が、太一を見る。そして、はっきりと言う。
「間に合う。まだ、壊れていない。」
退助は頷いた。三人は、走り出す。旧実験棟へ。かつて人格を壊すために使われた場所へ。
今度は、太一を救うために。
ご無沙汰しております、中の人です。
今回は、すっごいのと甘酸っぱいのを、ちょっと混ぜてみた感じでしたが、塩梅はいかがでしたでしょうか?作者はなんか、やりたい事をやり切ったカンジになっており、これはこれで困ったもんですw。
多分、次回で二人の冒険は、終わりを迎える事になるとは思うんですが、どうなっていくのか、予定は未定にして決定にあらずって、トコロでしょうかね。
それではまた、次回を気長にお待ち下さると、嬉しいです。
ありがとうございました。




