第三話 迷い子たちの邂逅
天梯は崩れ去り、太一は退助の前から、姿を消した。己を見失いかけた退助だが、湊の檄に触れ、己を取り戻す。
天梯崩落事件の、事後処理に追われ、太一を追う手掛かりを掴めずに居る退助の元に、一人の人物が現れる。
1.
白い処置室は、音が少ない。機械の駆動音も、モニターの点滅も、どこか遠慮がちで、ここが人の精神を扱う場所であることを、過剰なまでに、静かに示していた。
全身を光沢のある、黒いラテックス状のウエットスーツと、前頭マスクに包まれ、水槽の中に沈められた太一は、その中で意識は保たれたまま、外界との繋がりを全て断たれた状態にされている。水の中で、うつ伏せの状態のまま、四肢は大の字に拘束され、人形の様に水槽の半ば程度の水深に浮かんでいる。時折見せる痙攣の様な動きと、ラバー越しに明らかに反り返って見える、彼の一部分が、生きている証のように感じられた。
その水槽の傍に立っているのは、御影だった。彼は何も触れない。ただ、眺めている。
まるで、壊れやすい精密機械を扱う技師のような目で。あるいは、長い時間をかけて集めた希少な標本を、飽きもせず観察する収集家のような目で。
太一の身体からは、複数のラインが伸びている。頭部から下半身にかけて、何本ものチューブとケーブルが走り、生命維持装置と、モニターへ繋がれている。
そこに流れているのは、言語でも、記憶でもない。人格の地図、そのものだった。
「……綺麗だね。」
誰に聞かせるでもなく、御影は小さく呟く。
処置が進むにつれて、モニターの波形がゆっくりと組み替えられていく。乱れは、ない。抵抗も、ない。太一の精神は、まるで最初からこの形であったかのように 、安堵と快楽の中で静かに、再構成されていく。
御影は、そっと水槽のガラスに手を触れた。そのガラスの向こうには、まるで人形のような姿にされた、太一の身体がある。
「もうすぐ終わるよ。」
その声は、驚くほど優しかった。
「これで、また苦しくなくなる。」
それが誰のための言葉なのか、御影自身にも分かっていない。
拘束されたマスクの下で、太一の表情は、穏やかだった。苦痛も、恐怖も、そこにはない。ただ深く、深く沈んでいる。御影は、その姿から目を離さない。
処置室のスタッフは、誰も声をかけない。この光景に、もう慣れている。彼がこの時間を、誰にも邪魔されたくないことも。
やがて、モニターの表示が最終段階へと移る。再固定のプロセスが、完了に近づいていることを示していた。
御影は、ゆっくりと水槽のガラスから手を離そうとする。そして、ほんの一瞬だけ躊躇ったあと、水槽に自分の額をそっと寄せた。
触れているのは皮膚ではなく、体温でもなく、ただそこに「在る」という事実だけを確かめるように。
「おやすみ、太一くん。」
ささやきは、白い室内に溶けて消えた。モニターのランプが、静かに緑へと変わる。
再固定は、完了した。
2.
天梯の崩壊からは、三日がすぎていた。アンカー・アイランドの空は、皮肉なほど穏やかだった。海は静かで、風も弱い。あの日の轟音が、まるで幻だったかのように。
保安部の仮設オフィスを出た退助は、桟橋へと続く通路を、あてもなく歩いていた。報告書も、事情聴取も、一段落はついている。だが、心の中は何一つ片付いていない。
視界の端に海が広がっているのに、何も見えていなかった。
「…中島退助さん、ですよね?」
背後からかけられた声は、場違いなほど澄んでいた。反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、少年だった。まだ十代半ばほどに見える。華奢な体つきに、どこか世間慣れしていない雰囲気。だが、その瞳だけが、不自然なほど落ち着いている。
退助は眉をひそめた。この区画は関係者以外、立ち入り制限がかかっている。
「君、ここは…。」
「制限区域ですよね。許可は取ってあります。」
少年は、薄い端末を軽く掲げて見せる。確かに、一時通行許可の表示が出ていた。
退助はそれを一瞥したが、警戒は解かない。
「俺に何か用か?」
少年は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……天梯の件で。」
その一言で、退助の表情が変わる。空気が、張り詰める。
「あなたに、伝えたいことがあって来ました。」
「誰の差し金だ?」
間髪入れずに問い返す。少年は、その視線をまっすぐ受け止めた。
「誰の、というわけじゃありません。」
嘘ではない。だが、全部も言っていない。そんな言い回しだった。
「僕は、冬馬といいます。」
名乗りながら、ほんのわずかに視線を逸らす。その仕草は自然だったが、退助の目には、何かを測っているようにも映った。
「あなたは今、八木太一さんを追おうとしている。」
退助の呼吸が止まる。
「……なぜそれを知っている?」
「知っている人間は、少なくありません。けれど、あなたがどこへ向かおうとしているかを、知っている人は、ほとんどいない。」
冬馬は一歩、距離を詰めた。
「だから、僕が来ました。」
風が吹く。海の匂いが流れ込む。退助は、少年から目を離さない。
「回りくどい言い方は嫌いだ。用件を言え。」
冬馬は、ほんのわずかに息を吸い込んだ。
そして、静かに言った。
「御影を、知っていますか?」
その名を聞いた瞬間、退助の中で何かが弾ける。拳に力が入る。瞳の奥が熱を帯びる。冬馬は、その反応を見逃さなかった。
「僕は、彼を知っています。」
「……どういう意味だ?」
「あなたが太一さんを取り戻したいなら、まず御影を知らなければいけない。」
少年の声は、穏やかだった。だが、どこか確信を帯びている。
「彼は、あなたが思っているような存在じゃない。」
退助は、低く唸るように言った。
「俺は、あいつをこの目で見た!」
「ええ。でも、見えたものが、全部とは限らない。」
冬馬の瞳は、静かに退助を射抜いていた。
「あなたは、御影のことを知らなさすぎる。」
その言葉は、挑発でも、同情でもない。ただ、事実を置いただけの響きだった。
「話をしましょう、中島さん。」
冬馬は、わずかに微笑む。
「太一さんを取り戻すための、最初の話を。」
「待て。その話、もう一人聞かせたい奴が居る。」
退助の低い声に、少年はわずかに頷いた。
「ええ。宗像湊さんですね。」
年齢とその姿に似つかわしくない落ち着きだった。 まるで、こちらの状況も、関係者も、すべて把握した上で来ているような物言い。
(コイツ、一体……)
罠の臭いは、はっきりと感じていた。だが、同時に分かっている。この少年を無視するという選択肢は、残念ながら退助の手元には無かった。
「来い。」
短く言って、退助は歩き出す。冬馬は黙って後ろについた。
3.
場所を、退助の自宅へと移した。アンカー・アイランドの居住区画に建つ、まだ新築の匂いの残るコンドミニアムの一室。ここは、かつて太一と退助が一緒に暮らしていた部屋だった。
ドアを開けた瞬間、湊の視線が室内をゆっくりと巡る。 生活感は、まだ消えていない。キッチンの棚。ソファの配置。壁に掛けられた端末。どれも、二人で選び、二人で決めた痕跡が、そのまま残っている。だが、そこに居るべき人だけが、いない。
湊は何も言わず、静かに息を吐いた。テーブルを挟んで、三人が向かい合う形で座る。 退助は腕を組んだまま、冬馬を睨んでいる。湊は、その隣で、慎重に少年を観察していた。
先に口を開いたのは、冬馬だった。
「ここは、太一さんと一緒に暮らしていた場所なんですね。」
何気ない言い方だった。だが、確信を持った口調。退助の眉が動く。
「どこまで知っている?」
「知っていることと、推測していることがあります。」
少年は視線を室内に巡らせた後、退助を見た。
「御影は、この部屋のことを知りません。」
その言葉に、退助と湊が同時に反応する。
「……どういう意味だ?」
「御影は、太一さんの過去を、ほとんど知らない。」
静かな断言だった。
「彼にとっての太一さんは、今の太一さんだけです。」
湊が口を挟む。
「洗脳された後の人格、ってことか?」
「ええ。」
冬馬は頷いた。
「だからこそ、あなた方の存在は、御影にとって想定外なんです。」
退助の視線が鋭くなる。
「俺たちが、想定外?」
「御影は、太一さんを、完成した存在として扱っています。」
少年は、言葉を慎重に選びながら続ける。
「壊れない。揺らがない。自分だけを見ている存在として。」
その言葉に、退助の奥歯が軋む。
「……ふざけるな!」
低く漏れた声は、怒りよりも、悔しさに近かった。冬馬は首を横に振る。
「ふざけていません。これが、あなた方にとって一番重要な情報です。」
湊が身を乗り出す。
「つまり?」
「御影は、太一さんの中に、退助さんが残っている可能性を、知らない。」
部屋の空気が、止まる。退助の指先が、わずかに震えた。冬馬は、その反応を見ながら、はっきりと言う。
「だから、まだ間に合うんです。」
その一言が、重く落ちた。
「御影は、太一さんを完全に支配していると思っている。」
「でも、あなたという存在が、太一さんの中にどれほど深く刻まれているかを、知らない。」
少年の瞳は、静かに光っていた。
「それが、唯一の綻びです。」
「何故、そんな事を俺に話す?」
退助の声は低く、疑念を隠そうともしなかった。その横で、湊が静かに口を挟む。
「その情報を俺たちに流すことで、君に何のメリットがあるんだい?」
視線は鋭いが、声音は理性的だった。
「そもそも、君は何者だ?」
問いは、核心を突いていた。冬馬は、少しだけ考えるような間を置いたあと、視線をテーブルに落とす。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「御影と、同じ立場の人間です。」
その答えに、退助と湊の眉が同時に動く。
「原生圏の一員、ということか?」
湊の確認に、冬馬は頷いた。
「ええ。ですが、御影とは考え方が違う。」
「御前のやり方にも、全面的に賛同しているわけではありません。」
退助が鼻で笑う。
「裏切りか?」
「いいえ。」
冬馬は即座に否定した。
「これは、調整です。」
「……調整?」
「原生圏が、組織として破綻しないための。」
その言い回しに、湊の目が細くなる。
「御影のやり方は、極端すぎるんです。」
冬馬は淡々と続ける。
「太一さんという存在に、入れ込み過ぎている。」
「御影は気づいていませんが、彼はもう、合理的な判断ができなくなり始めている。」
退助の表情がわずかに変わる。
「……どういうことだ?」
「御影は、太一さんを、戦力ではなく、所有物として扱い始めています。」
「それは、組織にとって危険な兆候です。」
湊が静かに呟く。
「私情か。」
「ええ。」
冬馬は迷いなく肯定した。
「だから、あなた方が必要なんです。」
退助の目が鋭くなる。
「俺たちが?」
「あなたの存在は、御影にとって唯一の不確定要素です。」
「そして同時に、太一さんの中に残っている可能性がある、唯一の異物でもある。」
少年は、まっすぐに退助を見る。
「御影が崩れるとしたら、それはあなたが原因になります。」
部屋が、しんと静まり返る。冬馬は続けた。
「ボクは、御影が壊れるのを見たくない。」
「でも、このままでは、いずれ壊れる。」
「ならば、まだ制御可能な範囲で揺らいでもらった方がいい。」
湊が、わずかに息を呑む。
「それが、君のメリットか?」
「はい。」
冬馬は頷いた。
「御影を守るために、あなたに情報を渡しているんです。」
退助が言葉を継ぐ。
「その話が本当だとしてだ、何故ここまで一人で来た?」
わずかに身を乗り出す。
「俺たちは、お前の身柄を拘束することだって出来るんだぞ。」
脅しではない。事実の提示だった。冬馬は、視線を逸らさない。
「出来ますよ。」
あっさりと肯定した。その落ち着きが、かえって異様だった。
「ですが、それをしないと分かっていたから、ここに来ました。」
退助の眉がわずかに寄る。
「……なぜ、そう思う?」
「あなたは、太一さんを取り戻すこと以外に、興味がないからです。」
間髪入れずに返す。
「僕を拘束することは、その目的に対して、何の近道にもならない。」
「むしろ、遠回りになる。」
湊が口を開く。
「随分と、俺たちを買ってるんだな。」
「違います。」
冬馬は首を振った。
「合理的な人間の行動を、予測しただけです。」
退助の視線が、さらに鋭くなる。
「それでも、リスクはある。」
「御影に知られれば、お前の立場も危ういんじゃないのか?」
その問いに、冬馬はほんのわずかだけ、視線を伏せた。
「ええ。だから一人で来たんです」
「記録も残さず、誰にも気取られずに。」
「僕がここに来たことは、組織の誰も知りません。」
静かな声だったが、そこには確かな覚悟があった。
「それに。」
冬馬は、退助をまっすぐ見つめる。
「もし、あなたに拘束されたとしても。」
「それはそれで、構わないと思っていました。」
湊が目を見開く。
「……どういう意味だ?」
「あなた方の側に身を置いた方が、御影を守れる可能性もあるからです。」
退助は、しばらく黙ったまま冬馬を見つめた。少年の表情に、虚勢も焦りもない。ただ、静かな確信だけがあった。この少年は、本気だ。
退助はゆっくりと背もたれに身体を預ける。
「……厄介なガキだな、お前は。」
その言葉に、冬馬はわずかに微笑んだ。
「よく、言われます。」
4.
冬馬が残していった情報は、整いすぎていた。断片の寄せ集めではない。時系列も、関連部署も、関与した人物も、綺麗に整理されている。まるで最初から、誰かに「渡す」ことを前提に用意された資料のようだった。
退助は端末の画面を睨みながら、低く息を吐いた。
「……出来すぎだろ。」
隣の席で湊が、紙の束をめくりながら応じる。
「ええ。裏を取る価値は、十分すぎるほどあります」
二人のデスクは、かつて高槻が仕切っていた一角の、奥まった場所に移されていた。新しく来た上司は、表向き穏やかだが、二人に対して明らかに距離を置いている。高槻の部下だったというだけで、信用の貯金はゼロどころか、むしろマイナスからの出発だった。 だからこそ、表立っては動けない。動けないように、デスクワークに縛り付けられている。
退助は未処理の書類を一枚手に取り、目を通す。報告書の整形、事故記録の精査、備品管理の確認……どれもこれも、彼がもっとも苦手とする類いの仕事だった。
「……くそ。」
思わず漏れた独り言に、湊が顔を上げる。
「どうしました?」
「いや……。」
書類を睨みながら、退助は心の中で呟く。
(太一の奴が居ればなぁ)
太一は、こういう細かい仕事を、苦もなく淡々と片付けていく。退助が嫌そうな顔をすると、少しだけ笑って、「どれ、貸してみろ」と言って取り上げてしまうのだ。
その光景が、あまりにも自然に思い浮かんでしまって、退助は小さく苦笑した。
「柄じゃねぇな、ほんと。」
湊は何も言わない。ただ、視線を落とし、資料を閉じた。
「じゃあ、退助さん。俺、外に出ます。」
「ああ。頼む。」
湊は情報の裏取りに向いている。足で稼ぎ、人に会い、さりげない会話の中から事実を拾ってくる。それは、太一に近い種類の才能だった。
湊が立ち上がり、資料を鞄に詰める。
「冬馬の話が本当なら、ここ数ヶ月の内部ログに、不自然な空白があるはずです。」
「分かった。こっちでログを洗っとく。」
「お願いします。」
湊は短く頷き、オフィスを出ていった。
扉が閉まる音がやけに大きく響く。退助は端末に向き直った。アクセス権限の範囲で辿れる、保安ログ、搬入記録、人員の出入り。地道な照合。気の遠くなる作業。だが、やるしかない。
冬馬の言葉が、頭の奥で何度も反芻される。
『御前の計画は、四天王ですら知らない。』
『それを実行するために、宇宙開発機構の、何らかの技術が必要になる。』
もしそれが本当なら。天梯の破壊は、前哨戦にすぎない。退助の指が止まる。ふと、視線が横へ流れた。
その視線の先には、太一が使っていたデスク。椅子は半歩引かれたまま。マグカップも、あの日のまま。あいつは、ここに座っていた。確かに、ここに。
「……待ってろよ。」
声に出ていたことに、自分で気づいて、退助は思わず苦笑いをした。返事は、もちろん無い。それでも、指は再び動き始める。単調な作業のはずなのに、不思議と集中力は切れない。
やがて、ログの中に、微かな違和感が浮かび上がってきた。
「……なんだこれ?」
同じ時刻に、存在するはずの記録が、二重に上書きされている。意図的に消された痕跡。しかも、一度ではない。何度もだ。
退助の目が、険しくなる。
「当たりか。」
胸の奥で、何かが僅かに動く。
その頃、湊は施設外の記録保管室で、古い搬入データを閲覧していた。人の目に触れにくい、紙媒体の記録。端末のログと照合するために、あえてこちらを選んでいる。
ページをめくる手が、止まった。
「……やっぱり。」
端末上では存在しないはずの搬入記録が、そこにあった。しかも、発送元は、すでに解体されたはずの、開発公団関連企業。
冬馬の言葉が、頭をよぎる。
『あなたたちの内部に、すでに根は張られています。』
湊はページを閉じ、静かに息を吐いた。
「これは……本気だな。」
その日の夕刻。 二人は再びオフィスで顔を合わせる。 互いの目を見ただけで、分かった。
「見つけました?」
「ああ。そっちは?」
「ありました。」
退助は椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
「冬馬の言ってたこと、どうやら全部、本当らしいな。」
湊は静かに頷く。
「ええ。俺たち、思っていたよりも、ずっと深い所まで入り込まれてます。」
しばしの沈黙の後、退助が、低く笑った。
「まったく……厄介なもん置いていきやがって。」
「冬馬ですか?」
「ああ。」
敵か味方か、いまだに分からない少年。だが一つだけ、はっきりしていることがある。あいつは、退助たちを動かすために、ここへ来た。そして、それは成功している。
退助は立ち上がり、太一のデスクを一瞥した。
「動くぞ、湊。」
「はい。」
「今度は、俺たちの番だ。」
5.
保安局フロアの一角。ガラスで仕切られた管理官室の扉には、簡素なネームプレートが掛けられている。「鷹宮」。
ノックに対する返事は短い。
「入れ。」
退助と湊は並んで室内に入った。室内は驚くほど整っている。書類の山も、端末の乱雑さもない。必要なものだけが、正確な位置に置かれている。持ち主の性格が、そのまま空間に滲んでいた。
鷹宮は端末から視線を上げないまま言う。
「報告か?」
「はい。」
退助は簡潔に答え、手にしたタブレットを差し出した。
「天梯関連のログと、事故直前の記録に、不審点が見つかりました。」
その言葉に、鷹宮の指が止まる。ようやく視線が上がり、二人を見る。
「具体的には?」
湊が口を開く。
「改竄の痕跡があります。単発ではなく、長期的な。少なくとも数ヶ月単位で、記録が書き換えられていた形跡があります。」
鷹宮は無言のまま、タブレットを受け取り、目を通す。室内に沈黙が落ちる。退助は、その沈黙の重さを感じていた。この人は、馬鹿ではない。そして、何より、こちらを信用していない。
やがて、鷹宮が口を開く。
「どうやって、これに気づいた?」
退助は、わずかに間を置いた。
「照合です。事故前後のデータの整合性を確認していく中で、違和感が出ました。」
嘘は言っていない。だが、核心は言っていない。
鷹宮の視線が、わずかに鋭くなる。
「君たちの担当外の領域だな?」
「ええ。」
退助は、まっすぐ視線を返す。
「ですが、偶然見つけてしまった以上、報告しないわけにはいきません。」
湊が続ける。
「この規模の改竄は、個人では不可能です。内部に、相当深い位置で関与している者がいる可能性があります。」
鷹宮はタブレットを机に置き、指を組んだ。しばらく二人を見つめる。その視線は、まるで測っているようだった。
「……調査を希望するのか?」
「はい。」
退助は即答した。
「正式な許可をいただきたい。」
鷹宮は小さく息を吐く。
「この内容を、私に報告した理由は何だ?」
それは問いではなく、試しだった。
退助は、ほんのわずかに口元を緩める。
「あなたが、いちばん冷静に判断できると思ったからです。」
鷹宮の眉が、ほんのわずかに動く。沈黙の中で、鷹宮は思案を巡らす。
やがて、低い声が落ちる。
「……いいだろう。」
退助と湊は、わずかに視線を交わす。
「ただし。」
鷹宮の声が続く。
「君たちは、何かを隠している。」
二人の心臓が一拍、強く打つ。だが、退助は表情を変えない。
鷹宮は続ける。
「だが、報告内容は極めて合理的だ。却下する理由が無い。」
視線が鋭くなる。
「私は、君たちを信用していない。」
はっきりと、そう言った。
「だが、この報告は信用する。」
静かな圧が、室内を満たす。
「調査権限を与える。必要なアクセスは開放する。ただし。」
わずかに身を乗り出す。
「私の目の届く範囲で動け。」
退助は深く頷いた。
「ありがとうございます。」
湊も続く。
「必ず、結果を持ち帰ります。」
鷹宮は、二人から視線を外し、端末に戻した。
「行け。」
短い言葉。だがその中には、分かっている。だが、止めないという、はっきりした意思が含まれていた。
管理官室を出て、扉が閉まる。廊下に出た瞬間、湊が小さく息を吐いた。
「……気づかれてますね。」
「ああ。」
退助は苦笑する。
「全部は言わないって、分かった上で許可してくれた。」
しばらくの間、沈黙の中で二人は歩く。
やがて退助は、ついうっかり、思わずぽつりと呟いた。
「太一の奴が居ればなぁ。」
デスクワークの山を思い出し、肩をすくめる。
「あ、いや悪い。こういうの、アイツが得意だったからな。」
湊が、わずかに微笑む。
「じゃあ、俺は裏取りを進めます。」
「ああ。頼む。」
二人は別々の方向へ歩き出す。まだ、表立って動くことはできない。だが、確実に、何かが動き始めていた。
6.
退助は、端末に積み上がった未処理の報告書を睨みつけたまま、しばらく指を止めていた。デスクワークは昔から苦手だ。太一が居た頃は、こういう整理事はいつの間にか片付いていた。
向かいの席で、湊は静かにキーボードを叩いている。視線は画面に落としたまま、口だけが動いた。
「退助さん。天梯崩壊の直前ログ、通常のアーカイブからは削られてますね。」
「削られてる?」
「ええ。事故扱いの区画だけ、妙に綺麗すぎる。ノイズも痕跡も残っていない。逆に不自然です。」
退助は椅子を回し、湊の画面を覗き込む。確かに、事故の混乱があったにしては、ログは整いすぎている。まるで「最初から用意されていた記録」のように。
「冬馬の話、与太じゃなさそうだな……。」
「でもまだ、何かを隠しているのも事実ですね。」
湊の指が止まる。画面の一部を拡大し、退助に見せる。
「このバックアップ経路、見覚えありませんか?」
退助は目を細める。数秒の沈黙の後、息を飲んだ。
「これ……宇宙開発機構の、旧航法系のフォーマットだ。」
「はい。現行では使われていない規格です。にもかかわらず、天梯の基幹ログの退避先に、これが指定されている。」
「なんでそんなものが、こんな所に……。」
そこまで言って、退助は言葉を止めた。嫌な予感が、形になりかけている。湊は淡々と続けた。
「原生圏が狙っているのは、施設でも人でもない。もっと根幹の…技術そのものかもしれません。」
「技術?」
「深宇宙航行用のナビゲーション。播種船団の航法AIに直結していた系統です。」
退助の背筋に、冷たいものが走った。
かつて大助たち四人が、命懸けで守ったヘリウム3プラント。あれと同じ匂いがする。国家規模ではなく、人類規模の話。
「……スケールが、でかすぎるだろ。」
「だからこそ、表には出せない。冬馬が言った選ばれた理由とも一致します。」
湊はそこで、ようやく退助の方を見た。
「この話、上に上げますか?」
退助は即答できなかった。
情報の出所は言えない。証拠はまだ断片的。しかも新しい上司は、まだ自分たちを信用していない。下手に動けば、逆に監視対象になる。
「……いや。まだだ。」
「ですよね。」
「これは俺たちの手元に置く。保険だ。確証が揃うまで、誰にも渡さない。」
湊は小さく頷き、再び画面に向き直った。
「では、裏取りを続けます。航法系の旧データベース、私の方で当たります。」
「頼む。俺はこっちの書類を片付けながら、天梯側の裏ログを洗う。」
退助は端末に向き直り、深く息を吐いた。静かなオフィス。キーボードの打鍵音だけが、規則的に響く。だが二人とも、同じことを感じていた。
これはもう、偶然の事故の話ではない。そして、太一が巻き込まれた理由も――きっと、この先にある。
7.
退助は、端末の表示を閉じると、深く息を吐いた。公式の回線も、公式の権限も、いまの自分たちには意味を持たない。 高槻の後任である鷹宮は、まだ二人を信用していない。下手に動けば、こちらの方が拘束されかねない。
それでも…動かなければならなくなった。
「行き先、決まりましたか?」
背後からの湊の声に、退助は頷く。
「昔の試験施設だ。もう使われてないことになってる。」
湊の目が、わずかに細くなる。
「深宇宙航法AIの、旧実験棟ですね。」
「知ってたのか?」
「名前だけは。ですが、場所までは。」
「俺の古巣だ。」
短く言って、退助は立ち上がる。
かつて、テストパイロットとして幾度も出入りした場所。まだ宇宙開発が理想に満ちていた頃の、忘れ物のような施設。今なら、監査も目も、ほとんど向いていない。
「小型艇を借りる。」
「無断で?」
「記録に残らない借り方がある。」
退助の口元に、久しぶりに、少しだけ悪い笑みが浮かんだ。
翌日、退助と湊は休暇を利用して、種子島の旧訓練施設を訪れていた。かつて太一と退助が出会い、宇宙へと羽ばたく術を修めた学舎は、現在はアカデミーの初等教育と、それ以前の子供達に宇宙を体験させる為の、教育施設として活用されていた。
「よう、神永!元気だったか?」
その格納庫の隅。退助からそう呼ばれた整備員の男は、彼の顔を見るなり、目を丸くした。
「……中島? お前、生きてたのか。」
二人は久々の再会を喜び合い、握手とハグを交わした。
「勝手に殺すな。それよりちょっと、昔の機体を触らせてくれ。」
退助は一瞬、周囲を見回し、それから小さく肩をすくめる。
「ログ、消せるか?」
「任せろ。昔より上手くなってる。」
言葉は少ない。だが、それで十分だった。湊が低い声で呟く。
「良い関係ですね。」
「命預けて飛んでたからな。」
そう言いながら、退助は機体のハッチを開ける。公式の許可も、飛行計画もない。それでも、この機体は、かつて何百回と自分を宇宙へ運んだ相棒だった。エンジンの振動が、腹の奥に伝わる。忘れていた感覚が、ゆっくりと戻ってくる。
発進した小型艇は、軌道へと至る姿勢を取らなかった。滑るように雲の層をかすめ、海上を水平に走る。
「……上には行かないんですね。」
ナビゲーションシートに座る湊が呟くと、操縦席の退助は視線を前に据えたまま答えた。
「行き先は宇宙じゃない。忘れられた下の方だ。」
やがて、灰色の海の中に、直線と角だけで出来た巨大な影が浮かび上がる。かつて宇宙開発黎明期に建設された、航法AI実験用の海上浮遊プラットフォーム。今では正式名称すら忘れられ、記録の端に残るだけの、旧実験棟。
湊は息を呑んだ。「こんな所が……まだ残ってたのか。」
「若い頃、テストパイロットとして幾度も出入りした場所だ。」
退助が宇宙へ上がる前、すべての航法データと機体挙動を地上で叩き込まれた、原点。艇は半ば錆びた格納デッキに滑り込む。風と波の音しかない。監視も警備も、気配すらない。
「監査の目も届かない。ここは、記憶から消された場所だからな」
退助が静かに言った。湊は苦笑する。
「だから選んだのか。……いや、選ばされたのか」
その言葉に、退助は何も答えなかった。
旧実験棟は、静まり返っていた。照明は最低限。通路には薄く埃が積もっている。だが、電力は確かに生きている。
「閉鎖扱いのわりに、ちゃんと保守されていますね。」
湊の言葉に、退助は無言で頷く。誰かが、使っている。
「中央サーバ室はこの先だ。」
カードキーは、まだ通った。扉が重く開く。室内の空気は冷え、ラックに並ぶ旧式の演算ユニットが、低い唸りを上げている。湊はすぐに端末へ向かい、指を走らせた。
「ログ、あります。……消去痕も。」
退助の胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「いつだ?」
「天梯崩壊の、直後。」
二人は、顔を見合わせた。湊の指先が止まり、ゆっくりと画面を拡大する。
「これは……航法AIのサブルーチンですね。」
「播種船団の?」
「ええ。ですが、妙です。ここにあるはずのない派生コードが混ざっている。」
退助は、画面を覗き込む。見覚えのある、だが用途の違うアルゴリズム。航法補正ではない。意識誘導に近い、フィードバック構造。
退助の背筋が冷える。
「……人間用だ。」
湊が、静かに言う。
「神経応答の同期モデルです。これ……。」
そこで言葉が止まる。
退助の脳裏に、太一の姿が浮かぶ。虚ろな目。従順な態度。まるで、どこかに“導かれている”かのような振る舞い。
「太一の処置に……これが使われた?」
湊は、ゆっくりと頷いた。
「航法AIと、同じ原理で?」
室内の機械音が、やけに大きく響く。その瞬間、退助は、はっきりと理解した。原生圏が狙っているのは、単なる技術ではない。
人を、導く技術だ。そして太一は、その実験体だった。湊が、ふと呟く。
「冬馬は、これを知っていたんでしょうね」
退助は、奥歯を噛み締める。あの少年は、自分たちがここへ来ることを、最初から読んでいた。
「……誘導されたってことか。」
「ええ。ですが。」
湊は画面を見つめたまま、続ける。
「来なければ、気付けませんでした。」
退助は、拳を握る。怒りとも、焦りとも違う感情が、胸の奥で渦巻いている。そして、確かな実感があった。
太一の洗脳は、完全ではない。この仕組みなら――綻びは、必ず生まれる。
「原生圏の狙い、これじゃないですか?」
静寂が落ちる。ヘリウム3プラント。播種船団計画。そして、この航法AI。
退助は、ゆっくりと息を吐いた。
「だから天梯を壊したのか……」
湊が頷く。
「表を混乱させて、裏でこれを抜く。」
しばらく、二人とも画面を見つめていた。
退助の口から、ぽつりと漏れる。
「……太一の方が、こういうログ読むの得意だったんだけどな」
苦笑が浮かび、すぐ消えた。湊が言う。
「これ、上に出せますか?」
退助は首を振る。
「情報の出所を説明できない。俺たちの首が飛ぶ。」
「じゃあ?」
「まだ俺たちだけのカードだ。」
忘れ去られた海上施設の中で、二人は原生圏の“次の狙い”を、初めて具体的な形として掴んでいた。
8.
原生圏本部の回廊は、いつもと同じ静けさに包まれていた。だが、その静けさの中を歩く冬馬の足取りだけが、どこか軽い。無断外出を咎められることもなく、呼び止められることもない。それが、この場所の不気味さだった。見ていないのではない。見た上で、何も言わない。
角を曲がった先で、壁にもたれた少年がこちらを見ていた。
「遅かったね、冬馬。」
御影の声は淡々としているが、視線だけが鋭い。冬馬は肩をすくめる。
「ちょっと外の空気、吸ってただけ。」
「へえ。楽しかった?」
「まあね。」
短い沈黙。互いに探るような間。
御影が先に口を開いた。
「御前、機嫌良かったよ。太一くんの状態が安定してるから。」
冬馬は視線を逸らさずに言う。
「それでさ。ちょっと気になる話、聞いたんだけど。」
御影の目が、わずかに細くなる。
「どんな?」
「旧実験棟。まだ生きてるみたいだよ。」
その一言で、空気が変わった。
「……どこでそれを?」
「消したはずのログに、消し残りがあるって。航法AIのサブルーチンに、変なアクセス履歴があるらしい。」
御影は黙り込む。思考の速さが、その沈黙に滲む。
「それ、本当?」
「さあ。でも、もし本当だったらさ。」
冬馬はにやりと笑った。
「誰かが、あそこに入ったことになるよね。」
御影の中で、何かが繋がった。天梯崩壊の直後という時間。航法AI。旧実験棟。偶然ではない。
「確認する価値はあるね。」
「でしょ?」
御影はすぐに踵を返す。「太一くん、連れていく。」
「彼も?」
「彼は、航法系の処理が一番早いから。」
それは合理的な理由であり、同時に、御影にとっては当然の選択だった。
冬馬はその背中に声をかける。
「気をつけてね。もし誰か来てたらさ。」
御影は振り返らない。
「その時は、その時。」
軽い口調。だが、そこに迷いはない。回廊に一人残された冬馬は、小さく息を吐いた。
「……これで、動く。」
誰に聞かせるでもない独り言。
御影は気付いていない。自分が今、誰かの描いた線の上を、きれいに歩いていることに。そして太一も、気付かない。この動きが、やがて退助たちの元へと繋がっていくことに。
原生圏本部の発着デッキは、いつもと変わらず静かだった。人の気配はあるのに、音だけが吸い込まれていくような、妙な静寂。
御影は手すりに凭れ、下層の整備フロアを見下ろしていた。背後に立つ足音に、振り向かなくても分かる。
「……来たんだ、冬馬。」
「呼んだのは君だろ?」
軽い調子の声。けれど、そこに含まれる温度は低い。御影は小さく笑って、視線を戻した。
「例の話、詳しく聞かせて。」
「旧実験棟のこと?」
「うん。」
冬馬は隣に並び、同じように下を見た。しばらく沈黙が流れる。
「まだ電源、生きてるらしいよ。閉鎖扱いのくせに。」
「へえ?」
「しかも、最近ログが動いてる。」
御影の指先が、わずかに手すりを叩いた。
「誰かが使ってる?」
「さあ。でも、あそこにあるのは、深宇宙航法AIの旧系統だ。」
御影の瞳に、わずかな興味が宿る。
「播種船団の?」
「その原型。」
短いやり取り。子供同士のように簡素で、無駄がない。御影は少し考えてから、ぽつりと呟いた。
「確認する価値はあるね。」
「言うと思った。」
冬馬は横目で御影を見る。
「太一くん、連れてくの?」
「もちろん。」
迷いのない答え。
「彼は、僕のだから。」
その言い方に、冬馬は苦笑する。
「相変わらずだね。」
「なにが?」
御影は不思議そうな顔をしたが、深くは気にしなかった。
やがて、ゆっくりと踵を返す。
「準備する。小型艇出すよ。」
「早いな。」
「気になったら、すぐ見に行きたくなる性分なんだ。」
歩き出した御影の背中を、冬馬はしばらく見送った。そして、小さく息を吐く。
「……引っかかった。」
誰にも聞こえない声。視線を落とし、端末を開く。短いメッセージを一つだけ送信する。
――旧実験棟、確認に向かう。ーー
それだけ。
返事は来ない。けれど、それでいい。冬馬は端末を閉じ、ぽつりと呟いた。
「さあ、どっちが先に着くかな?」
この時、まだ誰も知らない。同じ頃、はるか下層の空域を、 退助の操縦する小型艇が、海面すれすれを滑っていることを。
御影も。太一も。そして退助も。ただ一人、冬馬だけが、その交差を知っていた。
9.
端末の表示を落とすと、室内の低い唸りだけが残った。退助は、しばらく画面の消えた黒を見つめたまま、動かなかった。
「……湊。」
「はい。」
「痕跡、消せるか?」
湊は頷き、すぐにキーボードへ指を戻す。操作は慎重だった。残されたログのうち、自分たちが触れた部分だけを丁寧に巻き戻していく。
「完全には消せません。ですが、ここに来た意図までは読ませない形には出来ます。」
「それでいい。」
退助は、ラックの間に目を走らせた。誰かがここを“使っている”。閉鎖されたはずの場所が、静かに生きている。だからこそ、長居は出来ない。
「帰るぞ。」
短い言葉に、湊は端末を閉じる。二人は来た時と同じように、静まり返った通路を戻った。足音がやけに響く。
格納デッキに出ると、潮の匂いが強くなった。波と風の音しかない世界。退助は振り返らなかった。ここは、もう役目を終えた。
知るべきことは、知った。
小型艇のハッチが閉まり、エンジンが低く唸る。機体はゆっくりと浮き、海面すれすれを滑るように離れていった。
それから、しばらくして。同じ格納デッキに、別の機体が降りる。音もなく、影のように。
ハッチが開き、先に降りたのは御影だった。続いて、無言のまま太一が降りる。
「……まだ電力、生きてる。」
御影は、周囲を見回しながら言う。まるで遠足に来た子供のような口調だったが、目だけは鋭い。
太一は何も言わない。ただ、静かに周囲を観察している。通路に入った瞬間、御影の足が止まった。
「……変だな?」
床を見下ろす。埃の薄い層が、わずかに乱れている。誰かが、歩いた跡。御影は、口元に小さな笑みを浮かべた。
「先客が居たみたいだね。」
太一の視線が、わずかに揺れる。
「彼ら、でしょうか?」
御影は軽く肩をすくめる。
「さあ。でも、こんな場所に来る理由がある人なんて、限られてる。」
二人は中央サーバ室へ入る。端末に触れた御影は、すぐに理解した。ログは自然だ。だが、不自然なほど自然だ。
「……触ってる。」
誰かが、ここを見た。何を見たかまでは分からない。だが、「見られた」ことだけは分かる。
御影は、くすっと笑った。
「動き始めたね。」
太一は、無言のままラックを見つめている。その胸の奥に、言葉にならないざわつきが生まれていた。見覚えが、ある。ここに来たことがあるはずなのに、思い出せない。知らないはずなのに、知っている気がする。
御影が振り返る。
「太一くん?」
太一は、ゆっくりと首を振った。
「……何でもありません。」
だが、その違和感は消えなかった。まるで、遠くから誰かに呼ばれているような、微かな感覚。御影はそれに気づかない。
「戻ろっか。ここは、もう役目終わってる。」
そう言って、軽い足取りで通路を引き返す。太一は最後にもう一度だけ、サーバラックを見た。
理由の分からない、胸の痛みを抱えたまま。
10.
旧実験棟から戻った翌朝。何事もなかったかのように、退助と湊は保安部のフロアに姿を現した。端末の起動音、行き交う職員の足音、書類をめくる音。日常の風景が、やけに遠く感じられる。
二人だけが、昨日までとは違うものを知っている。退助は自席に腰を下ろし、山のように積まれた未処理のデスクワークに目を落とした。
「……現実に引き戻されるな。」
「仕事があるうちは、まだ平和ということです。」
湊は淡々と端末を立ち上げる。その横顔はいつも通りだが、視線の奥だけが鋭い。退助は書類に目を通しながら、つい考えてしまう。
(太一の奴が居ればなぁ……)
手が止まり、苦笑が浮かぶ。すぐに表情を消し、ペンを走らせた。
しばらくして、湊が低い声で言う。
「裏ログの件、追加の痕跡がありました。」
退助は顔を上げない。
「ここでは言うな。」
「了解です。」
視線も交わさないまま、会話が途切れる。周囲から見れば、ただの業務連絡にしか見えない。
しばらくして、フロアの奥から、足音が近づいてきた。
「中島、宗像。」
二人同時に顔を上げる。そこに立っていたのは、鷹宮だった。五十を過ぎた頃の男だが、無駄のない身のこなし。二人を見る目は、相変わらず硬い。
「例の件の報告書は、まだか?」
「本日中に提出します。」
退助が即答する。鷹宮はしばらく二人を見比べてから、短く言った。
「妙な動きはするなよ。今は組織全体が、過敏になっている。」
その言葉に、わずかな含みを感じる。
「了解しました。」
鷹宮はそれ以上何も言わず、踵を返した。足音が遠ざかる。退助はペンを置き、小さく息を吐いた。
「信用、ゼロだな。」
「ゼロの方が、かえって動きやすいかもしれません。」
湊の言葉に、退助は片眉を上げる。
「どういう意味だ?」
「期待も監視も、まだ中途半端です。本気で疑われてはいない。」
退助は椅子に背を預け、天井を見上げた。
「……時間がないな。」
「ええ。」
湊は端末を閉じる。
「冬馬の情報が正しければ、もう動いているはずです。」
退助は視線を落とす。御影が動く。太一も、そこに居る。その想像だけで、胸の奥がざわつく。
「裏取り、今日中に進めるぞ。」
「はい。俺はログの照合を続けます。」
「俺はこの書類片付ける。表の顔も保たないと、余計に怪しまれる。」
退助は再びペンを握った。机の上では、平凡な日常が進んでいく。だが、水面下では、確実に歯車が噛み合い始めていた。
二人だけが知っている、次の嵐の気配とともに。
11.
昼を回った頃だった。保安部のフロアに、珍しくざわめきが走った。端末に一斉に通知が流れ、何人かが顔を上げる。遠くで誰かが小さく舌打ちをした。退助も、反射的に視線をモニタへ向ける。
「……査察?」
表示された文面を見て、思わず眉間に皺が寄る。
宇宙開発機構・技術部門より、航法系サーバへの不正アクセス痕跡について、保安部立ち会いの確認要請。
湊の指が、ぴたりと止まった。二人は、視線を合わせない。だが、同じ結論に辿り着いている。…旧実験棟。
「随分と、仕事が早いですね。」
湊が、ごく低い声で言った。退助は、わざとらしく書類に視線を落としたまま、答える。
「俺たちの痕跡を辿ったんじゃない。」
「ええ。」
「向こうも、気づいたんだ。」
誰かが、あそこを見たことに。それだけで十分だ。
しばらくして、フロアの奥が慌ただしくなる。鷹宮が戻ってきた。表情が、朝とは違う。
「中島、宗像。来い。」
二人は無言で立ち上がった。小会議室のドアが閉まる。 鷹宮は、タブレットを机に置いた。
「技術部門から直接要請だ。航法AI関連の旧施設に、最近誰かが立ち入った形跡があるらしい。」
退助は、少しだけ目を見開いた。
「旧施設?」
「海上浮遊プラットフォーム。閉鎖扱いだが、電源は生きている。」
湊が、さりげなく息を吸う。鷹宮は続ける。
「本来、保安部の管轄ではない。だが、不正アクセスの可能性がある以上、立ち会えと言ってきた。」
退助は、数秒の沈黙のあと、言った。
「いつですか?」
「今日だ。すでに向こうの艇が向かっている。」
その瞬間、退助の中で何かが繋がる。御影。太一。あそこを見たことに気づいたのは、向こうも同じ。そして今、公式の理由が出来て、再びあの場所に向かおうとしている。
湊が静かに言う。
「私たちを、わざわざ呼ぶ理由は?」
鷹宮は二人を見た。
「中島、お前は八木太一が消えた今、航法系の内部構造を知っている数少ない人間だ。俺が連れていく。」
退助は、目を伏せたまま小さく息を吐いた。冬馬は、ここまで読んでいたのか。自分たちがあそこに行き、向こうも気づき、そして公式の理由で、もう一度あの場所に集まる退助と湊が、表の立場のまま、そこへ行ける状況。
鷹宮が言う。
「何か心当たりはあるか?」
「いえ。」
退助は即答した。
「準備しろ。十五分後に出る。」
廊下に出た瞬間、退助が小さく呟いた。
「やられたな。」
湊が頷く。
「完璧に、誘導されています。」
「でも、乗るしかない。」
「ええ。これは、俺たちにとっても好機です。」
退助の胸の奥が、強く脈打っている。次にあそこへ行くとき、もう“空っぽの場所”ではない。
御影が来る。そして…太一も、来る。拳を握る。怒りでも焦りでもない、覚悟に近い感情。
「湊。」
「はい?」
「冷静にいけよ。」
「それは、あなたに言いたい台詞です。」
退助は、わずかに笑った。十五分後、三人を乗せた艇は発進する。行き先は、忘れ去られた旧実験棟。今度は、偶然ではない。意図された再訪。
そしてそこは、退助と太一が、初めて同じ場所に立つことになる舞台へと、変わろうとしていた。
12.
艇内は、ひどく静かだった。エンジンの低い振動だけが、床を通して伝わってくる。退助は操縦席に座り、視線を前方に据えたまま、ほとんど瞬きもしない。隣で鷹宮が端末を開き、技術部門から送られてきた資料に目を通している。後席の湊は、何も言わずにログの照合を続けていた。
誰も、あの場所のことを口にしない。だが、三人とも、同じ場所を思い浮かべている。やがて、海面の向こうに、灰色の直線と角で構成された影が浮かび上がった。
旧実験棟。
「……本当に、残っていたんだな。」
鷹宮が、低く呟いた。退助は答えない。減速しながら、半ば錆びたデッキへ艇を滑り込ませる。着地の衝撃が、わずかに伝わった。
「行くぞ。」
通路の空気は、昨日と変わらない。静かで、冷えていて、誰かの気配だけが薄く残っている。中央サーバ室へ向かう途中、退助は足を止めた。床に、わずかな水滴の跡。昨日は、なかった。
鷹宮が眉を寄せる。
「……他にも来ているな。」
湊が小さく頷く。
「ええ。しかも、つい先ほど。」
三人は、無言のまま歩みを速めた。カードキーを通す。重い扉が開く。
低い唸りが、床を震わせていた。旧実験棟の中央サーバ室。埃をかぶったはずの演算ラックが、今ははっきりと生きている音を立てている。
退助は、その音を知っていた。若い頃、この場所で何度も聞いた音だ。航法AIが、人間の挙動と同期し始めるときの、独特の負荷音。
目の前に立つ御影は、端末に触れている。だが、退助の目には分かる。あれは操作している振りだ。本当に“接続されている”のは――
御影のすぐ後ろに、丸裸に剥かれた姿のままで、拘束台に大の字体勢で繋がれている太一。虚ろな目。力の抜けた姿勢、全身に取り付けられたセンサー。けれど表情は恍惚にも似た悦びを、感じている者のそれで、彼の一部分は宙を仰いで反り返り、鼓動に合わせるかの様に脈打ち、そしてその先端は、滑りを帯びて糸を引いていた。退助の背筋に、冷たい衝撃が走った。
あの頃。パイロットの身体に取り付けられたセンサーを通して、AIが挙動を学習し、逆に補正を返してくる実験。人間が端末になる。
その中心に、太一がいる。
「確保する!」
背後で、鷹宮の鋭い声が飛ぶ。保安部の隊員たちが一斉に動く気配。
その瞬間、退助は叫んでいた。
「やめろ!!」
室内の視線が、すべて退助に集まる。
「ここで手を出したら、全部消える!」
唸りが、さらに一段階、高くなる。床の振動が強まる。その瞬間、太一の全身は、動ける筈も無い拘束の中で大きく仰け反り、宙を仰いで反り返った彼自身からは、白い迸りが、勢いよく溢れた。
御影が、薄く笑う。
「さすがだね、退助くん。」
子供のような声。けれど、その目は冷たい。
「ここがどういう場所か、ちゃんと分かってる。」
退助は歯を食いしばる。御影は最初からこれを分かって、この場所を選んだ。太一を、端末として立たせるために。
鷹宮が怒鳴る。
「どういうことだ、説明しろ!」
「太一が回線になってる! あいつを刺激したら、この施設のログも、データも、全部飛ぶぞ!」
そして太一の命も……湊がはっと息を呑む。御影は端末から手を離した。
「もう終わってるよ。」
その言葉と同時に、唸りがすっと静まる。太一の身体が、ほんのわずか、揺らぐ。そのときだった。太一の視線が…動いた。
一瞬だけ。御影ではなく、退助の方へ。焦点の合わない目が、かすかに揺れ、涙が滲んだ。退助は、それを見た。確かに見た。
「……太一?」
声が、漏れる。御影はそれに気づいていない。けれど退助には、はっきり分かった。今のは、反応だ。命令でも、同期でもない。太一自身の、微かな反応。
「行こう、太一くん。」
御影が優しく言う。拘束を解かれた太一は、裸のまま従順に頷き、後ろに下がる。その姿は、完全に操られているように見える。だが退助の胸の奥には、別の確信が生まれていた。
(完全じゃない)
御影と太一の姿が、暗い通路の向こうへ消えていく。誰も追えない。追ってはいけない。鷹宮が低く唸る。
「なぜ止めた?中島。」
退助は、ゆっくりと息を吐いた。
「今は、捕まえる時じゃない。」
視線は、太一が消えた先に向けたまま。
「戻す時です。」
湊が、黙ってその横顔を見る。旧実験棟の静寂の中で、退助の中だけに、はっきりとした手応えが残っていた。太一の洗脳には、綻びがある。そして御影は、それにまだ気づいていない。
だが退助の中では、確かな確信だけが、強く灯っていた。
13.
旧実験棟から戻ったのは、日付が変わる頃だった。誰も多くを語らないまま、三人は保安部のフロアに戻ってきた。夜間照明に落とされた室内は、昼間とは別の場所のように静まり返っている。端末の待機灯だけが、ぽつり、ぽつりと光っていた。
鷹宮は入口のところで立ち止まり、短く言った。
「今日はもう上がれ。報告は、明日でいい。」
いつもの硬さは、そのままだったが、声の奥にだけ、わずかな疲労が滲んでいる。
「了解しました。」
退助と湊は頷く。鷹宮はそのまま奥のオフィスへ消えていった。二人だけが、フロアに残る。
退助は自席に腰を下ろした。目の前には、見慣れた机。見慣れた端末。見慣れたマグカップ。その隣の席に、誰もいないことだけが、やけに現実感を伴って迫ってくる。
湊は少し離れた場所から、その背中を見ていた。
「……見ましたね。」
静かな声に、退助は頷く。
「ああ。」
「俺も、見ました」
太一の、ほんの一瞬の視線。あれは、偶然ではない。退助は、ゆっくりと机の上に肘をついた。
「完全じゃない。」
「ええ。」
湊が隣の椅子に腰掛ける。
「冬馬の言っていた通りです。」
退助は小さく笑った。
「とんでもない奴だな、あのガキは。」
「敵なのか、味方なのか、まだ分かりません。」
「どっちでもいいさ。」
退助は天井を見上げる。
「太一に、綻びがあるって分かった。それだけで、十分だ。」
沈黙が落ちる。夜の保安部は、まるで時間が止まっているようだった。湊が、ぽつりと呟く。
「御影は、気づいていませんでしたね。」
「ああ。気づいてない。」
退助の声は、どこか確信を帯びていた。
「だから、まだ間に合う。」
その言葉には、もう迷いがなかった。絶望の中で立ち尽くしていた男の声ではない。
取り戻す方法を、見つけた人間の声だった。
湊は、静かに頷く。
「次の一手を、考えましょう。」
「ああ。」
退助は立ち上がり、太一の空席を一度だけ見た。椅子は、あの日のまま半歩引かれている。
「待ってろよ。」
声には出さず、心の中だけで呟いた。そして二人は、夜の保安部を後にした。廊下の照明が、背後で一つずつ消えていく。
だが退助の胸の奥では、小さな灯が、確かに消えずに残っていた。
お待たせしました、中の人です。
第三話、なんとかお届け出来ました、いかがでしたでしょうか?
なにやら、作者も知らない謎が(笑)持ち上がってきましたが、まぁ
こう言う事は、もったいぶった方が、何かありそうで良いでしょ?
次は四天王の残り(失礼!)二人を出せれば良いな等と思いながら
また、気長にお待ち下されば、嬉しいです。
ありがとうございました。




