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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: 仁科異邦


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第四十三話 二人で迎える春

春が来た。

公爵邸の庭の木々が、少しずつ芽を出し始めた。

温室の花が、冬より明るい顔をするようになった。


リリエラは毎朝、その変化を見るのが好きになっていた。

昨日より、少し緑が増えている。

昨日より、少し花が開いている。

小さな変化が、毎日あった。

帳簿と似ていた。

毎日少しずつ積み重なって——気づいたら、全然違う景色になっている。


領地への再訪が決まったのは、三月に入ってからだった。

「春の農作業が始まる前に——挨拶に行きたい」

公爵が言った。

「はい」

「今回は、少し長く滞在する。一週間ほど」

「一週間」

「長いか」

「長くないです。嬉しいです」

「帳簿の道具も、持ってくるか」

「もちろん」

「一週間あれば、かなり見られる」

「全部見ます」

「全部か」

「全部見たいです」

公爵が目を細めた。


「楽しみか」

「とても」

「そうか」

公爵が少し間を置いた。


「あの子が——覚えているといいが」

「あの子、というのは」

「花をくれた子だ」

リリエラは少し驚いた。

公爵が、あの子のことを覚えていた。

当たり前かもしれなかった。でも——この人が、小さな女の子のことを覚えていて、気にかけていることが——なんだか嬉しかった。


「覚えていると思います」

「そうか」

「あんな渡し方をした子が、忘れるとは思えないので」

「あんな渡し方、というのは」

「特別な人だけに摘む花、だと聞いたので」

公爵が少し間を置いた。

「……そうだな」

「覚えていますよ、きっと」


出発は、四月の初めだった。

馬車が北に向かった。

窓の外の景色が、前回と全然違った。

冬枯れだった木々が、芽吹いていた。

畑が、準備を始めていた。

土の色が、生きていた。 


「綺麗ですね」

リリエラが言った。

「冬より、いいか」

「どちらも好きです。でも——春は、動いている感じがします」

「動いている?」

「冬は、じっと待っている感じで——春は、一斉に動き出す感じで」

「帳簿で言えば」

「年度初めです」

「なるほど」


「一年分の数字が、これから積み重なっていく感じがします」

公爵が窓の外を見た。

「……あなたは、何でも帳簿に結びつけるな」

「好きなので」

「そうだな」

「変ですか」

「変ではない」

「よかったです」

「ただ」

「ただ?」

「春の景色を見て、帳簿を思う人は——そう多くない」

「少数派ですか」

「かなり」

「……レオンハルトは、春を見て何を思いますか」

公爵がしばらく考えた。

「動き出す、と思う」

「私と同じですね」

「そうかもしれない」

ふたりで、窓の外を見た。


芽吹いた木々が、後ろへ流れていった。

「一つ、聞いていいですか」

リリエラが言った。

「なんだ」

「公爵は——春が好きですか」

「好きだ」

「なぜですか」

「エレナが——春が好きだったから、始めは春が辛かった」

リリエラは黙って聞いた。

「でも——いつからか、辛くなくなった」

「いつ頃から」

「……あなたに会ってから、かもしれない」

「私に?」

「あなたが来てから、この屋敷の春の見え方が変わった。温室も、庭も」

リリエラは窓の外を見た。

流れていく景色を、しばらく見た。


「……嬉しいですが」

「なんだ」

「エレナさんの春が、上書きされてしまうのは——どうかな、と思って」

公爵が少し止まった。

「上書きではない」

「そうですか」

「重なる、という感じだ」

「重なる」

「エレナの春が——あなたの春と、重なっている。どちらも消えていない」

リリエラは少し間を置いた。


「……それは、いい重なり方ですね」

「そう思っている」

「私も——そう思います」

馬車が丘に差しかかった。

遠くに、領地が見えてきた。

冬とは全然違う緑が、広がっていた。

「——綺麗だ」

公爵が、小さく言った。

リリエラは公爵を見た。

窓の外を見ている横顔が——少し、柔らかかった。

春が、辛くなくなった人の顔だった。


領地に着いたのは、昼過ぎだった。

馬車を降りたとき——前回と同じように、村の入り口に人が集まっていた。

でも今回は、少し違った。


前回は「公爵の婚約者」として来た。

今回は「公爵夫人」として来た。

その違いが、自分の中で何かを変えていた。

怖さの種類が、違った。

前回は——受け入れてもらえるかどうかが、怖かった。

今回は——ちゃんとここを守れるかどうかが、怖かった。

責任の重さを、少し感じていた。


「大丈夫か」

公爵が小さく言った。

「はい。ただ——少し、重くなりました」

「何が」

「ここを守ることへの気持ちが」

公爵がリリエラを見た。

「それは——いいことだ」

「怖いですが」

「怖いまま、でいい」

「はい」

「重くなったなら——それだけ、本気になったということだ」

リリエラは村を見た。

人々が待っていた。

「——行きましょう」

「ああ」


挨拶をして回った。

農家の人たちと話した。

帳簿のことを聞いた。

今年の作付けの話を聞いた。

前回と違うのは——リリエラの側に変化があった。

前回は、ただ聞くだけだった。


今回は——帳簿で見た数字と、目の前の景色が、頭の中で重なった。

この畑が、去年の収支のこの数字だった。

この人が、あの項目の担い手だった。

数字と人が、地続きになっていた。

「奥様」

農家の男性が言った。


「この間の——収支の報告書、よかったですよ」

「そうでしたか」

「クロワ男爵経由で見せてもらったんですけど——わかりやすくて。何がどこにいくら使われているか、はっきりして」

「ありがとうございます」

「前より、安心できます。ちゃんと見てもらえている気がして」

リリエラは少し驚いた。

帳簿を整理することが——ここにいる人に、こう届くのか、と思った。

数字は数字だけど——その先に、安心がある。


「これからも——ちゃんと見ます」

「ありがとうございます、奥様」

その「奥様」という言葉が——王都で聞くのと、少し違って聞こえた。

重かった。

でも——温かかった。


夕方、村を歩いていたとき。

遠くから、小さな影が走ってくるのが見えた。

速かった。

まっすぐこちらに向かってきていた。

「——おねえさん!」

声がした。

リリエラは足を止めた。

女の子が、息を切らして目の前で止まった。

去年、花をくれた女の子だった。

少し背が伸びて、髪が少し長くなっていた。


でも——顔は、あのときのままだった。

「覚えていてくれましたか」

「覚えてる!」

「よかった」

「おねえさん、また来てくれた」

「来ると言いましたから」

「うん!」女の子が少し照れたように俯いた。「……また来てくれると思ってた」

「信じてくれていたんですか」

「うん。だって——おねえさん、本当のことしか言わなそうだから」

リリエラは少し驚いた。


五歳か六歳の子が——そういうことを、言ってくれた。

「……ありがとうございます」

「えへへ」

女の子がポケットをごそごそした。

取り出したのは——小さな花だった。

野の花だった。

でも今回は、くたっとしていなかった。

摘みたてのような、新鮮な花だった。


「また来てくれたから、また摘んだ」

「——ありがとうございます」

「またしまっておいて」

「押し花にします」

「前のは?」

「手帳に挟んであります、今でも」

女の子が、ぱっと笑った。

その笑顔が——去年と同じだった。

何も変わっていなかった。

この一年、色んなことがあった。


公爵と出会って、婚約して、戦って、泣いて、笑って、選んで、式を挙げて——ここまで来た。

でも、この子の笑顔は、何も変わっていなかった。

変わらないものがある、ということが——たまらなく、嬉しかった。

「お名前、聞いてもいいですか」

「ロータス」

「ロータスさん」

「うん。おねえさんは?」

「リリエラです」

「リリエラおねえさん」

「はい」

「また来る?」

「来ます。何度でも」

「本当に?」

「本当に」

「——じゃあ、また花を摘んでおく」

「ありがとうございます」

ロータスが、また走っていった。


速かった。

あっという間に、人垣に消えた。

公爵が隣に来た。

「覚えていたな」

「覚えていてくれました」

「名前も知らなかったのか」

「初めて聞きました」

「ロータス、か」

「はい」


公爵がロータスが消えた方向を見た。

「——来年も、覚えているだろう」

「そうだと思います」

「再来年も」

「きっと」

「あの子が大きくなっても——あなたのことを、覚えているだろう」

リリエラは手の中の花を見た。

摘みたての、新鮮な小さな花だった。

「……そうだといいです」

「そうなる」

「どうしてわかるんですか」

「あなたが、覚えておくから」

リリエラは公爵を見た。


「私が覚えておくから——あの子も覚えている?」

「そういうものだ」

「そうでしょうか」

「そうだ。大切にしてもらっている人は——大切にしていることを、感じ取る」

リリエラは花を見た。

本当のことは、伝わる。

前にも、そう思った。

今日も、そう思う。


「——押し花にします」

「ああ」

「前の花の隣に、挟みます」

「そうしなさい」

「来年来たとき、また摘んでもらえるように」

「もらえる」

「約束ですか」

「約束だ」

ふたりで、村を歩いた。


春の夕暮れが、領地を染めていた。

金色の光が、畑の上に広がっていた。

「レオンハルト」

「なんだ」

「来てよかったです」

「毎回そう言うな」

「毎回、そう思うので」

「そうか」

「来るたびに——ここが好きになります」

「来るたびに?」

「はい。前より少し、好きになります。毎回」

公爵が、リリエラを見た。

「……そうか」

「はい」

何も言わなかった。


でも——目が、少し動いた。

感情が、少し——表に出た。

それを見て、リリエラは思った。

この人も、毎回——少し変わっているのかもしれない。

私が気づかないくらい、ゆっくりと。

でも確かに、変わっている。


春の風が吹いた。

領地の草が、一斉に揺れた。

金色の光の中で、ふたりは歩き続けた。


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