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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: 仁科異邦


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夜の領地で

領地での二日目の夜。


この地を治める公爵夫妻を歓迎するため、村の広場ではささやかな、けれど温かな宴が催されていた。


広場の中央には大きな焚き火が赤々と燃え、その周りを子どもたちが笑い声を上げながら駆け回っている。

串に刺して焼かれた肉の匂い、芳醇なエールの香り、そして楽師たちが奏でる素朴な旋律。


王都の洗練された夜会とは対極にある、泥の匂いと生命力に満ちた賑やかさがそこにはあった。


リリエラは、農家の女性たちに囲まれていた。 「奥様、今年の作付けはどうすればいいか相談に乗ってくださるって本当ですか?」

「帳簿の数字がどうしても合わなくて……。読み方を教えていただけないでしょうか」


「子どもたちが読み書きを学べる場所があればいいのですが」

次々と投げかけられる切実な願いや希望を、リリエラは一つひとつ丁寧に、手元の小さな手帳に書き留めていく。


彼女にとって、これは単なる「奥方の公務」ではなかった。

自分に何ができるのか、この場所でどう生きていくのかを見出すための、大切な対話だった。


ふと視線を上げると、広場の端、少し影になった席に公爵——レオンハルトが座っていた。

彼は喧騒から一歩引いた場所で、静かに村人たちの様子を眺めている。

誰かに話しかけられれば、短く、けれど拒絶の色は見せずに言葉を返していた。

しかし、自らその輪の中に飛び込んでいくことはなかった。


宴が終わり、夜が深まると、満足げな顔をした村人たちは一人、また一人と帰路についた。

後片付けの指示を出していた執事のクロワも、二人の空気を察したのか、「先に屋敷へ戻っております」と告げて、音もなくその場を去っていった。


後に残されたのは、焚き火の消えかけた残火と、並んで置かれた二つの椅子。

そして、リリエラとレオンハルトだけだった。 領地の夜は、驚くほど静かだ。


遠くで川のせせらぎが聞こえ、春の夜風が草木を揺らす音が耳に届く。

「楽しかったですか?」 リリエラが隣の彼に問いかけた。


「ああ。……良い宴だった」

「ずっと端の方で、見守るように座っていらっしゃいましたね」

「賑やかなのは——少し、苦手だ。特に子どもが多いと、どう振る舞えばいいのかわからなくなる」

「子どもが苦手なのですか?」


「き、嫌いなわけではない」

レオンハルトは少し言葉を切り、言葉を選び直すように続けた。

「……あの騒がしいほどの活気は、見ていて心地よいとは思う。だが、自分がその中に入っていっていいものか、戸惑うのだ。私が入れば、あの調和を乱してしまうのではないかと」


「その感覚、わかります」

リリエラの言葉に、レオンハルトは意外そうに目を向けた。


「わかるのか?」

「はい。以前の私もそうでした。賑やかな場所ではいつも壁際や端の方にいて……誰かが声をかけてくれるのを待っているような。自分はあの中の一員ではないような、そんな疎外感を感じていた時期がありました」


「……今のあなたからは、想像もつかないな。何がきっかけで変わった?」

リリエラは少し考え、夜空を見上げた。


「震えながらでも、言いたいことを言えた経験だと思います。あの夜会で、私は震えながら声を上げました。あの瞬間が、私の中にあった壁を少しだけ壊してくれた気がするのです」


レオンハルトは黙って夜空を仰いだ。

「私には……そういう経験がなかった。言いかけては止まる。それを繰り返しているうちに、どう言葉を繋げればいいのか、わからなくなってしまった」


「でも、今は止まらなくなりましたよね」

「……あなたの前では、な」

「それで十分だと思いますよ。すべての人にすべてをさらけ出す必要なんてありません。大事な人に、大事なことを言える。それだけで、人生は十分に足ります」


春の風が吹き抜け、レオンハルトの漆黒の髪を揺らした。

冬の冷たさを脱ぎ捨てた、柔らかな風。

「リリエラ。……一つ、話してもいいか。誰にも、クロワにすら話したことがない話だ」

「聞きます。夜はまだ長いですから」


レオンハルトは視線を遠くへ投げ、記憶の底をさらうように語り始めた。

「この領地に初めて来たのは、七歳のときだった。父に連れられてな。初めて見た自分の領土は……あまりにも広くて、怖かった。いつかここを背負うのかと思うと、足がすくんだのを覚えている」

「お父様は、どのような方だったのですか?」


「厳格な人だったが、領民を心から愛していた。農家の主の名前を全員覚え、子どもが生まれれば祝いに行き、病人が出れば自ら薬を届けた。……私は、そんな父のようにはなれないと、ずっと思っていた」


リリエラは、彼の横顔をじっと見つめる。

「今日も、あなたは端にいました。でも、農家の男性が言っていましたよ。『公爵様が出してくださる帳簿の報告書は、数字が細かくて、俺たちの苦労をわかってくれているのが伝わってくる』と」


「……そうか」

「お父様は顔を合わせることで愛を伝えたけれど、あなたは『誠実な管理』という形で、彼らの生活を守っている。やり方は違っても、大切に思っている心に変わりはありません」


レオンハルトは小さく、けれど重い吐息を漏らした。

「……父は、そうは言わなかった。もっと顔を見せろ、言葉で伝えろと言われた。だが、私にはできなかった」


「できなかったのではなく、あなたのやり方が他にあることを、お父様もご自身も気づいていなかっただけです」

「同じことだ。結果として、期待には応えられなかった」


「違います。できないというのは、能力の欠如です。でもあなたは、帳簿を通じて対話することを選んでいた。それは選択の結果です。自分を責めるか、認めるか。その違いだけですよ、レオンハルト」


彼は、何かに打たれたようにリリエラを見た。 沈黙が流れる。遠い川の音だけが、二人の時間を繋いでいた。

「……父が亡くなったとき、もっと話しておけばよかったと思った」

彼の声が、かすかに震え始める。

「言いかけて止めた言葉が、山ほどあった。……エレナのときも、同じだった。大事な人を、二度も。何も伝えられないまま、永遠に失ってしまった」


それは、彼の胸の奥でずっと膿んでいた傷口だった。

「だから、怖くなったのだ。また同じことを繰り返すのが。言いたいことが言えないまま、あなたがどこかへ行ってしまうのが」


「ああ。……エレナの墓前で、あなたが来たことを報告したのも……そうしなければ、また私は黙り込んでしまうと思ったからだ」


レオンハルトは自嘲気味に笑った。

「情けない話だ。公爵ともあろう男が、言葉一つ出すのにこれほど怯えている」


「情けなくなんてありません。それは、あなたがそれだけ誠実に、人を愛そうとしている証拠です」

「変われただろうか。私は……少しでも、まともな人間になれているだろうか」

「変われています」 リリエラは、確信を持って即答した。

「今夜、こうして私の前で、その弱さを話してくれているからです」


レオンハルトは言葉を失い、視線を落とした。 しばらくして顔を上げた彼の瞳は、夜露のように濡れていた。


けれど、何年もせき止めてきた感情が、今まさに決壊しようとしているのがわかった。

「……情けないな。泣きそうになるなど」


「いいんですよ」

「男が、大の大人が……」

「関係ありません。レオンハルト」 リリエラは彼の名を呼び、そっと彼の手の近くに自分の手を置いた。

「**泣いていいんです。私の前では。**あなたがかつて私に、『一緒に泣いていい』と言ってくれたように。今度は、私があなたの涙を預かります」


レオンハルトは長い間、リリエラを見つめていた。

そして、ゆっくりと、深く息を吐き出した。

結局、彼は泣かなかった。

けれど、その表情からは長年彼を縛り付けていた呪縛が解けたような、清々しい安らぎが浮かんでいた。


「……ありがとう。今夜、話せてよかった」

「私もです。あなたのことを、もっと知りたいと思っていましたから」

「まだ、知らないことがあるか?」


「たくさんあります。好きな食べ物とか、昔見た景色とか。これから、一生かけて教えてください」 「……ああ。約束だ」


「リリエラ。少し、冷えてきたな」

「そうですね。……でも、もう少しだけ、こうしていてもいいですか? この空が、とても好きなんです」

二人は再び、空を見上げた。


領地の夜空は、王都のそれよりも深く、吸い込まれるような濃紺をしている。

そこへ、無数の星々がこぼれ落ちそうなほどに瞬いていた。

「……あ、今、流れましたね」

「ああ、見えたな」


「何か願いましたか?」

「いや。何も」

「なぜですか? せっかくの流れ星なのに」

レオンハルトは真顔で、けれどその瞳をかつてないほど柔らかく細めて言った。


「……もう、全部叶ったからな」

リリエラは、不意打ちを食らったように彼を見た。

「……それは、あまりにずるい言い方です」

「ずるくない。本心だ」


「それがずるいんです。……そんなことを言われたら、私は……」

レオンハルトは、小さく笑った。

それは微笑みというよりも、心の底から漏れ出したような、確かな笑い声だった。


リリエラが初めて聞く、彼の本当の笑い声。 二人の笑い声が、夜の静寂に溶けていく。


その夜、リリエラは自室に戻り、ランプの明かりを頼りに手帳を開いた。


領地二日目。

村の宴。子どもたちの笑い声。 農家の女性たちが教えてくれた、この地の暮らしの厳しさと喜び。 全てを大切に守っていこうと心に決める。

夜、レオンハルトと二人で話した。 彼の孤独、お父様への想い、そして癒えない後悔。 彼は「情けない」と言ったけれど、私には誰よりも高潔で優しい人に見えた。

彼の笑い声を、初めて聞いた。 星が流れる空の下、「もう願いたいものはない」と言った彼の横顔。 私も同じだ。

この空を、来年も、再来年も、ずっと二人で見よう。 何度でも約束を重ねていこう。

春の風は、もう冷たくない。


リリエラは手帳を閉じ、窓の外を見た。

そこには、さっきまで二人で見上げていたのと同じ星空が、静かに、けれど力強く広がっていた。


変わらない空の下で、二人の物語は、少しずつ、けれど確実に色を変えながら続いていく。


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