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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: 仁科異邦


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第四十二話 頑張りすぎなくていい

温室で花に水をやっていたとき、ふと——公爵のお母様はどんな人だったのだろう、と思った。

この花を選んで、この温室を作った人。

花の扱いは不器用だったけど、毎日来ていた人。


会ったことはない。でも——手入れをするたびに、その人の痕跡に触れる気がした。

水差しの置き場所。棚の高さ。窓の角度。

全部、誰かが決めたことだった。


誰かの好みが、ここに残っていた。

大切にしよう、と思った。

残ってきたものを、これからも残していこう、と。


昼前に、フランシスが突然やってきた。

農業省に書類を出しに来た帰りだった。近くまで来たから、と言っていた。

でも——リリエラには、それだけじゃないとわかった。

顔を見に来てくれたのだ。


黙って心配して、連絡するのも照れくさくて、でも気になって——それで来てくれた。

そういう人だった、兄は昔から。

お茶を飲みながら、他愛のない話をした。

父の容体のこと。母が最近少し外出するようになったこと。フランシス自身が農業省で知り合いができたこと。


大きな話は何もなかった。

でも、この時間が——温かかった。

新しい場所に来て八日経っても、昔からの場所と繋がっていられる。

それだけで、十分だった。


帰り際、フランシスが廊下で公爵と会った。

「公爵閣下お邪魔しました」

「フランシスさんまた来てください」

「……いいんですか?」

「リリエラが嬉しそうにするので」

フランシスが固まった。

リリエラも固まった。

公爵は真顔だった。


「——いい人だな、やっぱり」

フランシスが小さく言った。

玄関を出て、馬車に乗り込む前に振り返った。

「幸せそうでよかった」

それだけ言って、馬車が動き出した。

リリエラは見送りながら——鼻の奥が、少しつんとした。


問題が起きたのは、その午後だった。

資料室で、三年前の帳簿の訂正作業をしていたとき。

窓から差し込む冬の日差しが、だんだん傾いてきていた。

どのくらい経ったか、気づいていなかった。

朝から何も食べていないことも、気づいていなかった。

数字に入り込むと——時間も、体の感覚も、薄くなる。


昔からそうだった。

立ち上がろうとしたとき、視界がぐらっとした。

棚に手をついた。

頭が、重かった。

「リリエラ」

振り向いたら、公爵が扉のところに立っていた。

いつ来たのか、わからなかった。

「——顔色が悪い」

「少し、立ちくらみで」

「いつから作業していた」

「朝から」

「食事は」

「……あとで、と思っていたら」

公爵の顔が変わった。


怒っているのではなかった。

でも——怖い、という感情が、珍しくはっきりと顔に出ていた。

感情を表に出さない人が、出していた。

「来い」

「でも、まだ途中で」

「いいから来い」

「あと少しで」

「リリエラ」

公爵がリリエラの前に来た。


棚についていた手を、そっと取った。

「続きは、明日でいい」

「でも」

「倒れてからでは——遅い」

その声が、低かった。

低くて——少し、震えていた。

震えていた。

この人が、震えていた。


「……ごめんなさい」

「謝らなくていい」

「でも、心配させました」

「させた。それは——後で話す」

「後で?」

「今は——食事を取りなさい」

公爵がリリエラの手を引いた。


引かれながら、廊下を歩きながら——リリエラは思った。

この人は、怖い顔をするのだ。

失うことを、怖がる顔を——する人なのだ。

わかっていたはずだった。

でも今日、初めて——その顔を、はっきりと見た。


食堂で、温かいスープを出してもらった。

公爵が向かいに座っていた。

リリエラが食べるのを、黙って見ていた。

スープを半分飲んで、少し頭が軽くなった。

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい、と言った」

「でも」

「ただ——」

公爵が言った。

「一つだけ、言っていいか」

「はい」

「体のことは——私に言いなさい」

「言っていなかったわけでは」

「気づいていなかったのだろう、自分で」

「……そうかもしれないです」

「気づかないなら——私が気づく。だから、そばにいなさい」

リリエラはスープを見た。


温かかった。

体の中に、温かさが戻ってきていた。

「レオンハルト」

「なんだ」

「怖い顔をしていました、さっき」

「……そうか」

「初めて見ました」

「そうか」

「怖かったんですか」

公爵が少し間を置いた。


「怖かった」

「何が」

「棚に手をついているあなたを見て——」

止まった。

続きは、言わなかった。

でも——言わなくても、わかった。

失うことが、怖かったのだ。


またあの感覚が来るかもしれない、と——体が、先に反応したのだ。

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい」

「でも、怖い思いをさせました」

「させた」

「次からは——気をつけます」

「気をつけてくれ」

「一人で抱え込まない、とも言ってくれましたよね、前に」

「言った」

「体のことも、同じですね」

「同じだ」

リリエラはスープを飲んだ。


「レオンハルト」

「なんだ」

「心配してくれてありがとうございます」

「当たり前だ」

「当たり前でも——嬉しいです」

公爵が少し目を細めた。

窓の外に、夕暮れが始まっていた。

オレンジの光が、食堂に差し込んでいた。


「食べ終わったら——休みなさい」

「でも夕食の準備が」

「任せればいい」

「でも」

「リリエラ」

「はい」

「あなたが倒れたら——私が困る」

「困りますか」

「非常に困る」

「非常に、というのは」

「この屋敷で、一番大事な人が倒れたら——困る」

リリエラは俯いた。

頬が、じわじわと熱くなった。


「……そういうことを、食堂で言わないでください」

「本当のことだ」

「それはそうですが」

「言いかけたら止まらない」

「その約束、本当に使いすぎですよ」

「有効だから使う」

リリエラは顔を上げた。

公爵が、こちらを見ていた。

怖い顔は、もうしていなかった。


いつもの、静かな顔に戻っていた。

でも——目が、温かかった。

「……わかりました。今日は休みます」

「そうしなさい」

「その代わり」

「なんだ」

「明日、続きをやらせてください」

「体調が戻ったら」

「戻ります」

「戻ってから」

「……はい」

スープを飲み切った。

温かさが、体の中に広がっていた。


夕方、部屋で横になった。

眠るつもりはなかった。

でも——気づいたら、眠っていた。


目が覚めたとき、部屋が暗かった。

夜になっていた。

机の上に、何かがあった。

起き上がって見た。

夕食が置いてあった。

温かいままだった。

蓋をされていた。


いつ置かれたのか、わからなかった。

でも——置いてくれた人は、わかった。

リリエラは蓋を取った。

温かい料理が、静かにそこにあった。

この人は——ずっと、こういう人だった。

さりげなく、でも確かに、そこにいる。

ずっと、そうだった。


食べながら——今日のことを思い返した。

怖い顔をした公爵を。

震えていた声を。

「一番大事な人が倒れたら困る」という言葉を。

全部、温かかった。

怖い顔でさえ——温かかった。


夜、手帳を開いた。

兄様が来た。 幸せそうで、よかった、と言ってくれた。 資料室で立ちくらみがした。 公爵が、怖い顔をした。 初めて見た顔だった。 失うことを怖がる顔だと、わかった。 目が覚めたら、夕食が置いてあった。 さりげなく、でも確かに—— そこにいてくれる人だった。 最初から、ずっと。


書き終えて、窓を開けた。

冬の夜の空気が入ってきた。

星が出ていた。

大事にされている。

ちゃんと、大事にされている。

それが——怖くなくなってきていた。

受け取ることが、怖くなくなってきていた。

以前は、大事にされることが怖かった。

いつか終わるかもしれない、と思っていたから。


でも今は——終わらないと、思えてきていた。

根拠はなかった。

でも——そう思えることが、一番の根拠だった。

窓を閉じた。

手帳を閉じた。


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