第四十一話 使用人たちとの距離
新婚生活が始まってから、ちょうど一週間が過ぎた。
リリエラはようやく、この広大で静謐な公爵邸の間取りを、地図なしで歩けるようになってきた。
最初は、曲がる角すべてが鏡合わせの迷宮のように思えたものだが、今は違う。
廊下の角を曲がるたびに、心の中で小さく答え合わせをする。
「右に曲がれば、重厚な扉の奥に主人の書斎。左に曲がれば、革の匂いが立ち込める資料室。そして真っ直ぐ進めば、朝の光が降り注ぐ温室……」
呪文のように唱えながら歩くその足取りは、数日前よりもずっと軽い。
この屋敷の空気は、最初は冷たく、よそよそしいものに感じられた。
磨き抜かれた床、一点の曇りもないシャンデリア、そして音もなく動く使用人たち。
すべてが完成されており、新参者のリリエラが入り込む隙間などないように思えたのだ。
けれど、毎日同じ道を歩き、同じ柱の傷や、同じ窓から見える庭の景色を確認していくうちに、その冷たさは少しずつ和らいでいった。
場所が、物理的な空間から「自分の居場所」へと、ゆっくりと染み込んでいく。
そんな確かな手応えを、彼女は慈しんでいた。
使用人たちとの距離も、当初は絶望的なほどに遠かった。
彼らは完璧だった。礼儀正しく、恭しく、そして、徹底的に無機質だった。
リリエラが何を頼んでも「かしこまりました、奥様」という完璧な回答が返ってくる。
けれど、その言葉の裏には、彼女を「公爵邸の新しい主」として品定めするような、あるいは単なる「記号」として扱うような、見えない壁があった。
「無理もないわ」
リリエラは鏡に向かって自嘲気味に呟いたこともある。 結婚で突然やってきた、縁もゆかりもない娘だ。
彼らにしてみれば、自分たちの平穏な秩序を乱す異分子でしかない。
自分だって、この生活に慣れるのに必死なのだ。相手にだけ歩み寄りを求めるのは酷というものだろう。
変化の兆しが訪れたのは、五日目の朝のことだった。
リリエラは日課になりつつある温室の散策を楽しんでいた。
そこには、彼女の故郷にも咲いていた「青い小花」が植えられていたのだ。
愛おしさのあまり、リリエラは備え付けの水差しを手に取り、その花に水をやった。
「奥様」 背後から、低く落ち着いた声がした。 振り返ると、銀髪をきっちりと結い上げた年配の使用人が立っていた。
彼女はこの屋敷で長く勤める、使用人たちの精神的支柱のような女性だ。
「その花は、水をやりすぎると根が傷んでしまいます」
マーサの言葉は、相変わらず事務的で、しかしどこか指摘が鋭かった。
「あ……そうだったのですね。ごめんなさい、よかれと思って」
リリエラが慌てて手を止めると、マーサは無表情のまま歩み寄り、リリエラの手から水差しをそっと受け取った。
「このくらい、わずかな傾きで十分なのです。土の表面が湿る程度に」
彼女は手本を見せるように、手慣れた動作で水を注いだ。
「ありがとうございます。私、この花が大好きで……でも、育て方は知らなかったわ」
リリエラが素直に礼を言うと、マーサの厳しい目元が、ほんの一瞬だけ、ふっと緩んだ。
「……亡くなられた大奥様も、最初は同じことをされていました」
「公爵様のお母様も?」 意外な名前に、リリエラは目を丸くした。
厳格で完璧だったと聞く先代公爵夫人が、自分と同じ失敗をしていたなんて。
「はい。最初の年は、何度か枯らしてしまわれて……旦那様(先代)に内緒で、私と一緒に新しい苗を植え直したこともございました。それから、だんだんとコツを覚えていかれたのです」
リリエラは、足元の花を見つめた。
この花は、何十年も前から、誰かの失敗と愛情を経て、今ここで咲いている。
その歴史の末端に、自分も今、触れているのだ。
「教えてください、この屋敷のこと、お母様が大切にしていたこと。私、もっと知りたいの」
リリエラが真っ直ぐに見つめると、マーサは深く、しかしこれまでとは違う、温かみのある一礼をした。
「……はい。喜んで、奥様」
その日を境に、屋敷の空気は劇的に変わった。 廊下ですれ違う際、「今日は風が冷とうございます」と声をかけてくれる者。
「帳簿の別冊はこちらにございます」と、こちらが探す前に差し出してくれる者。
「明日の朝食は、少し甘めのパンにいたしましょうか」と、好みを察してくれる者。
全員が心を開いたわけではない。けれど、冷たく硬かった氷に、小さなヒビが入り、そこから温かな水が流れ出し始めたのは確かだった。
朝、リリエラは資料室に籠もっていた。
彼女は幼い頃から数字に強かった。
実家の領地が困窮していた時期、彼女は父の傍らで必死に帳簿をつけ、無駄も出さないよう管理してきた経験がある。
「これは……?」
膨大な記録の海を泳いでいた彼女の指が、ある箇所で止まった。
三年前の秋の収支。 大規模な改ざんではない。ましてや横領の形跡でもない。 ただ、農業収入の一項目が、前後の数字と比べて、どうしても「一円分」だけ合わないのだ。
注意深く見なければ、誰もが「誤差」として見過ごすような、小さな小さなずれ。
しかし、リリエラはその「一円」の出所を突き止めずにはいられなかった。
彼女は周辺の古い領収書や、当時の天候記録、ささらには村への支援記録まで引っ張り出した。
埃っぽい資料室で、彼女の指先は黒く汚れ、髪は少し乱れたが、集中力は途切れなかった。
一時間が経過した頃。 パズルの最後の一片が、ようやくはまった。
「……見つけた」 原因は、三年前の秋に起きた小規模な水害だった。
領地の堤防が一部決壊し、田畑が浸水した際、その復旧費用の一部が、緊急を要したために「雑費」として処理されていた。それが農業収支の欄に反映されず、結果として
計算上の不整合を生んでいたのだ。
金額にすれば、公爵家の資産から見れば塵のようなものだ。
けれど、数字は誠実でなければならない。
積み重なった小さなずれは、いつか大きな歪みとなって屋敷の土台を揺るがすことを、リリエラは身をもって知っていた。
彼女は丁寧に報告書をまとめると、そのまま夫である公爵、レオンハルトの書斎へと向かった。
書斎の重厚な扉を叩くと、中から「入れ」という低い声が響いた。
レオンハルトは山積みの書類を前に、眉間に皺を寄せていた。彼は無愛想で、感情をあまり表に出さない男だが、領民への責任感は人一倍強い。
「少し、よろしいでしょうか」
「どうした、リリエラ。何か必要なものでもあるのか」
「いいえ。資料室で三年前の帳簿を拝見していたのですが……こちらを見ていただけますか」
リリエラが机に広げた書類を、レオンハルトは怪訝そうに覗き込んだ。
彼女が赤ペンで記した「一円」のずれと、その原因となった水害時の処理ミス。
説明を聞き終えると、レオンハルトはしばらく沈黙し、それから深く息を吐いた。
「……気づかなかった。三年間、私も、監査の者も、誰もだ」
「本当に小さなものですから。でも、放置すれば来期の予算組みに影響が出る可能性がありました」
「……そうだな。積み重なれば、ということか」
レオンハルトはリリエラをじっと見つめた。
「訂正は可能か」
「はい。過去の関連書類をすべて書き換える必要がありますが、私に任せていただけるなら、今日中に終わらせます」
「頼めるか」
「もちろんです。……ただ、一つだけ確認させてください」
リリエラの表情が、少しだけ真剣みを増す。
「三年前の水害時、この復旧費用の処理を最終的に担当したのは、どなたですか?」
レオンハルトは一瞬の間を置いて、短く答えた。 「……クロワだ」
「そうですか」
「何か問題があるか。彼がわざとやったと?」
「いいえ、逆です。ミスだと思います。おそらく、あまりの忙しさに、一刻も早く村を救おうとして、事務処理を後回しにしたのでしょう。悪意など微塵も感じられません。……だからこそ、私から彼に伝えてもよろしいでしょうか」
「確かにあなたが話した方が——クロワは素直に聞くかもしれない」
「そうですか?」
「あいつは、私に指摘されると意地を張る癖がある」
リリエラは少し驚いた。
「クロワ男爵が、意地を張るんですか」
「たまに」
「珍しいですね」
「あいつも人間だ」
リリエラは書類をまとめた。
「わかりました。私から話します」
「頼む」
「クロワ男爵が傷つかないように話します」
公爵が少し目を細めた。
「……気遣うんだな」
「大事な人なので」
「大事か」
「はい。この屋敷を守ってきた人なので」
公爵は何も言わなかった。
でも——目が、少し柔らかくなった。
「任せるがあいつを……あまり、いじめないでやってくれ」
そして彼が再び書類に目を落としたとき、その横顔は、先ほどよりもずっと穏やかで、柔らかなものに変わっていた。
その日の午後、リリエラはクロワを資料室に呼び出した。 西日の差し込む部屋で、彼女は淡々と、しかし丁寧に説明した。
記録漏れの箇所。なぜそれが発生したのか。
そして、どうやって直すべきか。
クロワは、リリエラの説明を、直立不動の姿勢で黙って聞いていた。
説明が終わると、資料室に重苦しい沈黙が流れた。 クロワの眼鏡の奥の瞳が、かすかに揺れている。
「……申し訳ございませんでした。私の管理不足です。このような初歩的なミスを三年も……」
彼は深く頭を下げた。その声は、絞り出すように掠れていた。
「謝らないでください、クロワ男爵」
リリエラは、彼の前に立って優しく言った。
「小さなずれは、誰にでも起こります。あなたはあの時、数字を守ることよりも、村の人々の命を守ることを優先した。それは誇るべきことです」
「しかし、事務方としての責任が……」
「クロワ男爵」 リリエラは彼の言葉を遮り、真っ直ぐに目を見つめた。
「三年間、誰一人として気づかなかったこのずれを、私が来てたった一週間で見つけた。……それだけの、単純なお話です」
「……奥様?」
「私が見つけられたのは、私が『外から来た人間』だからです。長くこの場所にいて、深く愛しているあなたたちには、当たり前すぎて見えなくなっている景色がある。それは、あなたがこの屋敷に誠実に尽くしてきた証拠でもあります。仕方のないことなのです」
クロワは言葉を失った。
彼は、自分が責められることを覚悟していたのだろう。
あるいは、能力を疑われることを。
けれど、目の前の新しい主は、自分のミスを「誠実さの証」だと言い切った。
「……奥様は、なぜ」
「はい」
「なぜ、そのような……救われるような言い方をしてくださるのですか」
「本当のことだからです。私は嘘をつくのが苦手なので‥」
クロワは震える手で眼鏡を直すと、もう一度、今度は先ほどよりもずっと深く、敬意を込めて一礼した。
「……ありがとうございます」
「これから、一緒に直していきましょう。私一人では、過去の経緯まではわかりませんから」
「はい。もちろんでございます」
「よろしくお願いしますね、クロワ男爵」
「こちらこそ——よろしくお願いいたします。……奥様」
クロワが退室しようとして、扉の前で足を止めた。 彼は振り返らずに、小さな、しかしはっきりとした声で言った。
「……奥様がこの屋敷に来てくださって、本当に、よかった。心から、そう思っております」
昨日も聞いた言葉。
けれど今日、彼の口から漏れたその言葉は、昨日よりもずっと重く、熱を帯びて、リリエラの胸に響いた。




