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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: 仁科異邦


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第二十八話 公爵の、黒い噂


フランシス兄様が動いて、三日かかった。

正確には、二日と十四時間だった。


「出た」

フランシスがライムブリュレ家の応接室に飛び込んできたのは、夕方だった。

息が少し切れていた。


「証拠、取れた」

「本当に?」

「三年前の水利権の案件——公式記録が残ってた。ヴァルモン侯爵が申請した水利権の範囲が、当初の申告と実際の使用範囲で、明らかにずれてる。それを公爵側が指摘したのに、ヴァルモムが圧力をかけて揉み消そうとした記録まであった」


「揉み消した記録まで残っていたんですか」

「記録って、そういうもんだよ。消そうとした跡が、残る」

リリエラは書類を受け取った。

広げた。

数字を見た。


三年前の申告数値。

実際の使用数値。

その差分。ヴァルモン側が提出した訂正申請の日付。圧力をかけた記録。

全部、揃っていた。

「……完璧です、兄様」

「だろ。学院の同期、優秀なんだよ」

「その方に、お礼を」

「もうした。お前の帳簿の腕を褒めておいた」

「なぜですか」

「俺の自慢の妹だから」

リリエラは少し、目が熱くなった。

泣かなかった。


「……ありがとうございます」

「礼はいい。それより——この証拠、どう使う」

「公爵に渡します。公爵家として、正式に動いてもらいます」

「俺のできることは終わりか」

「十分すぎます」

「そうか」

フランシスが立ち上がった。

「リリエラ」

「はい」

「お前が動いたから、俺も動けた」

「兄様が動いてくれたから、です」

「両方だよ」

フランシスが笑った。

公爵みたいなことを言う、とリリエラは思った。

でも、言わなかった。


その日の夕方、リリエラは公爵邸に向かった。

アポイントメントはなかった。

でも——この三日間、公爵は動かなかった。

待っていてくれた。

リリエラが動くのを、待っていてくれた。

その分、早く届けたかった。

応接室に通されて、少しして公爵が来た。


「来てくれたか」

「はい。これを」

書類を差し出した。

公爵がそれを受け取る。


そして広げて読んだ。

一枚、二枚、三枚。

全部読んで——顔を上げた。


「三日で、これを」

「フランシス兄様が動いてくれました」

「フランシス殿が」

「私が声をかけたら、学院の人脈を使って動いてくれました」

公爵が書類を机に置いた。

「一人でやらなかったな」

「はい。一人でできることと、一緒にやることは違うと——教わったので」

公爵が、リリエラを見た。


「……よくできた」

「大したことは‥」

「これは大したことだ」

「受け取ります」

「今日は素直だな」

「頑張ったので」

公爵が目を細めた。


「これで——ヴァルモンへの対応ができる」

「はい。公式な記録があれば、公爵家として正式に動けますよね」

「動ける。この証拠をもとに、王家の仲裁を求める。公開の場で、三年前の件を正式に決着させる」

「公開の場で、ですか」

「噂で広めたなら——訂正も、公開の場でやらせる」

「……少し、怖いですね」

「ヴァルモンが?」

「公開の場というのが」

「私が全部やる。あなたは——来てくれるだけでいい」

「来ます」

「それだけでいい」

「来て、隣にいます」

公爵が少し止まった。


「……隣に」

「はい。一緒にやると、言いましたから」

公爵がリリエラを見た。

「この三日、待つのが——少し難しかった」

「待っていてくれていたんですか」

「ああ。でも——待って、正しかった」

「なぜですか」

「あなたが自分でやれた」

「兄様のおかげです」

「あなたが声をかけたからだ」

リリエラは少し俯いた。


「……この三日、レオンハルトが動かないのが不思議でした」

「不思議だったか」

「普通は、動くと思うので」

「あなたが動いていた」

「でも、公爵家の問題でもあるのに」

「あなたの動ける場所を、先に取りたくなかった」

リリエラは顔を上げた。

公爵がまっすぐこちらを見ていた。


「あなたが自分でやれることを——私が先に全部やってしまったら、あなたはまた一人でいたときと同じになる」

「……」

「私の隣にいるからといって、あなたがあなたでなくなるのは——違うと思っている」

リリエラは何も言えなかった。

「一緒にいるとは——そういうことだと、私は思っている」

「……レオンハルト」

「なんだ」

「それは——すごく」

「すごく?」

「すごく嬉しいです」

「そうか」

「ありがとうございます」

「礼はいい」

「受け取ってください」

「……受け取った」

ふたりで、少し笑った。


窓の外に、夕暮れが広がっていた。

空が、オレンジから紫に変わっていくところだった。

「リリエラ」

「はい」

「公開の場は、来週になる」

「はい」


「緊張するか」

「します‥」

「でも来るか」

「もちろんです、怖くて震えても」

「震えても——行きます」


公爵が目を細めた。

「来週の公開の場——一緒に行きましょう」


「ああ」

「隣にいます」

「わかった」


窓の外の空が——紫から、濃い青に変わっていた。

星が、一つ出た。


「行こうか」

「どこへ?」

「夕食を食べていけ。今日は、一緒に食べたい」

「……いいんですか」


「いつもそう思っているが、言えていなかった」

「言いかけて止まらない、ですね」

「そうだ」

「では——喜んで」

ふたりで、書斎を出た。

廊下に出たとき、クロワがいた。

書類を持って、立っていた。


「公爵、本日の決裁が——」

「後でいい」

「……今夜中に」

「明日でいい」


「今夜中の案件で——」

「クロワ」

「はい」

「今夜は、リリエラと食事をする」

クロワが止まった。

書類を持ち直した。

眼鏡を直した。


「……かしこまりました」

「明日、全部やる」

「はい」

「それでいいか」

「問題ございません」

クロワが一礼して、廊下を戻っていった。


角を曲がったところで——小さく、何か言った気がした。

聞こえなかった。

でも多分——いいため息だった。

「クロワ男爵、何か言いましたか」

「さあ」

「気のせいですか」

「そうだろう」

「……そうですかね」

「そうだ」

公爵がきっぱり言った。

リリエラはおかしくなって、笑いながら廊下を歩いた。

夕食の匂いが、廊下に漂ってきた。

温かい匂いだった。

ここが、好きだ。

この廊下も、この匂いも、隣を歩くこの人も。

全部、好きだった。


その夜、帰り道の馬車の中で手帳を開いた。


フランシス兄様が動いてくれた。 三日で、証拠が出た。 数字は、ちゃんと答えを出した。 公爵が待っていてくれた理由を聞いた。 あなたがあなたでなくなるのは違うと言ってくれた。 一緒にいるとは、そういうことだと。 来週、公開の場がある。 震えても、行く。 今夜、一緒に夕食を食べた。 温かかった。


書き終えて、手帳を閉じた。

馬車が王都の石畳を走っていた。


窓の外に、星が出ていた。

たくさんではなかった。

でも——確かに、あった。


見えた。この星も、覚えておこう。

今夜の星を、覚えておこう。

手帳には書けなかったけど——心の中に、しまった。


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