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婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜  作者: 仁科異邦


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第二十七話 騒動の前触れ

九月に入った。

婚約発表から二ヶ月が経って、社交界もリリエラと公爵の話に慣れてきていた。

慣れてきた、と思っていたら——

事件が起きた。


きっかけは、小さなことだった。

ある夜会で、リリエラが公爵と話しているところへ——見知らぬ男性が近づいてきた。

三十代くらいで整った顔。

でも、目が笑っていなかった。

「ショコラオランジュ公爵」

「……」

「お久しぶりです。お元気そうで」

公爵の空気が、少し変わった。


変わったのが、リリエラには感じられた。

「ヴァルモン侯爵」

「こちらが、噂のライムブリュレ嬢ですか」

男がリリエラを見た。

上から下まで、値踏みするような目だった。

「はじめまして」

「どうも。お若いですね」

「ありがとうございます」

「ライムブリュレ伯爵家——確か、先代が病で倒れて、財政が少し苦しいとか」

「……」

「そういう家の令嬢が公爵と婚約するとは、世の中うまくいくものですね」

笑っていた。

笑いながら、言っていた。


リリエラは顔を読んだ。

悪意があった。しかも——隠していなかった。

隠さない悪意は、たちが悪かった。

「ヴァルモン」

公爵が言った。

声が、低かった。

いつもの低さではなかった。

もっと——底のある低さだった。

「言葉を選べ」


「失礼、失礼。ただ、事実を申し上げただけで」

「事実の話をするなら——お前の家の三年前の話もしようか」

ヴァルモン侯爵の顔が、一瞬固まった。

「公爵領への不正アクセスの件。あれは不問にしたが——記録は残っている」

「……それは」

「言葉を選べ、と言った」

静かだった。


でも——有無を言わせない静かさだった。

ヴァルモン侯爵が、形だけの笑顔を作った。

「……失礼しました。では、また」

歩き去った。

その背中が見えなくなってから、リリエラは小さく息を吐いた。

「……ありがとうございます」

「怖かったか」

「少し」

「あの男は——ずっと前から、そういう人間だ」

「因縁がありますか」

「三年前、領地の水利権を巡って揉めた。向こうが不正を働いた。それを指摘したら、恨まれた」

「そういう経緯が」

「関わらない方がいい人間だ」


「でも今日は、私のために」

「関係ない。あの場でそういうことを言わせたくなかっただけだ」

「……それが、私のためでは」

公爵が少し止まった。

「……そうかもしれない」

「ありがとうございます」

「礼はいい」

「受け取ってください」

「……受け取った」

少し間があった。


「リリエラ」

「はい」

「あの男が、また動くかもしれない」

「動く、というのは」

「噂を流すか、直接何か仕掛けてくるか」

「……そうですか」

「怖いか」

リリエラは少し考えた。

「怖いですが——準備します」

「準備?」

「帳簿を整理します。ライムブリュレ家の財政状況を、全部きれいにしておきます。何かを言われても、答えられるように」

公爵がリリエラを見た。

「……すぐそういう方向に行くな」

「得意なので」

「心強い」

「任せてください」

「任せる。でも——一人でやるな」


「クロワ男爵にも声をかけます」

「私にも」

「レオンハルトはお忙しいので」

「お前のことより忙しい仕事はない」

リリエラは少し、頬が熱くなった。

「……そういうことを、夜会の真ん中で言わないでくださいね」

「言いかけたら止まらない」

「その約束、使いすぎではないですか」

「有効な約束だ」


「……まったく」

ふたりで、少し笑った。

夜会の音楽が流れていた。

シャンデリアが光を散らしていた。

でも——その一時間後に、本当の事件が起きるとは。

リリエラは、まだ知らなかった。


夜会の終盤、人が少し散けてきた頃。

リリエラはテラスに出た。

少しだけ、外の空気が吸いたかった。

夜風が気持ちよかった。

「ライムブリュレ嬢」

声がした。

振り向いた。

ヴァルモン侯爵が立っていた。

一人だった。


リリエラは少し警戒した。顔には出さなかった。

「先ほどは失礼を」

「……いいえ」

「少し話せますか」

「短ければ」

ヴァルモンが近づいてきた。

一歩、また一歩。

距離が縮まった。


「単刀直入に言います」

「はい」

「公爵との婚約、やめた方があなたのためではないかと思って」

「……理由を伺えますか」

「公爵は——過去を引きずっている人間です。亡き婚約者を、六年経っても手放せていない」

「それは」

「あなたは、そういう男の二番目に甘んじるつもりですか」

リリエラは息を整えた。


「亡くなった婚約者の話は——公爵から、直接聞きました」

「聞いた上で」

「聞いた上で、選んでいます」

「若い娘が、一人の男の過去を背負うのは——重すぎる」

「私が決めることです」

「後悔しますよ」

「後悔は、自分で引き受けます」

ヴァルモンの目が、少し変わった。

「公爵家の資産に、目が眩んでいるのでは、と思われても仕方ないですよ。ライムブリュレ家の現状を考えれば」

その言葉が——少し、刺さった。


刺さったのを、悟られないようにした。

「……ひとつ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「なぜ、そこまで私たちの婚約を気にするんですか」

ヴァルモンが少し止まった。

「公爵とは、三年前に揉めたと聞きました。それが理由ですか」

「……関係ない」

「関係なければ——なぜ今日、私に声をかけるんですか」

「あなたのためを思って」

「思っていないと思います」

ヴァルモンの顔が、少し固まった。


「公爵を困らせたいか、私を揺さぶりたいか——どちらかだと思います。どちらにしても、私には響きません」

「……強気な令嬢だ」

「強くないです。ただ——決めたことがあるので」

「決めたこと」

「自分で選んだことは、他の人の言葉で曲げない、と」

ヴァルモンが、リリエラを見た。

何かを言いかけた。


「リリエラ」

声がした。

公爵だった。

テラスの入り口に立っていた。

いつ来たのか、わからなかった。

「遅かった」

「少し外の空気を」

「そうか」

公爵がテラスに入ってきた。

ヴァルモンの隣を、ゆっくりと通り過ぎて——リリエラの隣に立った。

「ヴァルモン」

「……公爵」

「二度目だ」

「何がですか?」

「今夜、私の婚約者に失礼なことを言ったのが」


「失礼なことは——」

「言った」

静かだった。

でも、さっきより重かった。

「次があれば——三年前の件、改めて話し合う場を設ける」

ヴァルモンの顔が、青くなった。

「……わかりました」

「よかった」

公爵が、リリエラを見た。


「行こう」

「はい」

リリエラは公爵の隣に並んだ。

テラスを出る前に、一度だけ振り返った。

ヴァルモンが立っていた。

さっきより、小さく見えた。


ホールに戻ったとき、公爵が言った。

「一人で言い返していたな」

「聞こえていたんですか」

「少し」

「途中まで、一人で大丈夫でした」

「途中から?」

「……二番目という言葉が、少し刺さりました」

公爵がリリエラを見た。


「刺さったか」

「刺さりましたが——答えは変わりませんでした」

「なぜ」

「エレナさんのお墓で、決めたことがあるので」

「……なんと決めた」

「大切にできる人は、何に対しても大切にできる、と」

公爵が黙っていた。

「二番目ではないと、私は思っています」

「……思っていてくれるのか」

「思っています」

「根拠は」

「レオンハルトが——エレナさんを大切にしていたから、私のことも大切にしてくれていると、わかるので」

公爵は少し間を置いた。


「……頭が上がらないな」

「そんなことは」

「あなたには、本当に」

「本当に?」

「頭が上がらない」

リリエラは少し笑った。

「それは困ります」

「なぜ」

「私の方が、よっぽど頭が上がらないので」

「そうか」

「はい」

少しの間、ふたりで笑った。


夜会の音楽が、ホールに流れていた。

シャンデリアが光を散らしていた。

「リリエラ」

「はい」

「あなたは——ひとつも、揺れなかったな」

「揺れましたよ」

「でも曲がらなかった」

「決めたことがあったので」

「私のことを、信じてくれているから、か」

「それもありますが」

リリエラは少し止まった。

「自分を、信じられるようになったから、かもしれません」

「自分を」

「はい。怖くても動けると——この一年で、少しわかってきたので」

公爵が静かにリリエラを見た。


「……大きくなったな」

「失礼な言い方ですね」

「褒めている」

「そうは聞こえませんでした」

「褒めている」

「……ありがとうございます」

「受け取ったか」

「受け取りました」

公爵の口元が動いた。

音楽が変わった。

柔らかい曲だった。


「踊るか」

「え」

「踊れるか」

「……一応は」

「では」

「急ですね」

「言いかけたら止まらない」

「その約束、本当に使いすぎです」

「有効だから使う」

「……わかりました」

手を取った。

フロアに出た。

音楽に合わせて、踊った。

公爵はリードが上手かった。

さすが、とリリエラは思った。


「上手いですね」

「社交の基本だ」

「普段あまり踊らないように見えますが」

「相手がいなかった」

「……今は?」

「いる」

頬が、また熱くなった。

「さらっと言わないでください」

「止まらない」

「……もう」

音楽が続いた。

フロアに、他の夫婦や婚約者たちが踊っていた。


その中に、ふたりもいた。

リリエラは公爵の肩越しに、シャンデリアを見た。

光が散っていた。

あの夜会で、婚約を破棄されたのも——シャンデリアの下だった。

同じ光の下で——今日は、踊っていた。


来たな、と思った。

ずいぶん遠くまで来た、と思った。

「リリエラ」

「はい」

「今、何を考えていた」

「最初の夜会を思い出していました」

「婚約破棄の夜か」

「はい。同じシャンデリアの下で——今日は踊っている、と思って」

公爵が少し目を細めた。

「感慨深いか」

「深いです」

「あの夜——あなたが震えながら言った言葉を聞いて、声をかけた」

「覚えています」

「あのとき、こうなると思っていなかった」

「私も思っていなかったです」

「でも——なった」

「なりましたね」

公爵が、リリエラを見た。


今夜一番——やわらかい目をしていた。

「なってよかった」

「……私も」

「これからも、なっていこう」

「はい」

音楽が続いた。

光が散っていた。

ふたりは踊り続けた。

シャンデリアの下で。

あの夜とは——全然違う、夜の中で。


その夜遅く、帰り道の馬車の中で、リリエラは手帳を開いた。


ヴァルモン侯爵という人に、嫌なことを言われた。 刺さった言葉もあった。 でも——曲がらなかった。 自分を信じられるようになったから、かもしれない。 踊った。 シャンデリアの下で。 あの夜と同じ光の下で。 全然違う夜だった。 遠くまで来た。 でも——まだ続く。 当分、続く。


書き終えて、手帳を閉じた。

窓の外に、王都の夜が広がっていた。

光が多かったが星は見えなかった。

でも——今夜は、それでよかった。

この光の中に、いたかった。

まだしばらく、この街にいたかった。


やがて向こうの領地に行くとしても——今夜は、ここにいたかった。

馬車は静かに、王都を走っていた。


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