母の本棚・3
母は病魔に侵されても畑仕事を止めない人だった。義務でも仕事でもないのに、ただの家庭菜園を力の入らない震える手で続けている人だった。
日記の文字も震えていた。
某月某日
オカマみたいな話し方する人から電話があった。
「あなたの旦那さんは男と浮気してますよ」と言われた。
その人が通う飲み屋で知り合った夫と男は1年前から懇意になったらしい。店の人も目を覆うくらいお熱くて、週末は必ずラブホテルに泊まっていると。男にも家庭があって、子供も男の子と女の子のふたりがいるのだと。今までも、後腐れが無いように家庭のある男と浮気してたけど、お宅の旦那さんとは結構本気みたいだから取られないように気をつけてください。浮気者の男なんで、奥さんと別れた後にすぐ旦那さんが捨てられるかもしれないです。旦那さんのためにも離婚されないように。旦那さんにも、遊ばれてるだけだからくれぐれも気をつけるように言っといてください。と。
気持ちが悪いのと恐ろしいのと不安で、頭がいっぱいになった。
嘘だろうしイタズラだろうけど、なんのために、どうしてこんな嘘をつかれるのかわからない。
確認しようにも夫はまだ帰って来ない。
誰かに相談したい。でも娘たちにこんなこと言えるわけがない。
某月某日
帰ってきた夫に話した。なるべく冷静にと思ったが、声は震えた。涙は辛うじて堪えたが、夫は顔を真っ赤にして「嘘に決まってるだろうが!そんなイタズラ電話本気にするな!」と怒鳴られた。夫は不貞腐れて1週間寝室から出て来なかった。いつもそう。自分の分が悪くなると、いつも周りが自分に気を使うように立てこもる。そして周りに無視され続けると具合が悪いふりをする。もうそれで何十年も連れ添ってきた。連れ添ってきた結果がこれだ。夫はホモだった。
某月某日
耐えきれなくて娘に言った。娘も驚いていたようだ。やはり娘には言うべきではなかったかと思ったが、でも、やっと娘が言ったのは「イタズラじゃないの?」だった。言うんじゃなかった。
この娘とは私である。吐きそうな顔で、怒りのあまりとっ散らかった文脈で電話の話をしていた母の顔は忘れられない。
なのに私は頭の整理ができないまま言ってしまったのだ。「イタズラじゃないの」と。
今なら最低な返答だとわかる。母をどれだけ傷つけたことか。
BLがBLとまだ呼ばれなかった時代から耽美な作品をたくさん読んできたのに、これほど現実とフィクションが交差しないものかと体感した出来事はない。しょせんフィクションはフィクションなのだ。
フィクションは所詮フィクションなので、その後も耽美作品は平気で読み続けられた。脳みそとはそんなものである。
母が亡くなってから父に確認したことがある。そんな電話があったって母が泣いてたよ、と。
父は笑い飛ばした。
「あれはね、あの人とお父さんが仲良しだからヤキモチ焼いた人が悪口言ってるだけ」
同性にヤキモチを焼かれて悪口を奥さんに告げ口されるってどういう関係なんだと芯から気持ち悪くなった。
なにより、亡くなった母が泣いていたというのに、笑ってる父が許せなかった。
男が泊まった日。帰り際に母の本が並ぶカラーボックスを見て薄ら笑ったという。
「雑誌ばっかりですね」
それを受けて父も「雑誌ばっかりって言われてるよ」と母に笑って言ったという。
日記には「気持ち悪い」と書いてあった。
母の料理雑誌も園芸雑誌もどれも使い込まれている。
使い込まれた雑誌を笑った男は、一度も開かれた形跡の無い『武者小路実篤全集』やら『日本古典文学全集』やらを褒めて帰った。
読んだことの無い本を褒められて、父は大層ご満悦だった。




