父の本棚・3
2年ほどその生活が続いたあと、その男は転職し、父も退職した。父は本格的に無職になり、隠遁生活に入った。別にそれはいい。定年までちゃんと働いた人なのだから。
問題は毎日のように転職したその男から電話がかかって来て、毎週末ごとに呑みに行っていたことだ。
当時はまだ携帯電話なんてものは無かった。どんな若い恋人同士も、親に疎まれながらも家の電話で長電話していたものだ。
父とその男の毎日もそんな感じだった。娘の姉と私ですら家族に遠慮して、誰かとそんなに頻繁に長電話をすることは無かったのに。
不機嫌な母の様子に気づくことのない無神経な父に、私が代わりに嫌味を言う。何をそんなに毎日長々と話すことがあるのかね、いい歳をした大人が、と。
父はご機嫌に笑いながら言う。
「彼は仕事を代わったばかりだからね。いろいろ相談に乗っているんだよ」
「お父さんは仕事をしてないからね、元気にしているかどうか心配してくれているんだよ」
当時は家電に子機というものがあって、友達からかかってきた電話は子機を持って自分の部屋で話たりしていた。
すると父が親機から割って入って来るのだ。ただ何を言うでもなく、親機の受話器を取って、間で聞いているぞと無言でアピールして。
同じことを父とあの男の電話にしてやったら、「誰だ!?」と電話のあるリビングに怒鳴り込んできた。父は戦慄していた。
ただの仕返しのつもりだったが、気持ちが悪いと思った。
ある朝、リビングに行くと見知らぬ男がいた。驚いた。台所でご飯を作っていた母は不機嫌な中に動揺を隠しきれていなかった。
父は昭和の人だったので、部下や同僚を夜遅く自宅に連れて来たことが何回かあった。そのたび次の日母と喧嘩していたし、夜中に同僚や上司の家に上がり込むのは不躾という常識が浸透するにつれ夜中に家に来る客などいなくなったが、久しぶりに父がやらかしてくれた。
父は大層ご機嫌だった。
「おはようございます」も「初めまして」も言わない男はただほほ笑んでいるつもりのニヤけた顔をこっちに向けていた。
唖然としている私に父が「友達」とさも自慢げに言った。
帰る男を父が送って行ったあと、母は歯を食いしばって涙をこらえていた。鬼の形相で目を真っ赤にしていた。
バス停から戻って来た父は「あの態度は何だ!?」と母を怒鳴った。
電話は毎日ではなくなったがあいかわらずかかってきたし、呑みにも出かけていたが、あの男が家に来ることは二度と無かった。
母が入院するまでは。
母が入院してすぐ、男は鉢植えの胡蝶蘭を持って家に来た。私に気兼ねした父は玄関前で鉢植えを受け取り、男には引き取ってもらっていた。
「お母さんがお花が好きだから選んでくれたんだよ」と父は言ったが、病院に持って行くこともなく、庭で枯らしていた。
母が入院してから、男からの電話は頻繁になった。一度男の電話を取り次いだことで、男の携帯電話番号を知った。
私は自分の携帯に男の苗字でその番号を登録していた。本当にその男の番号なのか、公衆電話から確かめたこともあった。男のだった。
何かの拍子に父に携帯を見られ、男の番号を登録していることを知られたのだが、驚くほど父は動揺していた。何故知っているのかと問い詰められた。
何も答えてやらなかった。一生考えればいい。気持ち悪い思いをすればいい。母が泣くほど不愉快に思っていたように、父も釈然としないものを抱えてればいいと思った。
母が亡くなったとき、父は男からの電話に「来なくていい」と言っていた。
どんな顔をして弔事に来るのか見てやりたいような気もしたが、殴りそうな気がしたのでやっぱり来なくていいと思った。
一度だけ、男が泊りに来た日。父の本棚の前で男は笑顔で言った。
「難しい本いっぱい読んでるんだね」
父は満面の笑顔だった。




