1-3 放棄
我が家の入り口はいつだって暗い。
4階建てのマンションの1階部分が駐車場になっており、停まっている車の脇を抜けたところに私の住むアパートの入り口はある。
アルミ製のよくあるコンテナハウスの入り口のようなドアがあり、そこにデカデカとアパート名が印刷された紙が貼られている。
ドアを開けると階段があり、それを上った2階部分が今の私の住処だ。
電気はついていない。
大家が前述のマンションに住んでおり、気づいたら電気を消すようにしているのだ。
ケチ臭いとは思うが、いかんせん日当たりが悪いので”暗いから”という理由で電気をつけるのなら24時間つけることになる。
節約の手段としては間違っていないだろう。
電気を付けなくとも部屋までは向かえるから敢えて電気は付けなかった。
ゆっくりと階段を上る。リノリウムの床材がスニーカーと擦れる音が響く。
ドンドン!ドンドン!
「またか……」
階段を上ってすぐの部屋から何かをたたきつけるような音と言い争うような声が聞こえる。
隣の部屋には20台後半の男性とその恋人であろう恰幅の良い女性が同居している。
この1カ月で数回痴話喧嘩をしているのだが、これがなかなか凄まじい。
先日も2時くらいに物凄い怒鳴り声と何か重いものが壁にぶつかるような音がして、夜中に飛び起きた。
明らかに取っ組み合いをしているような音がしており、何かが割れるような音も聞こえた。
これが1時間近く断続的に続いた。この2人の痴話喧嘩は長い。数時間に及ぶ。
少し心配になって、隣室のインターフォンを鳴らし安否の確認に行ったほどだ。
その際に出てきたのは背の低いひょろっとした短髪の青年だった。
「すいません、申し訳ございません」
と丁寧に謝る彼は左目を片手で抑えていた。
「大丈夫ですか?救急車お呼びしましょうか?」
「いえいえ、すこしぶつけただけですので。うるさくしてしまって申し訳ございません」
「うるせぇなぁ!!何時だと思ってんだよ!!!こんな時間にインターフォン鳴らしてんじゃねぇぞ、おっさん!!!」
「おい!深夜にうるさくしたのはこっちなんだから黙れよてめぇ!」
甲高いヒステリックな叫び声が部屋の奥から聞こえ、青年が目の色を変えて大声でやり返す。
「あぁ、いや、実際夜分に訪れてしまったのは私の方ですし。もう少し抑えめでお願いしますね、失礼します」
ドアが開かれたまま第2ラウンドが開始されそうだったのでそそくさと退散した。
大変ガラの悪いカップルだと言えるが、早々に去ることを決めたのは男性の着ていた半そでのシャツから覗く二の腕に複数の痣があり、切り傷のような瘡蓋をいくつか見つけたことだった。
(あー。そういうパターンか)
世間は広い。DVにも色々種類があるのだろう。
なるべく揉め事には立ち入りたくないとそそくさと退散を決め込んだのがつい先週の事だ。
しかし、今日のは特別うるさい。
比較的防音に優れている部屋だという話を聞いているのだが、ガラスが割れるような音や女性の金切り声、男性の野太い怒鳴り声が内容こそ分からないもののはっきりと聞こえる。
揉め事は嫌だ。
というか、人の強い感情の波が今はまだ怖い。
とはいえ、今日は話が別だ。
私は疲れており、明日もまた仕事なのだ。
黙って自室に戻るかどうかを少し躊躇しつつ、意を決してインターフォンを鳴らす。
喧騒はやまない。完全に無視して盛り上がってしまっている。
小さく舌打ちをしてもう一度インターフォンを押す。
……反応がない。なにかが派手に割れた音と女性の金切り声が聞こえた。
インターフォンをもう一度押してドアをたたいた。
「すいません、流石にうるさいんですが!大丈夫ですか!!」
はじめて音が止み、乱暴な足音が聞こえた。近づいてくる。
乱暴に鍵を回す音が聞こえ、ドアを殴るように開いて顔を出したのは件の彼女さんの方であった。
「おい!何度もうるせぇな!!なんか用かおっさん!」
ピンク色のキャミソールを着た、身長150センチ程度、体重は分からないがでっぷりと太った彼女はセミロングの金髪の前髪だけをゴムで止めている。
少し顔を斜めに傾けながら啖呵を切る姿は、既視感がある。
恐らく、自動車免許合宿で訪れた田舎のコンビニにいたヤンキーがこんな感じだったはずだ。
「えーっと、凄くうるさいんだけど?」
「てめぇも分からねぇ野郎だな!後から引っ越してきたんだからイヤホンでも何でもして黙ってろや!こっちの事情だろうが!!」
流石に無茶苦茶である。少し頭に血が上るのが分かる。
彼女さんの頭越しに部屋の中を確認する。彼氏さんの姿は見えないが、散乱した割れた食器が目に入った。
「無茶苦茶だねぇ。警察に連絡するけど良いよな?」
「なんで、んなことされねぇといけねぇんだよ!殺すぞ!」
疲労感も相まって極端に侮蔑するような声が出ているのに呼応するように、彼女さんの罵声もヒートアップする。
「さすがにバカすぎるぞ、今の言葉。脅迫罪にもあたるんで、静かにできねぇなら警察に頭冷やしてもらえや」
「んだこの野郎!」
これだから……という言葉が首をもたげ、心の中で首を振る。選抜思想はもうまっぴらだ。
「とにかく、警察呼ぶわ。な?んで余罪も調べてもらいな」
ダウンのポケットからスマホを取り出し、110番を入力する。
「てめぇ!!」
スマホに手を伸ばす彼女さんから身をよじり、背中を向け避ける。
『はい、こちら警視庁です。事件ですか、事故ですか』
「あぁ、すいません、私……」
名乗ろうとした瞬間だった。
「あっぁぁぁあああああああああああああああああ!!!!!」
何か意を決したような獣のような叫び声が聞こえた。
嫌な予感がして振り返ろうとした瞬間、左のわき腹あたりに何かがすごい勢いでぶつかった。
そのままの勢いで壁にぶつかり、息が詰まった。
受け身も何も取れなかったため、頭を壁に強くぶつけ目の前がチカチカしたが意識は手放せなかった。
熱い。
物凄い異物感が左わき腹にある。それを物凄い力で何かに押さえつけられている。
動けない。
動きたいとは思うが、今身をよじることを体が拒否している。
左手からスマホが落ち、硬質な落下音に混じって激しい息遣いが聞こえる。
私の物だろうか、恐らく違う。私の口からは「あっ……あっ」という情けない音とも声とも言い切れないものが漏れているからだ。
何か繊維を破くような音とともに、異物感が一瞬無くなった。
変わりにそこが物凄い熱を持っているのが分かる。
体をよじりながら、手を伸ばすとヌルっとした感触があった。
痛い。こうも痛みは遅れてやってくるものなのか。理解が追い付かない。
視線を落とす。
そこには先ほどまで姿の見えなかった彼氏さんが何かを持って立っていた。
部屋から漏れる光は逆光となっており彼氏さんの顔も持っているものも分からない。
「邪魔すんじゃねぇよ!!!」
凄まじい怒気が向けられ、彼氏さんは自分の手に持つ何かを叩きつけるように私に体当たりをしてきた。
「ウッ!」
空気が抜ける。異物感が右の脇腹近くに芽生え、抜け、芽生え、抜ける。
自分の口から声にならない声が生まれ、彼氏さんはブツブツとなにか呟きながら私に体当たりを繰り返す。
何かが抜け落ちていく。灼熱のような何かが自分の胸から下半身に向けて流れている。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛いイタイイタイ。
立っていられない。尻もちをつくようにズルズルと体が落ちる。
目の高さに、彼氏さんの持っている何かが来た。刃物だ。包丁だろう。何かに塗れて、黒く塗れているように見える。
(刺された!刺されたぞ!!殺される!!!)
声が出したい。
だが出せない。
ただ、逃げなくてはならない。
地面に這いつくばるように彼氏さんに背を向ける。
『大丈夫ですか!!大丈夫ですか!!!なにかありましたか!!!』
目線の先にあるスマホから先ほどの警察官だろう声が聞こえる
助けを求めなくてはならない。警察に話をしなくてはならない。
酷く緩慢な動きで痛みに耐えながら自分の血にまみれた左手でリノリウムの床を這う。
リノリウムの床ってずいぶん滑りやすいもんだと場違いな感想が頭に浮かんだ。
「お前が余計なことをするから!!!!!」
「あんた、なにやってんのよ!!やめなよ!!!」
獣のような咆哮が聞こえ、腰に鈍痛、そして背中に刃物がつきたてられたのが分かる。
あぁ、これは致命傷だ。
私、いや、俺はもうここで死ぬのだ。
背中にもう一度鈍痛が走る。
発情した獣のような息遣いと、ヒステリックな女性の金切り声が酷く不愉快だった。
痛い。気持ち悪い。寒い。
お漏らしをしたのではないかというような不快感が体を包んでいる。何かが物凄い勢いで抜け落ちていっている。
目が閉じられない。
涙で前が滲み、自分の血でベトベトになっているであろう床がかすんでいる。
いけない。
意識を手放せば、それはもう死ぬ時だ。
(畜生。畜生。俺はまだ何もやり直せてないぞ。俺は、まだ何者でもないままだぞ。俺はただの嫌な奴のままじゃないか)
音が遠くなっていく。あれほど不愉快だった肉体の感覚も遠くなっていくのが分かる。
(あー、最後にもう一本吸っときゃよかったかなぁ)
俺は最後に好きでもない煙草を思い、そして意識を手放した




