1-2 勘違い
今年の6月。
私に転機が訪れた。
梅雨真っ盛りだというにも拘らず、珍しく空は快晴。
13時過ぎ、営業先近くの食堂で食事をした後、営業車に乗り込み渋滞を避けるべく住宅街を抜ける道を選んだ。
ゆるゆると6kmほど走らせれば営業先につく。
アポ時間の14時の10分前には到着する計算だ。
どういう会話の組み立てをしようかと欠伸を噛み殺しながら車を走らせる。
眠気は少し気を抜けばいつでも襲ってくる。
入社したての頃は焦ったりもしたものだが、長く付き合ってくれば焦ることも減る。
慣れとは恐ろしい。
大きな衝撃と何かがつぶれる音、ガラスが割れるようなけたたましい音で目を覚ました。
視界は白一色であり、それがエアバックだと気づくのに数瞬掛かった。
警告音が鳴り響く中、自分のものと思えない悲鳴のような声を上げながら車を飛び出した。
シートベルトがうまく外せずもどかしかったのをよく覚えている。
自分の乗っていた営業車は電柱と道路標識にぶつかったようで道端には多くの車の部品、ガラスが散らばっていた。
(せめて物損で済んでいろっ……)
そう願う私の視界に飛び込んできたのは、大きく形を変えた自転車と電柱の脇に、丸まるようにして倒れていた詰襟を着た少年の姿だった。
『おい!大丈夫か!!』
上ずった声で少年に駆け寄る。
倒れた少年の頭部からゆっくりとどす黒い血がアスファルトを濡らしていくのを見て
”終わった、人生終わった、詰んだ、詰んだ……”
と頭の中で壊れたように言葉が流れていたのが忘れられない。
少年の身を案じるのではなく、自分の身を案じていた辺り、私の性根が腐っているのは間違いのないことだろう。
幸い少年は意識こそ失っているが息はしていた。
「大丈夫か!大丈夫ですか!!」
気道を確保し、大声で声をかける。
教習所で教わったことはうっすらとしか覚えていないが、頭部を打撲しているなら動かすことはできない。
せめて生きていて欲しくて、人殺しになりたくなくて大声で声をかけ続ける。
「うわぁ、大丈夫!?」
事故の音を聞いた近所の住人らしき人物が声をかけてきたので、救急と警察に電話をしてほしい旨を伝えた。
そこから何分ほどで救急車が来たかはわからない。
分からないが、私はとにかく半狂乱で声を上げ続けた。
結果として、私は人殺しにならなかった。
詰襟を着た少年は近所の高校に通う1年生だった。
午前中に体調を崩し、早退し帰宅途中に私の運転する車両に側面から衝突された。
ボンネットに乗り上げ、頭部をフロントガラスにぶつけ、車両が電柱にぶつかった反動でアスファルトに投げ出された。
彼がこの事故で負った怪我は幸いにも頭部裂傷と複数の打撲と切り傷だけであった。
頭部裂傷により、流血と脳震盪を起こした彼は病院に運び込まれる途中で目を覚ましたそうだ。
警察との事故処理を終えた私は病院に直行した。
廃車になった営業車を保険会社に頼んで移動したりと随分と手間がかかってしまった。
タクシーを頼み、病室にたどり着いた私を待っていたのはぐっすりと眠る少年とベッドの横で心配そうに座る少年の母親だった。
無き腫らした目は赤く、ほぼ化粧もできていないであろうことから大急ぎで家から飛び出てきたであろう40台前後の少年の母親の剣幕は凄いものだった。
「よくも----------」
「どうして--------」
「ふざけるな------」
私は泣きながら土下座をした。
罪悪感に押しつぶされ、少年が生きていたという事実に安心したことも手伝って声にならない声を出しながら土下座を続けた。
看護師複数人が母親を抑え、私を抱え起こした。
私は碌に少年の顔も、母親の顔も見ることができなかった。
帰りのタクシーで、ぼんやりと自分の母親のことを思い返した。
ヒステリックな教育ママであった私の母親は典型的な選抜思想、エリート主義者であった。
私の父親は大手銀行の支店長に同期入社の中で一番にたどり着き、出世頭であったが、母親はそんな父の肩書を誇りに思っており、自分の物のようにふるまった。
ニュースを見れば
”くだらない””程度が低い””頭の構造が劣っているからこうなる””こいつはバカだ”
と批評を忘れない母親だった。
そして必ず最後に
”恵まれた環境に生まれたあなたは、誰よりも優れている。そうなるように教育されている。愚かな人生を送ってはいけない”
という言葉を私の両肩を掴んでゆっくりとした口調で言い聞かせた。
私が小学5年生の時に父親が鬱病になった瞬間に、我が家の平穏は終わった。
母は父をなじった。
精神病患者だ、人生の落後者だと大声で罵った。
父親の症状はどんどんひどくなり、躁鬱病患者として入退院を繰り返すことになる。
”あんたはこうなっちゃいけない!努力が足りなくて甘えがひどいからこうなるんだ。あなたは他よりも優れているのだからこんなことになってはいけないよ!!”
父と母は私の大学入学まで離婚しなかったが、そうなるまで母はヒステリックに私に言い続けた。
大学を出て縁をきってから10年が経つ。
私の母親は、私が起こした事故を見て何というだろうか。
もし、私が被害者の少年のような風になったら同じように怒り狂うのだろうか。
事故の処理自体は2カ月を待たずにすべて終わった。
少年の怪我は順調に解決し、事故後の経過を見ても後遺症はなかった。
度重なる謝罪行脚の結果、少年の両親、少年は私の謝罪を受け入れてくれた。
会社には事故後有給休暇の取得を行い、事故の処理が終わったと同時に退職届を提出した。
表面上の引き留めこそあったものの、車両を扱う業界のトップ営業の自動車事故は肩身が狭くなるものである。
周りからの反応はひどいものだった。
労いの言葉などあるわけもなく、腫れ物に触るように、トイレに流される老廃物でも見るかのような目を向けられた。
”自業自得だ””天罰だ””報いを受けた”
色々な言葉が聞こえるか聞こえないか程度の音量で社内に流れていた。
なんなら、歴代の上司から直接”会社の恥””お前の素行に問題が詰まっている”と詰られたことすらあった。
私は失意のどん底にありながら、どこかほっとしていた。
引っ越しをすることを決め、出身大学の近くの街を選んだ。
私は間違った時間を重ねてしまったのだ。
願わくば、社会人になる前からやり直したい。
そんな思いから物件を探した。
条件は6畳の1ルームのアパート。
日当たりは悪く、貧乏学生が住むにはちょうど良さそうな物件だ。
1LDKのマンションを引き払い、家具も全て一新した。
貯金には手を付けず、日雇いのアルバイトを始めた。
転職活動などせずに、日々の生活を日々の労働で稼ぐ行き当たりばったりの生活だ。
繰り返し言おう。
私はほっとしていた。
日雇いのアルバイトである私に責任のある仕事など与えられない。
私は何者でもない。
私は超越者でも、選抜されたものでもなく、惨めな30代の独身男性フリーターだ。
事故を起こし、殺人を起こしかけた罪人であり、人望の無い、積み重ねることを捨てた、ただの男だ。
見栄を張る必要はなく、何かを誇示する必要もない。
ここにきて初めて、母親の言う言葉からも、自分の選んだ選択からも思い切り踏み外した感覚に安心している。
アパートにゆっくりと向かいながら、大きく息をつく。
どこで間違えたかはわからない。
しかし、やり直しを求めたいとも思わない。
強いて言うならばこの生の記憶をすべて捨てて、唯一つだけを事前にインプットした状態で最初からやり直したい。
”他人を大切にしろ。お前はその他大勢のごくごく一部だ”
と。




