第5話
深夜、自室のデスク。
二台のモニターが放つ光だけが、莉奈の瞳に銀色の火を灯している。
彼女が今起動させているのは、公式のデバッグ用クライアントではない。
『C』から教わった仮想マシン上で動作する、極限まで秘匿されたプライベート・ビルドだ。
画面に映し出されているのは、王立魔法学園のサンルーム。
豪華なシャンデリアの下、アフタヌーンティーを楽しむ学生たちのグラフィックは、吐き気がするほど美しく、そして残酷だった。
莉奈はマウスを握り、カーソルを学園のサロンへと移動させる。
そこには、かつての自分であるセレスティアと、光の聖女アリシア、そして王太子アルフレッドたちが揃っていた。
公式の仕様書によれば、ここは「第一の断罪イベント」が発生する場所だ。
アリシアがセレスティアの淹れた紅茶を飲み、自ら毒を盛ったと叫び、ヒロインとしての悲劇性を高めるための、回避不能なスクリプト。
莉奈はキーボードの特定のキーを同時押しして、コマンドラインを呼び出す。
「……ここからよ」
彼女の指が、短い文字列を打ち込んだ。
それは、既存のイベントフローを強制的にデプロイし直し、論理の分岐を「真実」へと捻じ曲げる、彼女だけの隠しコマンドだ。
画面の中で、アリシアが可憐に微笑み、毒の入ったカップに手を伸ばした。
莉奈の心臓が、当時のトラウマを思い出して激しく打ち鳴らされる。
だが、今の彼女はただ震えるだけの令嬢ではない。
彼女はエンターキーに指をかけ、運命という名のプログラムを自らの手で起動させた。
「セレスティア様、お心遣いありがとうございます。いただきますね」
画面の中のアリシアが、毒の混じった紅茶に口をつける。
その瞬間、ティーカップが床に落ちて砕け、高い音がサロンに響き渡った。
アリシアが胸を押さえ、苦悶の表情でその場に崩れ落ちる。
公式の仕様通り、BGMが不穏な緊迫感を煽るオーケストラへと切り替わった。
「アリシア! しっかりしろ、アリシア!」
アルフレッドが駆け寄り、彼女を抱き寄せる。
その瞳は怒りに燃え、真っ直ぐにセレスティアのキャラクターチップへと向けられた。
「セレスティア、貴様……ついに一線を越えたか! 公爵家としての誇りすら捨てたのか!」
画面に次々と表示される怒鳴り声のテキストボックス。
かつての莉奈は、この時、あまりの衝撃と理不尽さに声も出せず、ただ立ち尽くしていた。
視界が歪み、周囲の全生徒が自分を「人殺し」の目で見ていたあの時の感覚。
喉の奥が引き攣り、当時の冷たい汗が背中を伝う。
公式のシナリオであれば、ここからセレスティアの弁明はすべて「醜い言い逃れ」として処理され、彼女は衛兵によって引きずり出されるはずだった。
アリシアがアルフレッドの腕の中で、苦しげに瞳を潤ませながらこちらを見上げる。
そのドット絵の微かな微笑みが、莉奈には「勝った」と告げているように見えた。
「……ええ、そうね。あの時は、そうやって笑っていたわね」
莉奈は震える指で、ショートカットキーを叩いた。
彼女が仕込んだ独自のスクリプトが、神崎の書いた「公式の運命」を強制的に上書きし始める。
画面の端に、本来ならこの章では入手不可能なはずの隠しアイテム「解毒の指輪」のアイコンが、不敵に点灯した。
「お黙りなさい、アルフレッド殿下。耳障りですわ」
画面上のセレスティアが、凛とした動作で右手を掲げた。
その指先で、莉奈がデータテーブルを無理やり書き換えて初期装備にねじ込んだ『解毒の指輪』が、冷たく青い光を放つ。
神崎のシナリオでは、セレスティアはここで狼狽し、弁解の機会すら与えられないまま衛兵に連行されるはずだった。
だが、莉奈が構築した隠しフラグは、その「強制イベント」を根本から破壊していた。
「毒を盛られたとおっしゃるなら、私の指輪が反応していないのはおかしいのではなくて? この指輪は毒素に反応して赤く光る魔法具。ですが今、このサロンで光り輝いているのは、不正を暴く『真実の青』ですわ」
セレスティアのセリフが、神崎の書いたものとは異なる、鋭利なフォントで画面に流れる。
莉奈がフリー素材を加工し、スクリプトで無理やり合成した「証拠画像」がイベントスチルとして表示された。
そこには、アリシアが袖口から隠し持っていた小瓶を取り出し、自らカップに粉末を落とす決定的瞬間が、魔法の鏡の記録として映し出されている。
「……な、何だ、これは……。アリシア、これはどういうことだ!」
アルフレッドのテキストボックスが細かく震える。
先ほどまで聖女のように儚げだったアリシアの表情グラフィックが、
一瞬で「驚愕」と「恐怖」が混ざり合った、醜い歪みを見せた。
「あ、あら……? そんな、私はただ……」
アリシアの言い訳が途切れる。
莉奈の指先は、流れるような速度でキーを叩き続けた。
追い詰める。理詰めで、完璧に。
前世で浴びせられた理不尽な罵声を、そのままの熱量で論理的な断罪に変えて、プログラムの深淵から突きつけた。
画面の中で、絶対的な強者だった王子と聖女が、一人の令嬢の前にたじろいでいた。
セレスティアは一瞥もくれず、優雅な動作で背を向けた。
「失礼いたしますわ。……その紅茶、冷めないうちにどうぞ。ご自分で選ばれたお味なのですから」
冷徹な最後の一言と共に、彼女のグラフィックが画面の端へと消えていく。
残されたアルフレッドは狼狽し、アリシアは震えながらうなだれる。
そこで画面がフェードアウトし、再びデバッグログが流れる黒い画面に戻った。
「……ざまぁみろ」
莉奈は、静まり返った部屋でポツリと呟いた。
キーボードの上に置いた指には、まだ激しいタイピングの熱が残っている。
画面上のログには、正常な処理をバイパスし、彼女が仕込んだ特異点が正常に完遂されたことを示すステータスコードが並んでいた。
公式の仕様書では、セレスティアの運命は死へと収束する一本道だ。
だが今、その絶対的な因果律に、莉奈は自分の手で明確な亀裂を入れた。
かつて奪われた尊厳を、プログラムという名の現代の魔法で取り戻す。
その確かな手応えに、連日の睡眠不足で濁っていた莉奈の瞳が、かつての令嬢が持っていた気高い輝きを取り戻していた。
現実の夜はまだ深いが、彼女の心には、見たこともない新しい夜明けの兆しが差し始めていた。










