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断頭台に散った悪役令嬢は、現代でプログラマーとなり乙女ゲームに『真の救済エンド』を実装する  作者: あとりえむ


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10/20

第10話

マスターアップまで、残り四十八時間。


オフィスの空気は、煮詰まった安コーヒーの臭いと、数十台のワークステーションが吐き出す熱気で濁りきっていた。


ルミナス・ソフトウェアのフロアに、もはや「定時」という概念は存在しない。

聞こえてくるのは、キーボードを叩く乾いた音と、誰かの短く重い溜息だけだった。


莉奈は充血した瞳をこすり、最終ビルドの実行ボタンをクリックした。

これが通れば、あとは記録メディアに焼いて納品するだけの「マスター」が完成する。

モニターの中央で、プログレスバーがゆっくりと、だが着実に右へと伸びていく。


「……お願い。通って」


祈るような思いで、莉奈はデスクの端を握りしめた。


セレスティアを救い出すための隠しコード。

クライヴという名の希望を繋ぐための、膨大な追加イベントデータ。


それらは全て、メインプログラムの深層に「存在しないはずの残骸」として巧妙に偽装され、ビルドの波を待っている。


95%……98%……99%


プログレスバーが右端に到達し、一瞬の静止があった。

次の瞬間、モニターは冷酷な真紅の警告灯を点滅させた。


『FATAL ERROR: TOTAL CAPACITY EXCEEDS SPECIFICATION LIMIT(102.4%)』


莉奈の指先から、一気に血の気が引いた。


規定容量、102.4%。


わずか2.4%のオーバー。

だが、それはこの業界において、単なる数字以上の意味を持っていた。


「……嘘でしょ」


ルミナス・ソフトウェアの品質管理体制は、病的なまでに徹底されている。

容量が規定値を一バイトでも超えれば、QAチームによる「全アセット精査」が自動的に発動するルールだ。


未使用のデータ、仕様書にないスクリプト、そして正体不明のバイナリ。

それら全てを洗い出し、削ぎ落とすための大掃除が始まる。


そうなれば、莉奈がこの数ヶ月間、神経をすり減らして積み上げてきた「Project_SALVATION」の痕跡は、一瞬でゴミ箱へと放り込まれるだろう。


それどころか、開発用サーバーへの不正アクセスまで露呈し、彼女の居場所すら奪われる。



「結城さん、最終ビルドはどうだ?」


背後から、神崎の尊大な声が響いた。


莉奈は反射的にコンソール画面を隠し、震える手でエラーログを最小化した。

振り返ると、神崎が自信に満ち溢れた笑みを浮かべて立っている。


「……容量が、少し。リソースの再調整が必要です」


「なんだ、そんなことか。適当なBGMのビットレートでも落としておけ。明日には監査に回す。遅れるなよ」


神崎は莉奈の肩を軽く叩き、去っていった。

彼の足音が遠のくたび、莉奈の心臓は激しく、そして不規則に脈打つ。


目の前にあるのは、102.4という絶望の数字。

削除できるデータなど、もうどこにも残っていない。


既存のシステムは神崎の「こだわり」という名の冗長なコードで埋め尽くされ、莉奈の聖域は今、物理的な限界という壁に押し潰されようとしていた。


莉奈は震える手で、プロジェクトの全アセットリストを強制展開した。

画面を埋め尽くすのは、神崎が「最高傑作」と自画自賛するデータの残骸だ。


「……ひどすぎる」


アルフレッド王子の瞳の輝きを表現するためだけに用意された、不必要に高解像度な四枚のレイヤーテクスチャ。


アリシアが魔法を使う際、画面を無駄に彩るだけの非効率なエフェクト・パーティクル群。


そして、あちこちに散らばった「いつか使うかもしれない」というコメント付きの、動作していない死んだコードの山。


それら一つ一つが、莉奈の首を絞める2.4%を構成していた。


普段の彼女なら、それらを修正する権限など与えられない。

「余計なことはするな」「指示通りに動け」と神崎に一蹴されるのがオチだ。


だが今は、その傲慢な肥大化が、莉奈の大切なものを飲み込もうとしている。


莉奈は管理者権限を使って、神崎が隠蔽しているコアスクリプトの深層を覗き込んだ。

そこにあったのは、お世辞にもプロフェッショナルとは呼べない、継ぎ接ぎだらけの論理構成だった。


「あの日、私を殺した男たちが、こんなに杜撰な世界に守られているなんて」


憎しみが指先に熱を宿す。


だが、それを削るだけでは足りない。

闇雲に削除すれば、明日行われる動作確認の際に演出の欠落を指摘され、結局は元に戻されてしまう。


莉奈は絶望的な状況のまま、気づけばあの技術フォーラムを開いていた。

深夜の、名もなき亡霊たちが集う場所。


受信トレイには、『C』からの新しいプライベートメッセージが届いていた。

まるで、莉奈が今この瞬間に直面している壁を見透かしているかのようなタイミングで。


『世界を広げるのではなく、既存の境界線を磨き上げろ。美しい数式は、余白の中にこそ宿る』


莉奈はその一文を、何度も視線でなぞった。

境界線を、磨き上げる。


これまでは、神崎が作った巨大な箱の隅っこに、自分のデータをこっそりと隠すことばかりを考えていた。

箱が小さければ、隠す場所も狭くなるのは当然だ。


なら、箱そのものを、全く別の形に作り直したらどうなるだろうか。


神崎が用意した「完璧な世界」という名のガラクタ山。


その中にある冗長な論理をすべて解体し、莉奈の技術で極限まで圧縮・再定義すれば。

削ぎ落とされたノイズの跡地には、誰も想像できないほどの広大な「空き地」が生まれるはずだ。


「……リファクタリング。世界そのものを、書き換えるのね」


莉奈の瞳に、冷徹なエンジニアとしての光が戻った。


彼女が救いたいのはセレスティアだけではない。

この歪な物語の構造そのものを、彼女コードで支配しなければならない。


莉奈は『C』への返信を打つのも忘れ、メインプログラムのヘッダファイルを開いた。

そこには、全プログラムを統括する最上位のクラス定義が並んでいる。


「神崎さん。あなたの『完璧』が、いかに脆いものか、私が教えてあげる」


深夜のオフィスで、莉奈は一人、静かに笑みを浮かべた。

それはかつて処刑台に上がった「悪役令嬢」の、凄絶なまでの逆襲の始まりだった。


莉奈の指が、鍵盤を叩くピアニストのように加速する。

それは修正という名の、静かな破壊と再構築の儀式だった。


まず彼女がメスを入れたのは、神崎が「こだわり」と称して肥大化させた描画パイプラインだ。


画面上の華やかさを維持するためだけに、何重にも無駄な計算を繰り返していた非効率なシェーダーコード。

莉奈はそれらを数学的な最短距離へと、冷徹に書き換えていく。


「……三行で済む論理に、三百行も費やすなんて。あなたの世界は、なんて不自由で重苦しいのかしら」


一見、画面の美しさは変わらない。

だが、その裏側で走る電子の血流は、莉奈の手によって極限まで研ぎ澄まされていった。


次に、アセットの管理構造に手をかける。


重複したテクスチャデータをポインタ参照に統合し、バイナリレベルでの超圧縮アルゴリズムを適用した。

不規則に散らばっていたデータの断片が、莉奈のコードに従って整列し、意味のある密度へと凝縮されていく。


モニターの右下。

102.4%を指していた赤い数字が、一秒ごとに脈動しながら減少を始めた。


101.5%……100.8%……そして……99.2%


規定値を下回った瞬間、莉奈の瞳に凄絶な光が宿った。


だが、彼女の作業はそこでは終わらない。

リファクタリングによって生み出された数メガバイトの「空白」。


神崎や監査チームには、ただの最適化の結果に見えるその純粋な余白こそが、莉奈が求めていた最後の戦場だった。


莉奈は、ステガノグラフィの技法を極限まで応用した自作スクリプトを展開する。


隠しルート「Project_SALVATION」の全データ。

それを、最適化されたメインプログラムの「命令の間」に、一ビットの狂いもなく埋め込んでいく。


それは、まるで巨大な城壁の隙間に、目に見えない微細な毒を塗り込むような作業だった。


通常のウイルススキャンやコード監査では、絶対に検知できない。

なぜなら、そのコードは独立して存在するのではなく、システムの一部として「溶けて」いるからだ。



莉奈は最後に、セレスティアの運命を司るフラグ管理ユニットの末尾に、一行だけのコメントアウトされた数値を追記した。


表向きは何の意味も持たないデバッグ用の残骸。

だが特定の条件が揃った瞬間、その一行が世界を裏返すトリガーとなる。


「……完成。これが、私の描く『完璧』よ」


莉奈がエンターキーを叩いた瞬間、激しく回っていた冷却ファンが、役目を終えたように静まった。


モニターには、一点の曇りもない『BUILD SUCCESS』の文字が浮かび上がっている。

物理的な限界を、彼女の魂が、そして技術が突破した瞬間だった。



朝日が、ブラインドの隙間から冷ややかに差し込んできた。

オフィスが活気づき始める中、莉奈は微動だにせずモニターを見つめていた。


監査チームから届いたメールの一行目には、簡潔な結果が記されていた。


「最終ビルド、容量規定内。動作の軽量化を確認。監査合格と認める」


莉奈は、静かに溜息をついた。


張り詰めていた糸が解ける感覚と共に、空っぽの胃を鋭い痛みが走る。

だが、その痛みさえも、今は心地よい達成感の一部だった。


「おい、莉奈。監査の結果を見たぞ」


背後から、神崎の浮かれた声がした。

振り返ると、彼はコーヒーカップを片手に、これ以上ないほど満足げな笑みを浮かべていた。


「容量、99.9%か。ギリギリだが、よくやった。あれだけあった贅肉をこれほど鮮やかに削ぎ落とすとはな。やはり、私の指示通りにBGMやテクスチャを整理したのが正解だったということだ」


神崎は莉奈の隣に立ち、高速化されたテストプレイ画面を眺めた。

自分の指示が完璧だったと信じて疑わないその顔には、誇らしげな色が浮かんでいる。


「動作も軽快だ。私の描いた演出が、以前よりもさらに洗練されて見える。莉奈、君もようやく私の美学を理解し始めたようじゃないか」


神崎は莉奈の肩を叩き、上機嫌で自分の席へと戻っていった。

周囲の同僚たちも、マスターアップ目前の快挙に、安堵の表情を浮かべて彼女に労いの言葉をかける。


莉奈は、ただ小さく会釈をしてそれに応えた。

誰も気づいていない。


この世界が劇的に軽くなったのは、神崎の指示に従ったからではない。

彼の無能な設計を莉奈が根底から上書きし、その残骸の中に、真実の物語を埋め込んだからだ。


99.9%。

残されたわずか0.1%の余白。

そこには、神崎が「バグ」として切り捨てた者たちの魂が、莉奈の手によって確かに息づいている。



莉奈は、空になったマグカップを握りしめた。

指先の震えはもう止まっている。


表向きは、神崎の「完璧な世界」が完成した。

だが、その心臓部で脈打っているのは、莉奈が書き換えた反逆の鼓動だ。


セレスティアとクライヴ。

そして、かつて断頭台で果てた自分自身の魂。

全ての役者は揃い、舞台装置は隠蔽されたまま、その時を待っている。


「……さあ、始めましょう」


莉奈は、モニターに映る『BUILD SUCCESS』の文字を見つめ、誰にも聞こえない声で呟いた。


マスターアップ。

それは、この偽りの物語を終わらせるための、カウントダウンの開始だった。

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