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揺れる檻

 ……微かに、光が見える。

 瞼の裏側を、頼りない橙色の光がゆらゆらと撫でていた。それと同時に、耳の奥に届くのは、無数の、けれど極めて小さな呼吸の音。一つ、二つではなく、数十、あるいは百を超えるような、湿り気を帯びた生温かい吐息の群れ。


 脳が、ゆらりと揺れた。

 後頭部を、焼けた鉄を押し当てられたような鋭い痛みが突き抜ける。アドララの街道で、警備兵に打ち据えられた衝撃の残滓だ。


 頬に伝わる硬い感触が、ゆっくりと右へ傾き、数秒かけて今度は左へと傾いでいく。自分の平衡感覚が、まるで糸の切れた操り人形のように頼りない。

 吸い込むたびに肺の奥がちりちりと爆ぜるような、濃い塩の匂いと、大勢の人間が狭い場所に押し込められた際に放つ特有の獣臭が鼻腔を突いた。


 ようやく重い体を、震える手で突き持ち上げる。

 視界の端に映ったのは、鼻先数センチにある「木目」だった。

 荒く削り出された、黒ずんだ板材。その節穴が、じっとこちらを覗き込む飢えた獣の眼のように見えて、思わず息を呑んだ。


「……っ」


 声を漏らそうとして、喉が焼けるように乾いていることに気づく。指先を動かそうとしたが、指の腹が触れたのは、冷たく湿った木の感触だけだ。砂と、得体の知れない油の混じった不快な手触り。


 ギィ……ィ……。


 頭上から、巨大な怪物が骨を軋ませるような音が響く。その音に呼応するように、視界の中の木板が、再びゆっくりと、抗いようのない重力で傾いていった。

 背中から伝わる、絶え間ない振動。板一枚隔てた向こう側で、何かが激しくぶつかり、砕け、泡立つ音がする。


 ――水だ。

 それも、ただの水ではない。底の知れない巨大な塊が、意思を持って暴れている音。

 そこでようやく、私の鈍った思考に一つの言葉が浮かび上がった。ここは、おかじゃない。私は今、波の上に浮く「木の箱」の中に閉じ込められているのだと。


 ここは、船の底だった。


 視線を上げると、そこには敷き詰められたように人が溢れていた。

 何人もの老若男女が、死んだ魚のような眼でじっと私を見てくる。

 両膝を抱え、祈るように体を小刻みに揺らしている者。骨が浮き出るほど痩せ細った男性。感情などとうに枯れ果てたのか、ただ中を一心に見つめているボロボロの赤い服の女性。彼女の首元にある汚れた白いスカーフが、船の揺れに合わせて虚しく揺れている。


 近くで、肌が泥で汚れた幼い男の子が、瞬きもせずに私のことをじっと見つめていた。

 子供が小さく、何かを指差す。その時、隣にいた母親らしき年配の女性が、まるで「不浄なもの」に触れさせないような手つきで子供を強く引き寄せ、私から目を逸らさせた。


 子供が指差した先。そこを見て、私の心臓が凍りついた。

 一人の男が、恍惚とした表情で何かを眺めている。その手の中で鈍く光っているのは、私がアライアスから貰った、あの大切な銀の指輪にそっくりだった。


 咄嗟に自分の指を見る。そこにあるはずの温もりが、消えていた。

 恐怖よりも先に、怒りと焦燥が体を動かしていた。私はふらつく足取りで、その男性に詰め寄った。


「私の指輪よ。返して!」


 思ったよりも、船内に私の声が鋭く響き渡った。

 元から静まり返っていた船底が、さらに深い静粛に包まれる。周囲の人々の視線が、無数の針となって私の全身に突き刺さった。


 目の前の男性が、私をひどく睨みつけてくる。

「これは僕が拾ったんだ。君のだっていう証拠はあるのかい?」


「私の名はイユよ。その指輪の内側には、私の名前が彫られているわ」


 私がそう告げ、男性が反射的に指輪の内側を覗き込もうとした瞬間、私はその隙を見逃さなかった。奪い取るように、彼の指先から指輪をひったくる。


「返せ!」

「これは私のよ!」


 叫んだ直後、両手で思いっきり突き飛ばされた。

 ドサリと尻餅をつき、後頭部に再び激痛が走る。恐怖で身が竦むが、男は拳を握りしめ、獲物を追い詰める捕食者のような目で私に一歩、また一歩と迫ってくる。


「返せ。それは僕が先に見つけたんだ」


「これは私のものよ! 絶対に渡さない……!」


 私は震える指で、素早く指輪を嵌め直した。

 もう、これ以上。

 伯爵にアライアスから引き裂かれ、故郷を追われ、ココとも離れ、レドまで犠牲にして……これ以上、誰にも、何も、私から大切なものを奪わせはしない。この指輪まで失ったら、私は私でいられなくなる。


「絶対に、渡さない……!」


「あーーーー!!」


 男性が怒りに任せて絶叫し、私に掴みかかろうと腕を振り上げた。

 暴力の予感に、私はただ強く、強く目を瞑ることしかできなかった。

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