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空虚な澱み

 アドララへは、思ったよりも早く着いた。

 時間にすれば、一時間ほどだろうか。ガタゴトと揺れる馬車の中で、道中はレドと他愛もない、けれど穏やかで楽しい話を続けた。死の影に怯えた地獄のような夜を越えた後のその時間は、身も心も擦り切れていた私にとって、唯一の、そしてあまりに脆い救いだった。


 しかし、不意に視界が開けた先に現れたアドララは、私が夢想していたような輝かしい港町ではなかった。

 かつて異国の旅芸人が語った、黄金に光る波飛沫ときらびやかな市場――そんな理想とは程遠い、色彩を失った灰色の街。湿った潮風の匂いだけが重たく空気に混じり、活気のない人通りと澱んだ空気が、湿り気を帯びて地面にへばりつくように滞っている。


 ……浮かれすぎていたのだ。

 一瞬でも未来に希望を抱いた自分の甘さを呪い、私は奥歯を噛み締めて、すぐに心を冷酷な現実へと引き戻した。胸をざわつかせる、この嫌な予感。執拗な伯爵の影が、街を覆う湿った霧のどこかに潜んでいるような気がしてならなかった。


「ねえ、レド。……少し歩けるかな? なんだか、この馬車で入るのは気が引けて」


 私の震える声に、御者台のレドは少し困ったように眉を下げた。だがすぐに、私の不安をすべて汲み取るような、深く同情する表情を浮かべてこちらを振り返った。


「そうだな。だが、馬車を置いていくわけにはいかない。俺がなんとか手綱を引く。君は馬車を降りて、徒歩で、顔を隠して入っていった方がいいだろう。街の入り口付近で待っていてくれ。馬車を片付けたら、すぐに向かう」


「ええ、分かったわ」


 私はレドに促されるまま御者台を譲り、地面に降り立った。乾いた土の感触が足裏に伝わった、その時だった。

 街道の向こうから、数頭の馬にまたがった一団が猛烈な勢いで砂埃を上げ、こちらに向かってくるのが見えた。鈍く、鋭く光る金属質の甲冑。その威圧感に息が止まる。


「まずい、警備隊だ。……イユ、隠れるんだ!」


 レドの低く鋭い助言に従い、私は心臓を激しく脈打たせながら、咄嗟に馬車の後方、死角となる位置へ身を潜めた。

 早鐘を打つ鼓動が耳元まで響く。嫌な汗が額からひと筋こぼれ、緊張で喉の奥がカラカラに乾いていく。


「――動くな!」


 鼓膜を震わせる鋭い怒号と共に、荒い鼻息を吐きながら馬たちが一斉に足を止めた。激しく巻き上がった砂埃が、馬車の後ろで蹲る私の元まで舞い込み、視界を白く濁らせる。


「そのまま動くなよ。……護衛はどうした?」

「あ、あなた方は……?」

「見れば分かるだろう。アドララの警備隊だ。オルドレイク伯爵からの『特別な積み荷』のはずだ。護衛の騎士と……その怪我はどうした?」


 厳しい追及に、レドは恐怖で震える声を必死に押し殺して答えていていた。

「道中、賊に襲われて……。護衛の方々も殺されてしまいました。私は一人、命からがら、ここまで逃げてきたのです」


 ジャリ、と馬を降りる金属音が幾重にも重なり、心臓を直接踏みつけられるような錯覚に陥る。

「ふむ。自ら治療したのか? ……積み荷はどこだ」

「その……気付いた時にはもういませんでした。賊に殺されたのかもしれません」

「ほお……」


 重い足音がこちらへ近づいてくる。私は指先を強く組み合わせ、息を殺し、ただ祈るように目を閉じた。

 馬車のドアが乱暴に引き開けられる音がし、数秒の静寂の後、苛立ちをぶつけるように激しく閉められる音が空気を打った。


「なっ、何を!? あぁぁあ!!」


 突然、鼓膜を突き刺すようなレドの悲鳴が上がった。

「積み荷はどこだ! 手間を取らせるな!」

「し、知りません! 本当に……」


 ドスッという鈍い衝撃音が聞こえた。硬い拳かブーツが、生身の肉を叩く嫌な音が聞こえてくる。


「あああああ!!」

レドの悲痛の叫びが、私の鼓膜を襲う。


「どこで降ろした! さっさと吐け! お前の手当てをした『積み荷』はどこだ! どこにいる!」


 レドは激痛に喘ぎながら、それでも必死に嘘を突き通そうとしていた。

「本当に……本当に、知らないんです。これは……途中の宿で、親切な旅人が……」


 再び、重苦しい衝撃音が響く。

 私は、もう耐えられなかった。

 レドはまだ深い怪我を負っているのに。私のせいで矢傷を負い、私のために、今また無残に痛めつけられている。


(私は弱い……自分勝手で、弱くて、情けない人間)


 自身の不甲斐なさを噛み締め、震える膝に力を込めた。彼がこれ以上傷つく音を、馬車の影で安々と聞いていることなど、到底できなかった。


 私は、這いずるように馬車の影から姿を現した。

 一瞬で、警備隊の兵士の冷徹な眼光と、視線がぶつかり合う。


「わ、私は……」


 すべてを終わらせようと、自首の言葉を紡ぎかけたその瞬間。

 死角から背後に回り込んでいた、もう一人の兵士の影に気づく暇もなかった。


 ――ゴンッ!


 後頭部に、硬い棍棒のようなものが容赦なく叩きつけられた。

 視界がぐにゃりと歪み、色彩が混濁する。天と地がひっくり返り、アドララの重苦しい灰色の空が激しく揺れた後、意識は急速に深い闇へと暗転していく。


 地面に力なく倒れ伏す私の耳に、遠のいていく意識の底で、誰かの凍てつくような冷ややかな声が聞こえたような気がした。

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