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アドララへの轍

 地平線の端から、じりじりと光が這い出してきた。

 夜を支配していたあの禍々しい闇が嘘のように、周囲は白み始め、朝の清冷な空気が森の残滓を洗い流していく。手綱を握る指先は感覚を失うほど冷えていたけれど、隣を歩く馬の吐息は白く、その規則正しい足音だけが私を現実に繋ぎ止めていた。

 この馬は、驚くほどおとなしい。不慣れな私の拙い指示にも従順に応え、ただ黙々と前を目指して進んでくれる。


 街道の先に、一軒の宿屋が見えてきた。

 古びてはいるが、堂々とした構えの立派な宿屋だ。煙突から細く上る煙を見て、頭の中に一瞬、甘い誘惑がよぎった。


(このまま、この国のどこか遠い場所で、名前を変えて暮らせないかしら……)


 けれど、その考えはすぐに朝風に吹かれて消えた。

 伯爵の網の目は、この国の隅々にまで張り巡らされている。もし部下に見つかれば、今度こそ命はない。アライアスに二度と会えないばかりか、私の存在そのものがこの世から消されてしまう。

 私は、死にたくなかった。もうトラブルはごめんだ。

 馬を休ませたい気持ちを抑え込み、私は宿屋の前を素通りして、さらに先へと馬車を走らせた。


 ガタ、と馬車の後部仕切窓が開く音がした。


「なあ、あんた、名前は?」


 覗き込んだ御者の男性の声には、昨夜の瀕死の状態が嘘のような活力が戻っていた。


「イユよ。あなたは?」

「レドだ」

「よろしく、レド。……それで、肩の調子はどう?」


 私が最も案じていたことを問うと、彼は少し照れくさそうに笑った。


「あんたのおかげで、かなり良くなったよ。痛みもだいぶ引いた。……本当にありがとう、助かったよ。あんたがいなけりゃ、今頃俺は……」


 レドの声が、一瞬だけ強張る。昨夜の死の淵を思い出したのだろう。


「お互い様よ。あなたが私に『逃げろ』って忠告してくれなかったら、私は今頃、盗賊に殺されていたわ」

「俺はただ、あの辺境伯が嫌いだっただけさ」

「ンフフ♪ 奇遇ね。私もよ」


 思わず漏れた私の笑い声に、レドも「ハハハ」と声を上げて笑った。

 重苦しかった胸の支えが、少しだけ軽くなる。流れる風が、今はとても心地よく感じられた。


「それより、ずいぶんと手綱さばきが上手いんだな」


 レドの言葉に、私は遠い日々を思い出す。

 まだ何者でもなかった頃。毎日が労働で明け暮れ、苦労は絶えなかったけれど、それでもどこか充実していたあの温かい日々。


「昔、何度か手伝うことがあったから。その時の経験よ」

「昔から働き者だったんだな」


 何気ないその一言が、乾いた心に染み渡る。伯爵に「おぞましい血」と蔑まれたばかりの私にとって、誰かに「働き者だ」と認めてもらえることは、何よりも救いだった。


「まあね。でも、本職のあなたには負けるわ」

「ハハハ。ああ、だが、君のおかげで、その本職の仕事を失わずに済んだ。感謝しきれない。……それで、どこへ向かってるんだ?」


「隣国よ。戦争中だって聞くけれど……この国には、もういられないの。私は、その……どこかで降りなきゃね」


 私がそう答えると、レドは意外そうな顔をした。


「……馬車で行くつもりなのか?」


 レドの問いに、私は言葉に詰まった。冷静になれば、一ヶ月もかけて馬車で隣国へ向かうなど、平民の私にはあまりに非現実的な話だ。

 そもそも、私は伯爵にどこへ連れて行かれようとしていたのか。処刑場か、あるいはもっと酷い場所か。


「そう思う気持ちはわかるよ。でも実際は『アドララの港まで送れ』と聞かされてたんだ」


「アドララ……」


 それは一度も行ったことのない、未知の港街だ。海があり、船があり、国外から訪れる人々が溢れている。旅芸人の口から大層な物語として聞かされてきた、憧れの場所。

 平民が隣街へ行くなど、商人か職人、あるいはよほどの奇人だけだった。けれど、もしそこが未知の人々で溢れているのなら。


(私のような『どこの馬の骨ともわからない不審者』でも、目立たずに紛れ込めるかもしれない)


 こんな目に遭ってもなお、楽観的な希望を捨てきれない自分がいた。


「アドララに着いた後は、どうなる予定だったのか知ってる?」

「いいや。だが、想像はつく。……いわゆる『奴隷船』に押し込まれて、どこかへ連れて行かれる予定だったんだろう。だから、あそこには行かない方がいい」


 レドの声が、怒りと恐怖で震えていた。彼が心から私の身を案じてくれていることが、痛いほど伝わってくる。


「その奴隷船は……隣国へ向かうの?」

「俺が知っている限りの話じゃ、そうだ。だが確信はない。ただの噂話だ。本当のことは何も知らないんだ」


 私は少しの間考え、決意を込めて言った。


「アドララへ行ってもいい?」


 私の言葉に、レドは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに力強く頷いた。


「ああ、もちろんだ。是非そうしてくれ。誇れるような住まいじゃないが、自分の家がある。妻もいる。大したお礼はできないが、せめて食事ぐらいは……」

「ええ、ありがとう。レド。是非お願いするわ」


「よし、じゃあ、道案内をしよう。……イユ、次の十字路を右だ」


 私は手綱を握り直し、馬の背中を優しく揺らした。

 未知の街、アドララ。

 そこが私の終わりの場所になるのか、それとも新しい始まりになるのか。今はまだ分からなかったけれど、私は迷わず右へと舵を切った。

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