残り火の誓い
森を抜ける足取りは、盗賊から逃げ惑っていた時よりもずっと重く、一歩ごとに泥が足首に絡みつくようだった。
暗闇に慣れた目のおかげで、行く手を見極めるのは少しはスムーズになった。けれど、背後にはあの凄惨な「肉の宴」の残響が、耳の奥にべったりとこびりついている。死と腐敗、そして超越的な暴力。自分の中にある、静かで穏やかだった「大切な何か」が修復不能なほどに摩耗し、失われてしまった感覚が拭えなかった。
孤独。
その言葉が、夜気に冷え切った身体に追い打ちをかける。
故郷に居場所はない。戻れば伯爵の冷酷な追手が、私を「泥」として排除するために待ち構えているだろう。きっとこの国の貴族は皆、彼と同じように、身分の低い者を人間とは見ていないのだ。アライアスだけは、あの瞳だけは違った。でも……もう、彼の手が届く場所には、私は二度といられない。
ココ……。
あの子は、きっと本来の親の元へ帰りたかったのだ。それは喜ばしいことなのに、私は命を救われたはずなのに、胸の奥には大切な半身をもぎ取られたような、埋めようのない暗い空洞が広がっていた。
やがて、闇に慣れたきった瞳が、街道に力なく停まったままの馬車の輪郭を捉えた。
しかし、車体の影に誰かが力なくもたれかかっている。肩を深く抑え、喉を鳴らすような荒い息を吐いている人影。
(盗賊の生き残り……!?)
私は息を呑み、護身のために足元に落ちていた太い枝を強く握りしめた。けれど、慎重に近づくにつれて見えてきたのは、血に汚れ、引き裂かれた見覚えのある質素な外套だった。
(御者の人……!?)
私を逃がそうとしてくれた、あの男性だった。私は慌てて枝を捨てて駆け寄る。彼の肩には矢が深く突き刺さり、指の間からはドクドクと、どす黒い血が止めどなく溢れていた。
「来るな……ッ!」
彼は痛みで顔を醜く歪め、意識が混濁しているのか、私を遠ざけようと必死に手を振る。
「大丈夫、私よ。」
「ああ……君か……。無事で、本当によかった……。森の奥から、凄まじい絶叫が聞こえたから……。スケイル(魔物)に、盗賊諸共殺されたのかと……思っていた……」
「私は倒木に身を潜めていたから、大丈夫。それより……その肩、矢が」
彼の右肩には、羽根のついた矢が深々と、骨に達せんばかりに突き刺さっていた。おそらく、逃げる際に背後から盗賊が放ったものだろう。
「頼む、抜いてくれ! これがあるだけで……神経が掻き乱されて、気が狂いそうだ!」
彼は半ばパニックに陥っていた。身体に突き刺さった異物を取り除きたいという、本能的な恐怖と嫌悪感。私は自分を落ち着かせるように、低く、しかし凛とした声を意識して出した。
「待って。今抜いたら、死んでしまうわ」
「死んでもいい、この痛みから解放してくれ! 早く抜いてくれ!!」
彼は声を荒らげ、正気を失いかけた目で私に縋る。
「少しだけ待ってて。すぐ戻るから、絶対に動かないで!」
私は彼を必死に宥め、急いで森の入り口へと引き返した。森での経験が、私の思考を冷静に研ぎ澄ます。森の境界付近に必ず生えているイラクサ。私はその刺を避けながら葉を数枚むしり取る。足元の土を少し掴むと、そこは非常に湿り気を帯びた土壌だった。
次に、先ほど森の出口で見かけた古い蜂の巣へと向かった。落ちていた硬い枝で叩き割ると、乾燥した巣が地面に落ちて無残に砕ける。そこから、内側に僅かに残っていた粘り気のある蜂蜜を指で掬い取り、イラクサの葉の表面に丁寧に塗りつけていく。
(これだけイラクサが自生する土壌なら、近くに「あれ」もあるはず……)
私は焦る気持ちを抑えて、周辺の草むらを必死に探した。そして、すぐに見つけた。コンフリーだ。それをちぎり取り、さらに転がっていた「火炎石」の小さな欠片を拾い上げ、全速力で御者の元へ戻った。
「戻ったわ、大丈夫。すぐ治療を始めるからね」
彼はひどく荒い、浅い呼吸を繰り返し、返事をする余裕もなさそうだった。
私は地面に蜂蜜を塗ったイラクサを広げ、その上で火炎石を勢いよく割った。放たれた魔力の熱でコンフリーをじりじりと焦がし、その燻った灰と燃えた葉片がイラクサの表面に落ちて付着していく。天然の防腐剤と止血剤、そして熱による消毒代わりの処置。
突き抜けた先の矢尻を確認する。幸い、肉を掻き出す「返し」はついていなかった。
「今から、一気に矢を抜くわ」
「た、頼む……っ」
「これを噛んで。舌を噛まないように」
私は手近な太い枝を彼の口に含ませた。彼はそれを、奥歯が砕けんばかりに横に強く噛み締める。
「三で抜くわよ。……一、二!」
私は渾身の力で真っ直ぐに矢を引き抜いた。
「あああああーーーーッ!!!」
枝越しに凄まじい悲鳴を上げ、彼は弓なりになって激しく暴れたが、激痛によるショックですぐに意識を失い、ぐったりと動かなくなった。
私は迷わず、用意しておいた特製のイラクサの葉を、傷口を前後から挟み込むようにして強く貼り付けた。
(良かった、噴き出すような出血はない。血管は無事みたいだわ)
彼の口から枝を優しく取り除き、私は馬車の扉を開けた。
シートのレザーを、先ほどの鋭い枝で無理やり引き裂く。長年の使用と経年劣化で脆くなっていたおかげで、レザーは思いのほか簡単に剥がれ落ちた。それを適当な細さに裂き、傷口に当てたイラクサを圧迫するようにして、肩から脇の下にかけて縛り上げ、縛り上げすぎて神経まで圧迫しないように少し緩める。
一息ついて額の汗を拭うと、彼が微かに瞼を動かし、意識を取り戻した。
「あ……ありがとう……。助かった……」
「良かった。でも、早くここから離れた方がいいわ。盗賊の生き残りが戻ってくるかもしれない」
「あぁ……そうだな……。」
私は彼に肩を貸し、なんとかその身体を引きずるようにして馬車へと乗せた。
そして急いで血のついた手で御者台に座り、唯一残った一頭の馬の手綱を握りしめる。昔、村の収穫の手伝いで馬車を引かせた時の、手に残る感覚を必死に手繰り寄せた。
「……お願い、走って」
私はゆっくりと、しかし確実に手綱を震わせ、馬車を走らせ始めた。
馬車の大きな車輪が、道端に転がる、私を冷酷に見張っていたであろう一人の騎士の死体――その、もはや物言わぬ肉の塊を無慈悲に踏み越え、大きく揺れた。




