鮮血の森
圧倒的な死の化身を前に、私はただ石のように硬直していた。
牙の隙間から漏れ出す、内臓を焼いたような腐敗の臭い。視界のすべてを絶望で埋め尽くす異形の貌。もはや神に祈る言葉すら枯れ果て、私はただ「せめて、痛みがないように」とだけ心の中で震えながら願い、固く目を閉じた。
しかし。死の接吻を覚悟した私の耳に届いたのは、地獄の咆哮でも肉を裂く音でもなく、あまりに聞き慣れた、この場には場違いなほど愛らしい鳴き声だった。
「キュイッ!」
……え?
弾かれたように目を開けると、そこには、あのおぞましい巨躯の足元で、泥にまみれるのも構わず楽しげに飛び跳ねる小さな黒い影があった。
「ココ……!? ココなの!?」
それは、あの懐かしい山小屋から忽然と姿を消してしまった、ふかふかの相棒だった。私が震える声で名を呼ぶと、ココはちぎれんばかりに短い尻尾を振り、まるで長い旅から帰った飼い主を迎えるかのように無邪気な動きを見せる。
全身の力が抜け、せき止めていた涙が溢れそうになる。けれど、私の心に灯った小さな「再会の喜び」は、すぐ背後に迫る現実の恐怖によって、瞬く間に塗り潰された。
「こっちだ! こっちから女の声がしたぞ、急げ!」
遠くから、夜の闇を突き破る複数の松明の明かりが近づいてくる。彼らは血眼になって、獲物である私を追い詰めていた。
私は助けを求めるように、目の前の怪物とココを必死に見上げた。しかし、そこで信じられない光景が広がる。山のような巨軀を誇った怪物は、まるで夜の闇そのものに溶けて蒸発するように、音もなくその姿を消したのだ。ココもまた、一瞬の瞬きの間に影のなかに吸い込まれ、消えてしまった。
「待って……ココ! 行かないで!」
必死に伸ばした指先は、冷たい夜気を掴むだけで、虚しく空を切った。
直後、どこからともなく切り裂くような強い突風が吹き抜けた。その風の鋭さに、地面に落ちていた盗賊の松明も、草木に燃え移っていた炎も、まるで最初から存在しなかったかのように一瞬で掻き消された。
森は再び、深い静寂と、何も見えない真の闇に包まれる。……いや、それは静寂ではなかった。
「おい……あれ、ロイグだろ……」
「嘘だろ、ひでえ……」
「逃げた方がいい……」
追いついてきた盗賊たちの、歯の根が合わない震える声が聞こえてくる。彼らは、地面に転がる「かつて仲間だったもの」の、もはや肉塊と化した無残な残骸を、手にした松明の震える光で照らし出し、極限の恐怖に身を竦ませていた。
幻覚ではなかったのだ。だったら、あの怪物は、一体どこへ……。
「このアマ……ッ!」
不意に、憎悪を煮詰めたような声が私を突き刺した。盗賊のリーダーらしき男が、腰の剣の柄を指が白くなるほど強く握りしめ、目を血走らせてこちらへ歩み寄ってくる。
「おい、……近づかない方がいい。そいつは……『凶つの魔女』だ。何をしたか見ろよ!」
「魔女がこんな風に逃げ回るかよ」
男は鼻で笑い、唾を吐き捨てた。
「俺たちを騙して、この森の呪われた結界に誘い込んだんだ!」
後方の盗賊たちが、本能的な恐怖に負けて後退りしていく。けれど、怒りと復讐心に我を忘れた男は止まってはくれなかった。
「だったら、生きたまま火炙りにしてやるまでだ。この化け物め!」
男の汚れた無骨な手が、私の細い腕を万力のような力で掴み上げた。ミシリと骨が鳴るような痛みが走る。
「楽には死なせねえぞ。弟が味わった苦しみを、その身にたっぷり刻み込んでやる……!」
「嫌! 離して、やめてっ!」
必死に腕を振りほどこうともがくが、男の腕は岩のように動かない。もう片方の手は恐怖に縛られ、指先ひとつ動かせない。私が絶望の中で必死に抵抗を続けていた――その時だった。
ドロリ、と。
私の腕に、ひどく熱く、粘り気のある液体がしたたり落ちてきた。鼻を突く、生臭い血の匂い。
嫌な予感に支配され、恐る恐る顔を上げる。
そこにあったのは、私を掴んでいたはずの男の、絶望と困惑が奇妙に混ざり合った、硬直した表情だった。
男の身体は、まるで濡れた紙細工が破れるかのように、腰のあたりから左右へと音もなくずれ、そこから大量の血が溢れ出してきた。「あ……ああ……」という空気の抜けるような音と共に、上半身と下半身が別々の重い塊となって地面へ崩れ落ちる。
私は、もはやパニックのままに、自分の腕を掴んだまま残された男の手を、悲鳴を上げながら振り払った。
頭上から降り注ぐ、逃げ場のない圧迫感。前を向くと、そこには再びあの巨大な怪物が姿を現していた。背後にいた盗賊たちは、言葉にならない絶叫を上げ、蜘蛛の子を散らすように闇の中へと逃げ始めた。
私は息を呑み、怪物の貌を仰ぎ見た。怪物は、いくつもの青い目を細め、ゆっくりと背後へ振り返った。
――逃がさない。
怪物の確固たる殺意が、森の重苦しい空気を物理的に振動させたようだった。
怪物はゆっくりと片方の翼を天高く掲げ、一振りした。すると、翼を覆っていた針よりも鋭い漆黒の体毛が、まるで意志を持つ無数の黒い矢となって放たれた。
逃げようとした盗賊の一人が、後頭部を巨大な刺に射抜かれた。グシャリという音と共に、彼の頭部は刺の勢いのまま、背後の大木に深々と縫い付けられた。
首から上が消滅した盗賊の身体は、しばらくの間、慣性だけで数歩駆け出した後、糸が切れた人形のように力なく地面へ倒れ込んだ。
「あぁ!!」
思わず悲鳴が漏れ、私は両手で口を強く押さえた。胃の底から熱い酸がせり上がってくる。
もう一人の盗賊は、背中から一本の刺に射抜かれ、なす術もなく手足をぶらつかせた状態で木に釘付けにされていた。その姿は、まるで異教の残酷な儀式の展示品か、剥製のようだった。
もう、見ていられない。
暗闇の向こうから、逃げ惑う男たちの絶望に満ちた悲鳴が何度も響き、私の耳を蹂躙する。
私は両手で顔を覆い、泥の中にうずくまった。冷たい血の雨がパラパラと降り注ぎ、森に満ちていた生命の気配が、一つ、また一つと確実に塗り潰されていく。
……どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、肌を刺すような怪物の圧倒的な重圧が、潮が引くように消えていくのを感じた。
恐る恐る目を開けると、そこにはもう、あの怪物の姿も、ココの影もなかった。
残されていたのは、打ち捨てられた多数の松明の灯りに照らされた、原型を留めない肉片が散らばり、地面が赤黒い池のように染まった、この世の地獄を具現化したような惨状だけだった。
「も、戻らなきゃ……道に、馬車のあった道に戻らなきゃ……」
私は震えてガクガクと鳴る膝を叩き、よろよろと立ち上がった。
ココが何者なのか、あの怪物の正体は何なのか、アライアスのこと。今はもう、何も考えられなかった。ただ、一刻も早くこの死臭漂う森を抜け出し、人々が通る「道」へ戻ること。それだけを、壊れた時計のように頭の中で繰り返しながら、私は血と泥に汚れたドレスの裾を引きずって、闇の中を歩き出した。




