夜を喰らう咆哮
不規則に揺れ続ける馬車の振動に身を任せているうちに、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
昨夜の雨上がり、珍しいキノコを追い求めて、湿った土の匂いが立ち込める森を夜遅くまで彷徨ったのが祟ったのかもしれない。泥のような眠りのなかで、私はあのお気に入りの山小屋にいた。今はもう隣にいない、ふかふかで温かい相棒・ココの柔らかな毛並みに顔を埋める感触を思い出しながら、初めてアライアスと出会ったあの瞬間を、宝物をなぞるように反芻していた。
――私は最初、彼を貴族だなんて思いもしなかった。
深い傷を負い、泥にまみれ、それでも不安を隠すように少しだけ心細そうに笑う一人の青年。もしあの時、彼が「伯爵家の嫡男」という重すぎる肩書きを背負っていると知っていたら、私はもっと上手く距離を置けただろうか。こんなにも深く、互いの魂を分かち合うような恋に落ちずに済んだのだろうか。
今さらそんな後悔をしても、全ては砂時計の底に落ちた砂のように、取り戻せはしなかった。アライアスは今頃、主を失って空っぽになった私のパン屋の部屋を見て、何を思っているだろう。裏切られたと、身分違いの恋に怯えて金を持って逃げた女だと、私を憎んでいるだろうか。
不意に、胃の腑を突き上げるような激しい衝撃と共に馬車が止まった。
「……っ!?」
跳ね起きた私の耳に飛び込んできたのは、静寂を切り裂く御者の狂乱した叫び声だった。
直後、扉が乱暴に引き絞られ、冷たい夜気が流れ込む。
「早く逃げろ! 盗賊の待ち伏せだっ!」
御者の男性は、恐怖に顔を歪めたまま私を顧みる余裕もなく、夜の闇へと一目散に駆け出していった。
外はすっかり日が落ち、木々の隙間から差し込む月光さえ届かない濃密な闇が支配している。遠くで金属の触れ合う嫌な音と、獣のような野太い怒号が響き渡った。
「騎士なんていない! さっさと行け!!」
私は震える足で馬車を降り、泥を跳ね上げながら、無我夢中で森の奥へと走り出した。
「なにしてる!? 貴族がどこにもいねーぞ!」
「いいから、逃げた奴らを始末するぞ。ついてこい! お前たちも来い!」
獲物を逃した盗賊たちの苛立ちが、冷たい風に乗って背後から伝わってくる。
頼れるのは、長年の薬草採りで培った森の散策の勘だけだ。しかし、今の私には行く手を照らす松明もなければ、背中を守ってくれるアライアスもいない。
パキッ、と乾いた枝が折れる音が、静まり返った森に痛々しく響く。
行く手を阻む尖った枝が容赦なく腕や頬を切り裂き、鋭い痛みが走る。足元の感覚もおぼつかないまま、肺が焼けるような呼吸を繰り返して走り続ける。
その時、地を這う蛇のような木の根に足を取られ、私は無様に地面へ転倒してしまった。
「痛っ……」
呻き声を必死に押し殺すが、追っ手の重い足音は確実に、一歩ずつ近づいてくる。
私は必死に地を這い、近くにあった巨大な倒木の影に身を潜めた。湿った泥の匂いと死んだ木の腐臭が鼻を突く。早鐘を打つ心臓の音が全身に響き、それだけで居場所がバレてしまいそうだった。
視界のすぐ先に、不気味な橙色の松明の明かりがちらつき、どんどんと近づいてくる。
火影の数が多い。到底、一人や二人ではない。
「男の方は仕留めたが、こっちに逃げた奴はまだだ。女だったぞ」
「ならお前は喜んで一番に探すよな」
「ハハハ、お前はあっちだ。お前達は向こうを探せ」
下卑た濁った笑い声が、粘りつくように鼓膜を震わせる。恐怖で肺が縮こまり、極限の緊張が喉の奥をヒリつかせた。堪えようとしても、逆流する酸素が気道を強く刺激する。
「……っ、……ごほっ!」
あ、と思った時には、すべてが手遅れだった。慌てて手で口を覆ったが、湿った咳の音は、夜の静寂を無残に切り裂いてしまった。
「――見つけたぞ。お嬢ちゃん」
獲物を追い詰めた愉悦に満ちた声が、すぐ目と鼻の先から聞こえてくる。
絶望が冷たい針となって全身を貫く。ゆっくりと、熱を帯びた松明の明かりがこちらを覗き込み、私の影が地面に長く伸びて、逃げ場のない現実を突きつける。
殺される。それか、死ぬよりも酷い目に……。そう確信して、ぎゅっと目を閉じ、運命を呪った。
その時だった。
――ドンッ!!
空から、巨大な「質量」が降り注いできた。
大地を揺るがす地響きと共に、つい先ほどまで私を嘲笑っていた盗賊の悲鳴さえ上げる間もなく、何かが「肉と骨」を無慈悲に踏み潰す鈍い音が響いた。
あまりの衝撃波に、私は恐怖で指一本動かせなくなった。盗賊が取り落とした松明が地面を転がり、周囲の乾いた草木に、まるで意志を持つかのように火が燃え移っていく。
揺らめく炎が、ゆっくりとその「姿」を照らし出した。
私は、息を呑むことさえ忘れてしまっていた。
見上げた夜空が、星の瞬きではなく、圧倒的な「黒」に塗り潰されていることに気づいたからだ。
そこにいたのは、森の巨木をまるで頼りない苗木のように見下ろす、山のごとき巨躯だった。夜の帳そのものを肉体にしたかのようなその異様は、空を覆い尽くし、ただそこに在るだけで大気を重く圧し潰している。
全身を覆う漆黒の毛皮は、一見すれば見事な絨毯のようだが、その一本一本が鋼の針よりも鋭く尖っている。風が吹くたび、そこから腐敗した死の残り香が漂い、私の生存本能が「あれに触れれば、肌も肉も瞬時に腐り落ちる」と警鐘を鳴らし続けた。
さらに上を見上げれば、そこにはコウモリの耳と、蜘蛛のような無数の多眼が不気味に混ざり合った、異形の貌があった。
裂けた口から覗くのは、狂ったように列をなす、幾重もの鋭利な牙。そして、暗闇の中で青く、冷たく燃える瞳と視線がぶつかった瞬間、私の体温は完全に消え失せた。
それは、肉体を壊す単純な暴力ではない。心臓の奥にある魂そのものを直接掴み、無理やり引き抜くような、絶対的な捕食者の視線。
不意に、静まり返った森に、耳を劈く女性の金切り声が響き渡った。
あまりの高音に反射的に耳を塞ぐ。けれど、その悲鳴の主は誰でもない。この怪物の喉の奥から発せられたものだった。
あまりにおぞましく、あまりに悲痛な、この世の終わりのような慟哭。
それは私の精神を容赦なくかき乱し、逃げ出したいという本能と、もうどうにもできないという絶望を、ドロドロに混濁させていく。
私はただ、その圧倒的な死の化身を前に、飲み込まれるのを待つ、絶望を噛みしめることしかできなかった。




