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森の思い出

ガタゴトと、硬く乾いた車輪が石畳を叩く振動が、座席の薄いクッションを突き抜けて背骨の芯にまで伝わる。

 窓の外を流れていく景色は、私がこれまでの人生で何度も目にしてきた、見慣れたこの街の風景だ。午後の柔らかな光を浴びて行き交う人々、香辛料や焼きたてのパンの匂いを漂わせる軒を連ねる商店、広場に響く子供たちの活気ある声。昨日までと同じ、営みの音が溢れる景色のはずなのに、今はまるで色彩の抜け落ちた古い絵画のように、ひどく遠く、異質なものに見えた。


「……っ」


喉の奥からせり上がる熱い塊を抑えきれず、一度溢れ出した涙は、もう止める術を知らなかった。

 視界がじわりと滲んで、窓から差し込む光の粒が不規則に歪んでいく。私は震える手で、掌のなかに残された唯一の温もり――アライアスから贈られた、細い銀の指輪をそっと指先でなぞった。繊細な細工が施されたその銀の冷たさが、皮肉にも彼と過ごした日々の熱を思い出させる。

 この指輪をはめているときだけは、どんな理不尽な世界からも守られているような気がしていた。けれど今、私の手元にあるのは、無機質な貴金属の感触と、彼を置いて去らねばならないという、胸を焼き焦がすような喪失感だけだった。


涙の幕の向こう側で目を閉じれば、彼との鮮烈な出会いが、つい昨日のことのように蘇る。


あの日も、今日のように雲一つない、澄みわたるような天気の日だった。

 日々を食いつなぐため、私はいつものように森の奥深くで、湿り気を帯びた土の匂いを嗅ぎ分けながら薬草や食材を集めていた。背負った籠のずっしりとした重みを肩に感じながら、お気に入りの隠れ家である、蔦の絡まった古びた山小屋へと足を運んだ時のことだ。


湿った木の扉を開けた瞬間、生臭い鉄の匂いが鼻腔を突いた。


「大変……!?」


西日の差し込む板張りの床に、一人の青年が倒れ伏していた。

 質の良い生地で仕立てられた服は泥と脂に汚れ、右腕の皮膚を酷く切り裂いて、どろりとした鮮血が床を汚している。兵士だろうか。私はすぐさま薬草の詰まった籠を放り出し、地下へと続く急な階段を駆け下りた。


「ごめんね、ココ。起こしちゃった?」


地下室の隅、古い毛布の上で丸まっていた、炭のように黒い毛に覆われたふかふかのココが、私の慌ただしい足音にぴくりと耳を動かして目を覚ました。ココは大きなあくびを一つして、琥珀色の瞳で不思議そうにこちらを見上げている。


時間がない。私は夜な夜な街の噴水まで足を運び、人目を忍んで汲んでおいたストックの水を、手早く重い銅製の釜に流し込んだ。

 乾燥させた苔の中に保管しておいた、鈍く光る「火炎石」を石礫で割り、薪の隙間に放り込む。パチパチとはぜる乾いた音が地下室に響き、石から放たれる魔力を帯びた熱が、瞬く間に薪を黒く焦がし始めた。


「流石、採れたての火炎石ね。火力が違うわ」


煮え立つ湯の中に、保存瓶から取り出したオークとカエデの粘り気のある樹液を適量、慎重に落とす。さらに、すり鉢で丁寧に粉末にしておいたオトギリソウとアザミを加えた。そして、迷った末に、奥の棚の小瓶に僅かしか残っていない貴重なアイブライトも、願いを込めるように贅沢に振りかける。

 立ち上る真っ白な湯気の中に、ツンとした野草の香りと、精製されたポーション独特の甘い香りが混じり始める。蒸留器を通し、一滴ずつ抽出されたのは、森の深淵を写し取ったような、美しい深緑色をしたコップ一杯の回復薬だった。


「よし、上出来」


私は片手で、換毛期に集めたココの抜け毛をたっぷりと詰めて手作りした、雲のように柔らかい敷布団を掴み、階段を一段飛ばしで駆け上がった。ココはそれが新しい遊びだと勘違いしたのか、「キュイ!」と高い声を出しながら、ずるずると引きずられる布団にじゃれついてついてくる。


「すぐ済ませるからね。……もう大丈夫よ」


意識を失っている青年の、痛々しく開いた傷口に、木のヘラで丁寧に深緑のポーションを塗り広げていく。

 薬が組織に染み渡り、再生を促す刺激があったのだろう。青年は眉をひそめて苦悶の表情を浮かべ、重そうな瞼をゆっくりと持ち上げた。


「……君は……?」


「私はイユ。安心して、もう手当ては済ませたわ。他に痛むところはない?」


「わ、私は……アライアス。狩猟に行った帰りに、帰りに…………れて」


アライアスと名乗った彼は、焦点の定まらない瞳で、力なく掠れた声で何かを言い淀んでいた。きっと、不慣れな森で道に迷い、鋭い枝か何かで深く切ってしまったのだろう。あるいは――。


「大丈夫よ、アライアス。密猟のことは誰にも言わないわ。私だって、たまにウサギを狩っているもの」


「あっ、あぁ……。それは、助かるよ」


彼は何かを言いかけたまま、拍子抜けしたような、毒気を抜かれたような顔をして黙り込んだ。

 山小屋の隙間から入り込む夜風が、汗ばんだ肌に冷たい。私は彼を、地熱でいくぶん暖かい地下室へ運ぶことにした。


「ここは寒いから、地下へ行きましょう」


ふらつく彼の腕を自分の肩に乗せ、体を引きずるようにして支える。意識がはっきりしていて良かった。そうでなければ、これほど体格の良い彼を、滑車を回して小麦粉用の昇降機に乗せて運ばなければならないところだった。


「ほら、ココ、行くよ」


ココが自分の抜け毛が詰まった布団を、小さな口で器用に噛み、ずりずりと地下へ引きずってついてきてくれる。アライアスをふかふかの布団に横にならせると、彼はすぐに身を起こし、冷たい石壁に背を預けて、包帯代わりの布を巻いた腕を庇った。


「まだ、痛むの?」


「ああ。……いや、それよりも、私の話を聞い――」


その時だった。

 頭上の上階で、扉が壊れんばかりに乱暴に開く乾いた音と共に、粗野な数人の男たちの話し声が地下まで飛び込んできた。


『こんなところに、薄汚いボロ小屋が。中を調べるぞ』


床板がミシリ、ミシリと嫌な音を立てて軋む。その振動が私たちの頭上で響くたび、心臓の鼓動が早まる。私とアライアスは暗がりの中で顔を見合わせ、ぴたりと息を殺した。


『冗談だろ。最近、この森にもスケイス(魔物)が出たって噂だ。行きたきゃ一人で行け』

『戦うために雇われたんだろ。さっさと剣を抜け、腰抜けが!』

『デカい声を出すな』


空気が凍りつくような緊張が走った、その瞬間だった。

 私の足元で丸まっていたはずのココが、それまでの愛くるしい様子からは想像もつかないような声を上げた。

 それは聞き慣れた鳴き声などではなく、夜の闇を物理的に切り裂くような、子供の悲鳴を幾重にも重ねたような、おぞましく不気味な咆哮だった。


『ヤバい!! 出たぞ!! スケイルだ!』


上階から、なりふり構わず土足を鳴らし、凄まじい勢いで遠ざかっていく足音が聞こえる。どうやら彼らは、ココの異様な声に生きた心地を失い、逃げ出したようだった。


「……」

「……」


再び訪れた静まり返った地下室で、私とアライアスは、何事もなかったかのように前脚で顔を拭い、再び大きなあくびをしているココを、ただ呆然と凝視していた――。

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