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色の戻る世界

 あれから、どれだけの時を眠りの淵で過ごしたのだろう。

 意識が浮上するたびに、視界の端にはいつもルドラさんの姿があった。額のタオルを替えてくれ、汚れを拭い、飲み込めぬ薬を根気強く飲ませてくれる。見ず知らずの、どこの誰とも分からぬ私を、これほどまでに懸命に介抱してくれるなんて。

 掠れた声さえ出せない私は、ただその温もりに涙を堪え、心の中で幾度も感謝を捧げることしかできなかった。


 再びまぶたを閉じ、次に開けた時には、窓から差し込んでいた光は消え、部屋は柔らかな夜の闇に包まれていた。

 時が経つにつれて、喉を焼いていたあの凄まじい痛みが、劇的に引いていくのを感じる。それと同時に、泥のように重かった手足にも少しずつ力が戻ってきた。


 何もかもを失い、絶望の底にいた私にとって、この小さな肉体の変化がどれほど救いになったことか。同時に、ルドラさんへの溢れるような感謝が、もう胸の内に抑えきれなくなっていた。


(私はこれから、どうやって彼女にお返しをすればいいんだろう……)


 文字通り、今の私は何も持っていない。故郷も、家も、職も、財産も。指に光るアライアスの指輪だけが、私の世界の全てだった。

 少し考えを巡らせただけで、まだ癒えぬ体はすぐに疲労を訴え、私は再びまどろみの中へと落ちていった。


 次に目が覚めた時、心地よい朝の光が部屋を満たしていた。

 ふと、ドアの向こうから話し声が聞こえてくる。喉の痛みはすっかり治まり、首を動かせるようになっていた。私はドアの方へ視線を向け、森の生活で培われた鋭い聴覚を研ぎ澄ませた。


「いいじゃないか、姉さん」


 弾むような、若い青年の声。ルドラさんの弟だろうか。


「ダメよ。彼女はまだ治っていないの。会わせるわけにはいかないわ」


 ルドラさんの、毅然とした声だ。


「僕が彼女を見つけて、助けたんだ。少し話すぐらいいいじゃないか」

「確かにそうね。でも、あなたは『仕事』の途中で彼女を見つけた。だったら、彼女が治るまでは、仕事の当事者として待つべきじゃないかしら? さっきも言ったけれど、まだ完全には治っていないのよ。あなたが行ったりしたら、混乱するでしょうし、何より無理に話をさせることになるわ。こんなこと、言わなくてもわかるでしょ?」

「そ、それはそうだけど……ただ心配なだけで……」

「毎日報告してあげてるでしょ」

「う、うん……」


 ルドラさんの正論に、青年は気圧されているようだ。


「ヴァンスから聞いたけれど、今日は朝から訓練があるんでしょ? また遅刻するわよ?」

「あぁー! そうだ! まずい!!」


 ドタバタと廊下を駆け、階段を転がるように降りていく鎧の音が響く。

騎士だったのだろうか。


「やれやれ、まったく。いつまで経っても成長しないんだから……」


 呆れたようなため息と共に、ドアが開いた。いつものように、盆に乗せた食事を運んでくるルドラさんと目が合う。

 彼女は私が体を動かしているのを見て、驚いたように、けれどすぐに優しい微笑みを浮かべた。


「あら、首が動かせるようになったのね」


 私は痛みが、ぶり返すのを少し恐れながらも、思い切って彼女に声を届けることにした。


「……ルドラさん、ありがとう……」


 驚いたことに、喉の痛みはほとんどなかった。声はまだ少し震えていたけれど、はっきりと想いを乗せることができた。そして不思議なことに、今まで感じなかった激しい空腹感が、胃の奥からせり上がってくる。


「あらあら、声は大丈夫そうね。どうかしら、喉の痛みは?」

「おかげさまで……もう痛みは、すっかり引きました」

「本当に? はぁ〜……よかった。だったら、温かい食事でも良かったかもね」


 ルドラさんはいつものように私の体を支えてくれ、私はベッドのヘッドボードに背を預けて上体を起こした。


「温かい食事の方がいいかしら?」

「……何でも、大丈夫です。ありがとうございます」


 ルドラさんがいつものように食べさせてくれようとしたけれど、私は自分の手でスプーンを取りたいと申し出た。


 今日の食事は、コーンにニンジン、タマネギ、ジャガイモが入った、彩り豊かな野菜のスープだった。喉の腫れが引いたとはいえ、人肌に冷まされたスープが、傷ついた粘膜に染み渡るように心地よい。


 今までは痛みで味が分からなかったけれど、今日はしっかりと素材の甘みを感じることができた。さらに、蜂蜜をぬるま湯で割った飲み物と、胃に優しい大根おろし。ルドラさんが私の体のことを考え、どれほど心を尽くして作ってくれたのかが伝わってきて、食事の美味しさと共に、涙が溢れる。


「……とても、美味しいです」


「ンフフ♪ 良かったわ」


 ルドラさんは、心底ホッとしたように笑った。そしてそっと、タオルで私の涙を拭いてくれた。


「いつも、美味しいかどうか分からなかったから、モヤモヤして不安で仕方なかったのよ。本当は口に合わなくて、無理に食べさせてしまっているんじゃないかって。……でも本当に、良かったわ」


 彼女の飾らない言葉が、スープと共に、温かく私の心を満たしていった。

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