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希望の灯火

 私は、死んだはずだった。

 意識の細い糸がぷつりと途切れる直前、肺を内側から焼き焦がすような塩水の苦しみと、視界の端で遠のいていくアライアスの愛おしい面影を、私は確かに魂に刻みつけたはずだった。なのに、今、私の瞳には、ぼんやりと淡い光を反射する「少しヒビの入った白い天井」が映り込んでいる。


 ……夢なのだろうか。それとも、死後の世界というやつなのだろうか。

 混濁した思考のまま視線をわずかに落とせば、そこには見覚えのある自分の体があった。清潔に整えられたベッドに横たわり、薄着のまま心細げに仰向けにされている。指先一つ動かすことさえ億劫なほどに体は鉛のように重いが、肌に触れるシーツの、陽に干されたような乾いた感触が、ここがもはや冷たく湿った海の上ではないことを残酷なほど正確に伝えてくる。


(嫌な予感がする……)


 無慈悲な運命から助かったのか、それとも、また別の地獄へと迷い込んだのか。喉の奥が、鋭利な刃物で引き裂かれたように痛み、何かを言おうとしても、ひび割れた唇から掠れた呼気が漏れるだけだ。一度は消え去ったはずの恐怖の種が、再び心臓の奥底で小さく、けれど毒々しく脈打ち始める。


 その時だった。視界の外で「ギーッ」という、手入れの届いていない古びた木製ドアの鳴る音が、静かな室内に鋭く響いた。

 誰かが、こちらへ入ってくる。

 これから何をされるのか、私が眠っている間に何をされていたのか。いっそのこと、あのまま暗い波に飲まれて死んでいた方が、どれほど幸せだったろうか。そんな暗澹たる思考が頭をよぎるなか、床を鳴らして近づいてくる足音は、まるで死神の足音のように不気味に、規則正しく響いた。


 身を竦ませ、毛布を握りしめようとする私を見下ろすようにして、一人の女性が視界に入ってきた。

 その容姿を認めた瞬間、私は思わず息を呑む。

 陽光を浴びたような日焼けした健康的でしなやかな肌に、すっと意志の強そうに上がった目尻。そして、深く、透き通るような群青色の瞳。それは、故郷のグリンヴァルトで私を泥のように扱い、蔑んできた、あの芯の強い貴族の女性たちにどこか似ていた。反射的に全身が強張り、さらに深い拒絶と恐怖が私を支配しようとする。


「よかった、目が覚めたようね」


 しかし、彼女が発した声は、私の記憶にこびりついている傲慢な貴族たちの冷徹なものとは、正反対だった。

 低く落ち着きがあり、けれど芯に確かな温かみを感じさせる響き。そして何より、彼女がふっと表情を和らげると、あれほど鋭かった目尻が驚くほど幼く下がり、まるでひだまりのような穏やかな笑顔に変わったのだ。


 手入れの行き届いた艶やかな茶色の髪は、活動的な高い位置でひとつに結い上げられ、その服装もまたどこか親しみやすさを感じさせた。高級な素材を使いつつも、機能性を重視して袖を逞しくまくり上げ、大きなポケットがいくつも付いた丈夫そうなベルトを腰に巻いている。それは、私が故郷のパン屋で共に汗を流して働いていた人々のような、快活で誇り高い「職人」の佇まいそのものだった。


「こ……ここは……」


 自分のものとは思えないほど弱々しく、砂を噛むような掠れ声。ただ一言喋るだけで、喉の粘膜に真っ赤に焼けた鉄棒を直接押し当てられたような激痛が走り、私は顔を歪めた。


「大丈夫、大丈夫よ」


 女性は慈しむようにそう言って、綺麗な白いシーツを、不安にあらわな私の体にそっとかけ直してくれた。その手つきは驚くほど優しく、ためらいがない。

 彼女は傍らにあった木製の椅子を引き寄せると、そこへ腰を下ろして、私を真っ直ぐに、けれど決して威圧することなく見つめた。


「ごめんなさいね。怪我がないか確かめるために、先に服を脱がしてしまったの。でも安心して。今は私とノス婆しかここにいないから。幸い、あなたはどこにもひどい外傷はしていなかったわ」


 彼女の飾らない声が、凍えて震える私の心をゆっくりと、氷が解けるように溶かしていく。


「ただ、喉はひどいやけどのようになっているわ。口の中もね。でも大丈夫。あなたが意識を失っている間に、なんとか特効の薬を飲ませておいたから。あと数日安静にしていれば治るはずよ。痛みも次第に引いていくわ」


「あ、あな……」


 彼女の名前を聞こうと、必死に問いかけようとした時。

 彼女は私の動かない左手の方に、そっと自分の厚みのある手を添えた。両手で包み込むような、その確かな生命の温もりに、私の心臓が大きく跳ねる。


「私はルドラ。あなたがどこから、どうやって来たかは分からないけれど。ここは島国、ゼリュキアよ。そして貿易都市のガルマカリス。あなたのいる部屋は、ノス婆のお店……『ヴァン・ルミナ』。航海用品を専門に扱っている店よ。ここは、そうね……ただの空き部屋。だから、何も心配せずにゆっくり休んで、まずは体を治してね」


 ゼリュキア。

 それは、戦争中の隣国の名。私の故郷であるグリンヴァルトが、憎しみを持って戦っていたはずの、恐ろしい敵国の名だった。

 けれど、その忌まわしいはずの響きさえ、今の私には、ルドラから伝わる手の温もりに優しく塗り潰されて聞こえた。


 熱いものが、目尻から堰を切ったように溢れ出した。

 あの冷たい海に全てを奪われ、もう枯れ果てたと思っていた涙が、一筋、また一筋と頬を伝ってシーツを濡らしていく。

 ルドラの屈託のない笑顔、迷いのない優しい言葉、そして自分自身の溢れる涙。その一つ一つが、まだ私がこの過酷な世界で生きているのだと、死の深淵から確かに引き戻されたのだと、叫ぶように教えてくれていた。

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