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最期の祈り

 視界の端を、一匹の小さな蟹がカサカサと無機質な音を立てて通り過ぎていく。

 その規則正しい脚の動きを、混濁した意識の中でもう一度だけ眺めようとした、両手で体を起こした。


まさにその時だった。


 突如として、私の全身が内側から爆発するかのように激しくガタガタと震え始めた。

 それは単なる寒さからくるものではない。私の意思とは無関係に、剥き出しになった神経が一本ずつ悲鳴を上げているような、暴力的で、かつ根源的な痙攣だ。抗う術など何一つ残されておらず、私は再び濡れた冷酷な砂の上に崩れ落ちた。もはや、指一本を動かす僅かな力さえ、私の体からは絞り尽くされていた。


(痛い……痛い……っ!)


 叫ぼうとしても、声など出るはずもなかった。ただ、今にもぜそうな胸の内側で、幼子のように泣きながらそう連呼し続けるしかなかった。涙さえも無慈悲な海水に奪い尽くされ、乾き果てた眼球が、異様な熱を帯びて眼窩の奥をじりじりと焼いていく。


 「寒い」という感覚は、いつしか限界を超えて麻痺していた。代わりに全身を巨大な万力で締め付けられるような、鈍く重い痛みが這い回る。骨の一本一本が軋み、音を立てて砕けるような激痛が、絶え間なく押し寄せる波のように繰り返される。

 這うことすら、指を立てることすら叶わない。ただ孤独な、誰もいない砂浜で、私はこの終わりのない責め苦を、ただ受動的に受け入れるしかなかった。


 全身を巡る痛みに感覚が慣れてくると、今度は喉の奥が、真っ赤に熱した炭を飲み込んだような熱を帯び始めた。

 海水を無理やり吸い込み、高濃度の塩分によって容赦なく焼かれたであろう喉の粘膜は、もうボロボロに剥がれ落ちているのだろう。鋭い灼熱が喉を完全に支配し、呼吸をひとつ繰り返すたびに、そこを熱い鉄串で突き刺されるような錯覚に襲われる。


 舌は毒を盛られたように腫れ上がり、もはや口の中に収まりきらないほどに不格好に膨れ上がっていた。唾液は一滴も出ず、口内は強力な接着剤を塗りたくったように、不快な感触で張り付いている。

 冷たい潮風が吹き付けているはずなのに、頭の芯だけが沸騰しそうに熱い。凍えるような極寒と、焼けつくような酷暑が、一瞬の間に入れ替わりながら私の肉体を内側から壊していく。そのあまりに残酷な過程を、私は意識を失うことさえ許されず、鮮明に味わわされていた。


 もう、生きる気力など微塵も残っていない。

 ただ、この止まない激しい痛みと、胸を抉るような深い悲しみから解放されたい。一秒でも早く、この意識を終わらせてほしい。願うのは、もはやそれだけだった。


 ふと、重い視線がわずかに動いた。

 気付けば、海水の流れに身を任せていた私は、最初とは正反対の方向を向かされていた。


 そこに、彼らがいた。

 あの船底で、必死に手を組み祈っていた男性。ボロボロの赤い服を着ていた女性。そして、私に指を差して指輪の事を教えてくれた、あの幼い子供。

 皆、光を失った虚ろな目を開けたまま、身動き一つせず、ただそこに無造作に横たわっていた。

 打ち上げられた船の無残な瓦礫や、得体の知れない海のゴミと共に、波に運ばれてきた「動かぬもの」たち。


(……もうすぐ、私も彼らのようになるのね)


 こんな未来が訪れるなるなんて、想像すらできなかった。パン屋で粉にまみれて働いていた頃の私には、こんな寂しい終わりがあるなんて、夢にも思わなかった。

 けれど、不思議と、もう恐怖はなかった。ただ、体の末端から感覚が砂に溶けるように消えていくのと共に、まぶたを開けていることさえ疲れ果て、私はゆっくりと、世界を拒むように瞳を閉じた。


 自分の呼吸が、少しずつ、けれど確実に浅くなっていくのを感じる。

 今にも止まりそうな鼓動が、遠くの森で鳴る太鼓の音のように頼りない。

 もし楽になれるのなら、もう、それでもいいのかもしれない。


 意識が底知れぬ暗闇に落ちる寸前、私は最後に一つだけ、届かぬ祈りを捧げた。

 もしシャラゼリスに、この祈りが届くのならば、どうか。


 アライアスが、私のことを少しでも……一瞬でもいいから、長く覚えていてくれますように。

 私という一人の人間が、この世界に確かに存在し、アライアスの事を、心から愛していたことを、どうか忘れないでいてくれますように。


 遠くで、どこまでも穏やかな潮騒が聞こえる。

 私は、深い、深い、永遠の眠りの中へと沈んでいった。

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